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『ペトリコール』第九話

■9

 町の境目にある小さな社の前で梨恵は立ち止った。考え事をしながら歩いている時、不思議とこの社の前で立ち止まることが多い。確かに神様に頼りたいくらい悩んでいるだけに、これを見るだけですこし落ち着くような気になっていた。

 ここのところ、天気予報が当たったためしがない。

 天気予報が外れている……というより、この町だけ雨が降っていることが多い。

 外にでた時は雨が降っていたなのに、最寄りのニュー有宮駅に着く頃にはいつのまにか止んでいる――というより、地面は乾いていて雨が降った形跡すらない。そのため傘を手放せなくなったが、電車の中で自分だけが傘を持っていることがよくあった。

 精神的にはかなり参っていたが、それでも仕事を休む訳にはいかない。三〇代でのアルバイト生活。今の職を失って次を見つける自信がない。

 あの日からもおかしなことは続いている。

『まもーるもーせぇめるもー……』

 どこからともなく聴こえてくる歌声に心臓が飛びでそうになった。

 よくよく耳を澄ませてみると風の音がそう聴こえるだけだった。だが気に留めずに聴き流そうとするとまた歌に聞こえる。

 決まってそれは梨恵が布団に入って、眠気で瞼を閉じようとした頃に訪れる。

『まもーるもーせぇめるもー……』

 目を閉じていると歌が聞こえ、目を開けると風の音になる。気のせいなのかそうでないのか徐々に判断がつかなくなり、朝まで眠れないことも少なくなかった。

 ある時、ためしにその音の正体を探してみると、あっさり謎は解けた。

 キッチンのシンクにある排水口。それが音の正体だった。そこからひんやりとした空気が抜け、あの音がしていたのだ。わかってみればどうということはない。

 思わず大きな溜め息を吐き、ノイローゼ気味な自分を責めた。

 排水管の底、下水道をアレが蠢いている姿がまた目に浮かび、頬を叩いて振り払った。

「渡辺さん、千円」

 千円を徴収しにくる老人も相変わらずだ。

 心細い日々を相談する相手もいなくなった。大輔も、舞も。

 体重が4キロ減った。


「大輔、会いたいよぉ……大輔ぇ、助けてぇ……」

 花菜が寝静まってからキッチンで泣く。それが日課になっていた。大輔の写真をスマホで見ながら。

 彼と過ごした一年間で撮影した写真は多くはない。

 数えてみると一四枚。もっとたくさん撮っておけばよかったと後悔ばかりする。

 この日の夜も花菜が寝たのを確認してからキッチンで大輔の写真を眺め、物言わぬその姿にひとり話しかけていた。

「大輔ぇ……帰ってきてよ、どこにいるの? お金ならあげるから、ねえ……」

 泣き言を吐き、少ない思い出を振り返っていく。だが写真を見ていうち、ふと違和感を覚える。

「あれ……?」

 大輔との一四枚ぽっちの画像。どれも近所や外食の際に、不意の隙を狙って一方的に撮影したものばかりだ。

 だからどの写真も大輔の表情にほとんど動きはない……なかった、はずだった。

 一枚一枚、スマホ画面をスワイプしていく毎に、写真の大輔の顔面が徐々に歪んでいく。

 一枚目は無表情。二枚目から徐々に中心に渦を巻くように歪みはじめ、一〇枚目に至ってはもはや人の顔と言えないほど、ぐにゃぐにゃだった。

「大輔の写真が……」

 心の中で『恐ろしい』と『悲しい』が渦を巻き混じり合ってゆく。複雑に情緒が乱されていった。

 大輔の顔面が大きく歪むほど、思い出までが歪み、そんな思い出は最初からなかったと錯覚させてゆく。

 一一枚目。福笑いのようなに変わり果ててしまった大輔の背後の空。飛行機の影が黒く写り込んでいた。何度も繰り返しこの写真を見つめ続けてきたからわかる――。

 こんなものはなかった、と。

 一二枚目。昼間のカフェの写真だったが、背景は真っ暗だった。まるで夜だが、確かにこの写真は昼間の写真だったはずだ。それなのに塗りつぶしたように黒一色。

 一三枚目に至ってはなにも写っていない……いや、夜空の写真だった。

 そして最後の写真。

「花火だ……」

 最後の写真は、夜空に咲く綺麗な花火の写真だった。ただ花火と聞いて連想する菊のような大輪の花火ではなく、夜の闇に枝垂桜さながらに地上へ伸びていく火の桜。

 そういえば以前にもスマホの中に撮った覚えのない花火の写真があった。いつか舞に言われて気づいたものだ。

 一三枚目と一四枚目で、大輔の姿すらまるまるいなくなってしまった。


『♪』

 突然の着信メロディと共にスマホが震えた。

 着信者の番号は通知されているが知らない番号からだった。深呼吸をして、通話を押す。

「もしもし……」

『あー、えっと西川梨恵さん……で間違いない?』

 聞き覚えのない男性の声だった。

 自分の名前を知っていることから、妙なセールスの類ではなさそうだ。

 いかにも喋り慣れているといった感じの男は、イントネーションから関西人らしいということだけはわかった。

「そうですけど……、あの、どちらさまですか」

『えっとねー、自分は林大輔くんの友達やねんけどね、随分前に緊急の連絡先っちゅうてこの番号と西川梨恵さんの名前を聞いててね。まぁそのーそれでかけたんですわ』

「大輔? あの、大輔はどこにいるんですか!」

 思わぬ『大輔』の名前。思わず興奮を隠しきれなかった。

『あれ? あー……そういう感じ?』

「え、なんですか」

『ああ、ぼくらもねぇ、林大輔くんを探してるんですわ。どこにおるんかわからんくて。返済日になっても全然連絡くれやんから、どないしとんや、思て。彼の番号かけても全然でよらんやろ? せやからこっちかけたんやけどな』

「返済って、大輔がお金借りてたんですか」

『それも知らんかったんかいな。全然ほんまのこと話してもらってへんねんなぁ、あかんで自分。そんな奴と付き合ってたら』

「そんなことより、大輔に一体なにがあったんですか!」

『いや、だからぁ~……自分らもそれがわからんっちゅうてるやん。なんか、えらい怪我して入院してるって人づてに聞いたんやけどな。せやからあんたやったら病院どこか知っとるか思たんやけど。はあ~あ、無駄骨かいな』

「怪我? 入院? それってどこから聞いたんですか!」

 男はこちらの迫力に圧されたのか、『じゃあそういうことで』と一方的に切ってしまった。

「もしもし? もしもし!」

 通話が切れたスマホに向かって何度も呼びかけた。頭に血が上り、相手から返事がない理由がすぐにわからなかった。

 ようやく理解が追いつくと、スマホを持った手を力なく垂らしそのままへたり込む。

 大輔が怪我……? 入院って……

「えっ、あれ?」

 怪我と入院、突然連絡が取れなくなったという話を近く聞いた気がする。

 それが舞と森谷だとすぐ思い至った。

「そんな、うそでしょ」

 大輔、舞、森谷――みんな近しい人間だ。もしかするとこの町に関係しているのだろうか。いや、この町というよりも……

 おそるおそる振り返る。

 タンタントンカラリンシャンテテテのテ

 それは花菜が寝ている奥の部屋から聞こえた。


 翌日、体調不良を言い訳にしてバイトを休んだ。

 ストレスのせいでとてもじゃないが働く気にはなれなかった。どこか遊びに行くような元気などないが、気分転換でもしなければ息が詰まりそうだ。

 体調が悪くともあの部屋に一日中いる気にはなれない。

 重い体を持ち上げ町からでると、ふらつく足取りで駅前のカフェに入った。腰を落ち着かせたテーブルで、注文したアイスカフェラテの氷が溶けるのをただぼーっと眺めていた。

 真麻が大阪にやってくる気配はない。引っ越しもできない。大輔も、舞もいない。

 せめて、ふたりになにが起こったのかくらいわかれば……

 美容院の店長は、舞のことをいくら聞いても「私にもわからない」の一点張りだった。

 それ以上考えるのはやめた。わかったところで今さらどうにもならない。きっとふたりとも、自分の元にはもう戻ってはこないのだ。

 ――一体、なにをどうすればいいの

「誰かたすけて……」

 こんなはずじゃなかった。

 こんな孤独になるなんて、想像してもいなかった。このまま逃げてしまいたい、何度も考えた。そのたび、決まって花菜の存在が梨恵の心を引き留める。

 最近の花菜はおかしい。だからと言ってなにかしたわけではない。ただ気味が悪いだけだ。

 それどころか、花菜は被害者だ。何もかも失ってしまった幼い姪っ子。それを見捨てることなどできるはずもない。

 一方で心の隅に居つく、舞や大輔の不幸に〝花菜がかかわっているかもしれない〟という疑念。その疑念が徐々に花菜を得体の知れないモノにしていく気がしていた。

「えっ、『倍返し』知らんの!」

「知らんってそんなん。なんなんそれ? どうせ東京で流行ってるやつちゃうん。あんたミーハーやし」

 不意にとなりのテーブルではしゃぐ女子高生の会話が思考を遮った。まだ学校の時間のはずだが、制服姿のままドラマの話で盛り上がっている。

「アホちゃう? 全国的に流行ってるんやで! 知らんやろうけど大阪が舞台やし、めっちゃおもろいらしいで」

「観てないんかい!」

 豪快に笑い合い、ひとりの女子高生が「でも気になるから調べてみよーっと」とスマホで調べはじめた。

 その様子をなんとなく眺めていて、ふとグラスの横に置いた自分のスマホを見た。

「あっ」

 そうだった! なんで今まで気づかなかったんだろう。

 スマホを手に取り、検索バーにあの町の名を入れた。

《9件ヒットしました》

「えっ、すくな……!」

 考えられない件数だった。

 実在の町名でこれだけのすくなさは気味悪さを通り越して異常だ。さらにスクロールすると関連候補として何故か『きさらぎ駅』の記事が列挙されている。

 それでも検索網にかかるのとかからないのとでは大きく違う。気を取り直し、一番上に表示された候補をタップした。

『実在するのか。西成区とニュー有宮の間にある誰も知らない町』

 表れたのはブログ記事とその見出しだった。

 読み進めてみると廃墟や心霊スポットなどの探訪ブログのようだった。

《あくまで都市伝説って話だけど、この一帯ではナビが利かないという噂。

 兵庫県民のオカルターとしては是非とも探索したいヒリヒリした案件だ。

 結構いろいろなところで、こういった廃墟や心霊スポットなどの情報は収集しているけど、なぜかこの町の名前は一度もでてこなかった。

 おそらく、土地の人間しか知らない程度の超マニアックな噂なのだろう。

 っていうかこの時点でも実在しないフラグが立ってるけど、関係ないよね。突貫だ突貫! という訳で後日、リポートをアップするのでお楽しみに~》

 記事はそこで終わっていた。写真もないテキストだけの記事だったが、そのあとどうなったのかが気になる。

「……え、ない。これが最後の記事ってこと?」

 記事の最下層に《前の記事へ》と、《次の記事へ》というリンクがあるが、《次の記事へ》の方はいくらタップしても次に進まない。どうやらこれより新しい記事はないらしい。

 厭な予感がする。

『都市伝説』と呼ばれている我が町。そして、それを調べにいくと宣言したきり更新が途絶えたブログ。記事がアップされた年を見ると、《2006年》とあった。今から七年も前だ。

 他の八件のうち、七件目まで検索結果を確かめる。どれもオカルトやホラー系の記事ばかりで、更新した日付が古い。一応、すべて読んでみたがどれも大したことは書いていない。

 ただ、ひとつだけ共通しているのは『実在しない町』という記述。

 トイレのことや雨のこと、子供をひとりで水場に行かせてはいけない、など肝心なことはどこにもなかった。

「なんなのこれ……なんで、あの町についてなにも……、絶対おかしいよ」

 読んだ記事を飛ばしながら検索候補の下までスライドする。

 最後の、九番目の候補。

 それは他の候補とは違って《yahoo!知恵袋》のものだった。

 ユーザーの疑問や質問に他のユーザーが答える投稿型のFAQ。インターネットで最も利用されている質問箱だ。

『トイレにひとりで入ってはいけない町に住んでいます』

 質問のタイトルに思わず息を呑んだ。記事の日付は2003年、ヒットした中で最も古かった。

 そんな以前から知恵袋があったことにも驚きつつ、震える指先でそれをタップする。

《Q.私は数か月前、聞いたことのない名前の地域に引っ越してきました。はっきりとした地名を記載するのは避けますが、とにかくおかしなことだらけでなにから書けばいいのか迷っています。

 ひとまず列挙しますと、

 ・町中のトイレが使用禁止。息子(小1)の学校でもひとりでトイレに行かせないということを徹底。

 ・トイレに限らず、子供をひとりで水場に行かせてはいけない。(10歳までらしいです)

 ・空想上の神様がいて、町中の人がそれを恐れている。(どうやらこれが水場に現れるから、ということらしいです)

 ・町で出会う住人が老人しかいない。

 ・雨の日は誰も外にでず、店もほぼ全店休業。さらに親は学校に子供を迎えに行かねばならない。

 ・雨が降ると水回りを中心とした機器が不調になる。

 ・夏場、プールの授業がない。というよりプールはあるのに使用していない。

 ざっと挙げただけで、これだけあります。しかもこれは、強制に近いもので、守らないと村八分にされそうな空気すらあるのです。

 自治体や地域によって、大なり小なりそれぞれルールがあることは心得ています。ですが私が思うに、あまりにも顕著というか異様というか。

 この土地は大阪のとある場所にあるのですが、大阪生まれの私ですら聞いたことのない名前の町で、越してきた時は戸惑いました。

 それに『子供をひとりで水場に行かせてはいけない』と言われても、これまで逆のことを教育してきました。きっとこの記事を読んでいる人達もそうだと思います。急にそんなことを言われても徹底のしようがありません。

 これだけならここに書き込むこともなかったのですが、息子に異変が起こり始めたので困っています。

 普通、小学1年生ともなるとトイレくらいひとりで行きますよね。学校内ではなんとか徹底できても自宅では難しく、幾度となく息子はひとりでトイレに入りました。

 無論、このことを叱れるはずがありません。それが普通なのですから。しかし、ある時から急に息子のひとりごとが増え、友達ができたと喜んでいたはずなのに誰と遊ぶことも、外にでることもなく、ひとりきりの部屋でぶつぶつとなにかをつぶやくようになりました。

 妻も「変な黒い生き物」を見ると言いだして、私たち家族はいよいよ混乱しています。

 引っ越しも視野に入れはじめています。ですがその前にみなさんの知恵をお借りできたらと思い投稿しました。

 こんな習慣の町、聞いた事がありますか? 私たち家族は引っ越すべきでしょうか? 賢者のご意見賜りたく存じます。 2003.5》

「一緒だ……私と」

 質問者と自分の悩みが重なった。過去にも同じ苦しみを持った人間がいたことに共感を持つ。涙がでそうだった。

 泣きそうな気持を押え、この質問に対してどんな回答がついたのか確かめた。

《この質問に対する回答はありません》

 凍り付く。

 いくら質問が古いからといって、未回答なことなどあり得るだろうか。同じ境遇の人間に共感を抱いたのも束の間、答えのない苦しみに再び立たされた。

 改めてもう一度、その記事を読み返してみる。

 町は、駅から歩いて二〇分かからないほどの距離だ。

 そんな一画に誰も知らない町など、さすがに馬鹿馬鹿しい話だと思った。

「あ、聡がキューズモールに着いたって」

 となりにいた女子高生ふたりがスマホに届いたメッセージに席を立ち、店をでようとした。

「あの!」

 つい声をかけてしまった。

「え?」

 きょとんとした様子の女子高生に、思い切って訊ねてみることにした。

「あの……この近くに『誰も知らない町』があるって知ってるかな」

「えー! 誰も知らないってことはうちらも知らんっちゅうことやん」

 そう言ってふたりはおかしそうに笑った。構わずに町の名を告げる。

「……知ってる?」

「マジでわからへん」

 表情からは嘘を吐いているようには見えなかった。そもそも白を切る理由もないはずだ。

「ありがとう……」

 女子高生はすこし気の毒そうに小さく会釈して去って行った。

「本当に……知らなかった」

 ――じゃあ、私は一体どこに住んでいるの……異世界、とか?

 異世界という胡乱な響き。

 そんなわけがないとわかっていた。だが可能性として考えざるを得ない。また袋小路に迷い込んでしまいそうになっていた。

「……知恵袋だ。私も知恵袋に投稿してみよう」

 ふと閃いた妙案。

 できるだけ簡潔に。だけど、わかり易く。あの質問者を参考にしつつ、慎重に質問を書き込んだ。

 あの記事が古すぎて誰も答えなかったけど、今ならもしかすると誰か答えてくれるかもしれない。

 そう思いながら質問文を書き上げると、祈る気持ちで投稿ボタンをタップした。


《この質問はできません》


「えっ!」

 反射的に大きな声がでてしまい、店内の客たちの視線を集めてしまった。

 だがそんなことを気にしている余裕はない。

「も、もう一度戻ってタップし直せば」

 自分に言い聞かし、前の画面に戻る。時間をかけて慎重に書き上げた質問文はすべて消えていた。

「なんで……」

 気を取り直し、もう一度質問文を書き投稿を押した。だが結果は同じだった。

 その後、二度に渡って挑戦してみるが質問の投稿はできなかった。

 結果を目の当たりにして、思わず涙がこぼれる。

 疲れ切ってしまった。精神(ルビ/こころ)が疲弊し、なにもかも捨ててすべてから逃げてしまいたい気持ちだった。

 同じ苦しみを抱いていたはずの、あの質問者はその後どうしたのだろうか。もしかしたら死んだかもしれない。諦観めいた気持ちで再び質問記事を読み返す。そして、質問者の名が目に入った。

《投稿者:angel-a-19450313》

 この世でたったひとりの理解者だった。『angel-a-19450313』という人物が他人に思えなくなってきた。『angel-a-19450313』の文字列を撫でる。あなたが健在なら、助けてほしい。その思いが偶然を生んだ。

《コピー 共有 すべて選択 ウェブ検索》

「あっ」

 ほとんどのスマホは、表示されたテキストを撫でるようにタップすると文字列を指定できる。その状態で指を離せば《コピー 共有 すべて選択 ウェブ検索》と表示されるのだ。

 そうだ、町名で検索をかけたように『angel-a-19450313』を検索してみればいい。閃きのまま《ウェブ検索》をタップする。

《57件ヒットしました》

「やった!」

 直感は正しかった。

 列挙した候補をざっと見ていくと、オークションサイトの出品情報が多かった。どれもYahoo!オークション……いわゆる〝ヤフオク〟だ。

『angel-a-19450313』が出品しているのは、ランジェリーや小物、アクセサリーにバッグなどの女性を対象にした商品がほとんどだ。その中に時折、薬莢(ルビ/やっきょう)や竹でできた水筒など、首を傾げるような出品もあった。

「女の人……なのかな」

『angel(エンジェル)』というハンドルネームであることから、女性かもしれないと思った。

 質問文の印象から男性像を思い描いていたが、文の中で性別は言及していない。そう考えてみれば女性であることも充分考え得る。

「コンタクトが取れるかも……」

 出品情報の最新記事をタップする。それは新品のランジェリーで出品中の表示がされていた。ほかにもいくつか出品しているようだ。

 コンタクトするためには、どうすればいいか考えた。

「そうだ……買えばいいんだ」

《angel-a-19450313》が出品している全五品にすべて入札をする。そして、『即決価格』をタップした。うまくいけば、今日中に出品者からコメントがくるかもしれない。

 二時間後、《angel-a-19450313》からメールが届いた。



 時刻は一九時。千日前『味園ビル』に梨恵と花菜はいた。

 出品者からの落札メールに、手続きのどさくさ紛れに事情を簡単に記載し返信した。

《angel-a-19450313》はすぐに返事をくれた。そこで場所と時刻を指定されたのだ。

『商品の受け渡しも楽だし、ちょうどいい』と添えてあったことで梨恵は安心した。紛れもなく一〇年前のあの質問者であるとわかったからだ。

 本来ならひとりで訪問するつもりだったが、花菜を置いていくわけにはいかない。舞もいない今、連れてくるしかなかった。

 だが問題は場所……だ。

「りえちゃん、ここってなに屋さん?」

「ええっと、ここは……なに屋さん、かな……」

『味園ビル』の二階。狭い通路に店の看板や小物、自転車や荷物などが乱雑に置かれている。正面から人がきた時、どちらかが譲らなければすれ違えない狭さだ。

 ドアを開けっ広げにしている店も多く、覗き込めば一〇人入ればぎゅうぎゅうになるほど小さく狭い。好きな人間しか近寄らないような、不思議な場所だった。

 どの店も奇抜な個性を剥きだしにしていて、ファミコンをしながら飲める店や、フィギュアやサブカル系のもので埋め尽くされた深夜喫茶を銘打った店、ジビエ料理の店まである。まるで新宿ゴールデン街を彷彿とさせる場所だった。

 少なくとも子供を連れてくるようなところではない。

 恐る恐る奥へ進んでいく途中、奇抜な格好をした店員や、エレキギターを弾いてる客などと目が合った。通路はアルコールと煙草、それに揚げ物のにおいが立ち込めている。

「一体どんな人なんだろう……。こんなところでお店やってるなんて変わってる人なのかも」

 怖じ気づきそうになりながら、花菜の手を引き前に進む。

 Uの字に続く通路の途中に『BAR天使』はあった。《angel-a-19450313》が指定した店だ。

 時代を感じる白いレリーフの扉、看板はない。メールに目印が書いていなければわからないくらい、怪しげな雰囲気が前面に漂う店構えだった。しかも窓もない。ここが本当にその店かどうか確かめるには、白いレリーフの扉を開けるしかない。気合を入れなければとても無理だ。

「あの……すみません。ヤフオクで連絡した者です……」

 気合を入れた割に扉をわずかにしか開けず、おそるおそる声をかけた。なにかあったらすぐ逃げられるように構えながら。

「あら、いらっしゃーい! 営業前だから入って入って」

 中から愛嬌のいいハスキーボイスがふたりを店内に誘った。先入観なく花菜がわずかな隙間をこじ開けて入ってゆく。

「ちょっと、花菜ちゃん!」

「あらまあ! かわいいプリンセスや~ん! あ、そうや飴ちゃんあるで。コーラのやつとな、イチゴミルクとハッカのやつもあるで。なんでも言うて~、お姉ちゃんサービスしたるしな」

「お姉ちゃん……?」

 花菜が不思議がる口調で訊き返す。慌てて店内に入った。

「ダメだって勝手に先入っちゃ、すみません!」

「いいんやでぇ。今日は平日やし、どうせ暇やから。あなたも座りぃさ」

 うす暗い店内、ぼんやりと柔らかい明かりがカウンターを照れしている。点々とある間接照明が、妖美な空気を演出している。外観は怪しいが店内は落ち着いた印象だった。

「わざわざきてもろたし、奢るわ。飲み物なにがいい?」

「あ、いえ……私は」

 まあまあと言いつつ、女はドリンクのメニューを差しだした。

「カクテルやったら飲みやすいんちゃう。ほら、カシオレとかファジーネーブルとか。っちゅうか、作るん簡単やしそれにしとき」

 言われるがままファジーネーブルを頼み、花菜はカルピスを注文した。

 沈黙の店内にグラスに氷が転がる音が躍る。となりで花菜はそわそわした様子で店内をキョロキョロと見回していた。

「あの……」

「まあ、ドリンク作るまで待ちぃや」

 話を切りだそうとするが躱された。仕方なく黙ってドリンクができるのを待つ。

「それに先に商売の話からやろ? ……はい、おまたせ」

 そう言ってファジーネーブルとカルピスのグラスを差しだした。

「そうですね、折角落札したし……ありがとうございます」

「あんたのお目当ては別かもしらんけど、私にとっては立派な稼ぎやからね」

 そう言いって落札した商品をカウンターに並べた。

「まあ、わざわざきてもろたから浮いた送料ぶんっちゅうことでドリンクごちそうしとくわ」

 そうして女はひとつずつ簡単に商品の説明をした。

「っちゅうことで占めて一二〇〇〇円」

「えっ、もっと高かったはずじゃ……」

「ええねんええねん。まあ、せっかくの縁やし負けとくわ」

「いいんですか? ……ありがとうございます」

 お礼を言って女の顔を見ると思わず固まってしまった。

 口を開けたまま固まっているのを、花菜が怪訝な顔つきで覗き込んだ。

 その女は――男だった。

「なんやの。どうしたん」

「あ、いえ、あの、なんというかその……女性だと」

「んん? もしかしてあなた、私のことおっさんやって言いたいん」

 ムッとした表情で迫った。慌てて「違うんです!」と安直な言葉で抗った。

「ほんまに~? 嘘言うてたらしばくでぇ」

「ほ、本当ですって! 思ってたより綺麗な人だな……って、あの」

 女(?)は無言でこちらを睨みつけた。

 その眼光に耐えられず、ファジーネーブルに逃げようとグラスに口をつける。

 直後、ぷぷっと噴きだしたかと思うと女は豪快に笑いだした。

「なぁ~んちゃって、焦った? あなた、いい人ねぇ。私みたいなもんにお世辞でも綺麗やとか言うて、あっはは!」

「おばさんはおじさんなの?」

 絶妙な質問をする花菜に対し、女は「そうやでぇ、せやけどせめて『おじさん』やなくて『お兄ちゃん』って聞いてほしかったわぁ」と笑った。

 うす暗い照明のせいで気づくまでに時間がかかったが、改めて見てみると男にしか見えない。所謂『オネエ』というものだろうか。

「ピンポンピンポォ~ン! 正解~。私は男でした~……って言うても、ビジネスオネエやけどねぇ。今の時代、キャラがないとよう売れんからね。びっくりした?」

 あー、とかうーとか、曖昧な返事しかできなかった。特異な体験に頭がついていかない。

「アカウントにもあるけど、私は『アンジェラ』。アンジェリーナ・ジョリーみたく『アンジー』って呼んでな」

「おじさんは外国の人なの」

「コラコラお姫さん~、私のことは『お姉ちゃん』か『アンジー』って呼びやぁ。でも外国っていうのは正解やね。『不思議の国』出身」

 カウンターに立つアンジーの恰好はノースリーブに金髪のロング、耳には大きなピアスと唇に真っ赤なルージュを引いていた。第一印象で女性だと思うのは自然だ。

 ただ声は最初から違和感があった。だからといってそれだけで判別するのは難易度が高すぎる。

「あの町に住んでるんやて?」

 ドリンクの減りを見計らってアンジーは話を切りだした。

 無言のままうなずくのを見て、憐れむように眉をひそめる。

「大変やったね。私みたいなんが役に立てるかわからんけど、その子守ったらなあかんもんね」

 いつのまにか椅子の上で眠った花菜にアンジーは目をやった。

「それにしてもまさか一〇年前に私が寄せた投稿がまだ残ってるなんてなぁ。あん時は誰も答えてくれんくって、えろう追い詰められたんよ。今やったら誰か答えてくれるんかなぁ」

 アンジーは「あなたもやってみたら?」と提案するが、それは既に試したことを話した。

「ほんまかいな! じゃあ、そこにも『あおむし』の力が及んでるんかなぁ。かなわんな」

 あおむしとはなんのことを言っているのだろうと思った。ふとあおむしという名前から青虫を連想し、そうでなければと青いなにかを思い描いた。

 そしてそれに思い至ったのだ。

「青い頭! そう、それです。『あおむし』!」

 興奮気味にこれまであったことを掻い摘んで話す。途中、アンジーは「花菜ちゃん起きるから」と、落ち着くようにと何度か諭した。

 初めて自分の身に起こったことを人に話すことができた。その喜びで思わず涙ぐむ。改めて自分がどれだけ心細かったかを思い知ったのだった。

「せやなぁ、気になるやろ。町のジジババら、誰も教えてくれへんしな。えっらそうに軍の階級章なんぞつけよるくせに」

「え、なんですか? 軍の……」

「階級章や階級章。気づかへんかった? 将校やったんか知らんけど、あの町におるオジンの中でちょくちょくおりよんねん。胸に忘れ形見みたいに後生大事につけとるんや」

 千円おじさんが脳裏をかすめる。そういえば、おじさんの胸にもそれがあった気がする。

「まあ、口にするだけでも危ないっちゅうんは一緒や。結局んところ、あれがなんなんかわからんしねぇ。ただ、ルールを冒して会うてまうと終わり。ジジババら、無表情と無関心決め込んどるけど、内心は『あおむし』が怖いんやで。必要以上に警戒しとるんがその証拠や」

「じゃあどうすれば……」

 アンジーは煙草に火を点け、一口に深く煙を吸い込み、美味そうに吐く。そしてグラスにウィスキーを注ぎ、氷も入れずストレートで飲み干した。

 豪快な飲みっぷりに感心し、ふと手元を見るとアンジーが吸っているのは巻き煙草だった。そういうものがあるということは知っていたが、見るのははじめてだ。

「まあ待ちぃ。ひとつ相談があるねん。あなた、あの町からでたいって思うてんねやろ? せやけど諸々の事情ですぐにでるんはむずいっちゅうわけや……そこで」

「そこで?」

「こっちの条件呑めるんやったら協力したる。……命がけになるかもしらんけど」

 命がけ、という言葉に思わず背筋が伸びた。アンジーは続ける。

「ひとまず条件の話はあとにするわ。ともかく、このままやと確実に花菜ちゃんはあおむしに連れていかれるで。それやのうても梨恵ちゃん自身も危ない。妹ちゃんの帰りをこのまま待ついうんも危険や。逃げが利かん以上、いかにしてあの町で凪いで過ごすかがカギやね。どのみち、このまま手をこまねいとっても危ないことには変わりない。せやから、あおむしから身を守る方法を確立させる」

「あおむしから身を守る?」

 そう言われてもピンとこない。アンジーの言葉は心強いが、正体のわからないものから身を守る手立てなどあるものなのか。

「その顔疑ってるやろ。まあ、言うてる間にわかるわ。よう考えてみ? 私はあの町に住んでたんやで? あなたよりもよっぽどあの町のこと知ってる」

「疑ったりはしませんけど……そうですよね。アンジーさんはどのくらい住んでたんですか」

「二年、やな。それが限界やった」

 二年で限界――。限界、とはどういう意味なのだろう。

 おそらくは今、我が身に起きていることとそう変わりはないように思う。だがアンジーとは境遇や環境に違いがある。

 知恵袋の投稿では息子に異変があると書いてあった。アンジーの姿からは想像もつかないが、当時は妻子がいたということだろう。

 家族のことが気になったが、どうしてか聞いてはいけないような気がした。

「まあいろいろ聞きたいことあるやろうけど、その前に条件の話しとくわ。条件はごっつ簡単なことやし、問題ないと思うで。歩(あゆむ)を一緒に探してほしいねん」

「歩? それって……」

「私の息子のことや」

 思わず声がでそうになった。

「あおむしに攫われたまま、ずっと帰ってこおへんねん」

「帰ってこない、って、いまもですか……?」

 アンジーはうなずく代わりに寂し気に笑んだ。

 あの記事が2003年、ということはいなくなって一〇年以上は経っている。微笑むアンジーとは逆に、戦慄に凍り付いた。

「花菜ちゃんと一緒。あおむしに魅入られてもうたんよ。私らが歩の異変に気付いた時にはもう遅かった」

「私ら……?」

「なにを不思議そうしとるん。『私ら』っちゅうたら、私と嫁やがな」

 アンジーは「元、やけどな」と付け足した。

 女装姿でお姉言葉を話すアンジーからは、『嫁』という言葉が酷くアンバランスだ。

「ああ、せやわな。この恰好見たら『嫁おったんかい』ってなるわな。そん時はおったんよ。歩がおらんなって、嫁は自殺した。破滅過ぎて笑けるやろ」

「そんな……っ! アンジーさん、辛かったですね」

「立ち直れんくらいにへこんだな。やからこそ歩を諦めるわけにいかん。何年、何十年経とうが関係あらへん。あの子がおらん人生なんてありえへんわ」

 根元まで燻った煙草を灰皿の底でもみ消し、アンジーはすぐ次の煙草に火を点けた。思い出話のように宙を見つめながら――歩が戻ってこない限り、思い出になどなるはずがないのに。

「辛いけど、嫁は『死んだ』からええねんよ。けど歩はちゃう。歩は『おらんくなった』だけで、まだ『死んでない』。すくなくとも私は歩の屍を見てへん。せやから歩はな、生きてるねん、きっと」

「そうかもしれませんね」

 正直な本音は口にできなかった。

『一〇年以上、見つかっていないのなら死んでいるんじゃないか』、などとは死んでも言えない。その可能性を、アンジーが考えなかったはずなどないのだから。

「あなた、ええ人やなぁ。そんな風に言うてくれて嬉しいわ」

 これが親の愛なのだろうか。

 一〇年前、異世界のような町で、得体の知れないなにかに子供を連れ去られた。それから帰ってこない子供を、妻を失くしたあともずっと生きていると信じている。

 それを美談だとはとても思えなかった。むしろ狂気的だ。

 歩の生存を信じているのはいいが、もしも死んだと確信を持った場合、アンジーはどうなってしまうのか。生きていると信じ込むことで、妻の死でさえも狂わずに正気でいれたのではないか。

 どういう事情があったのかはわからないが、アンジーと名乗るこの男が女装をして店をしているという事実がある。これがまともな人間の行動といえるのか。

 つまり……アンジーはすでに壊れかけているのかもしれない。ちょっとしたきっかけで、人はおかしくなってしまう。

「わかりました。……一緒に歩くんのことも捜しましょう!」

「ほんま? おおきにな……ごめんなぁ……」

 アンジーは感謝を告げた。なぜ謝ったのかはわからないが。

 ハンカチで拭った目元が、アイラインが目尻からこめかみに伸びているのも気づかず、どこか悲し気な表情を浮かべながら。

 空のグラスにウイスキーを注ぎ、またもひと息に飲み干す。相当酒は強いらしい。

 白い蒸気が噴きだしそうな声を吐き、アンジーは真剣なまなざしを携え向き合う。

「あの町では守らなあかんことが『三つ』あんねん。あおむしはそれのどれかを破ったらやってくる。ただ、それは確実にくる訳やあらへんくて、運が悪いと見つかるていどのもんや。あそこの小学校に通うてるガキンチョら、みんながみんな徹底して守ってるわけやない」

「三つのことっていうのは?」

「ひとつ、『子供をひとりで水場に立たせないこと』」

 うなずき、同意した。そして、アンジーは顔の高さに指を一本立てる。

「ふたつ、雨の日は外にでない。子供は特に」

 二本目の指が立つ。心当たりは厭になるくらいある。

「雨の日は相当危ないらしいわ。当然、降雨量にもよるんやけどな。言えば町全体が水場になるわけやから合点はいくけども。土砂降りの日なんて地獄みたいなもんや」

 そう言って三本目の指を立て、空のグラスを煽った。

「みっつ、大人がそれを口ずさんではいけない」

 三つめになって急に言い方が抽象的になり戸惑う。その戸惑いを承知だと言わんばかりにアンジーは口元に指を立てた。

「しっ。これよこれ。これが『口にだしてはいけない』ことのひとつ。ほんまやったら頭に思い浮かべるのも具合悪いんよ。ほら、それこそ思い浮かべてるだけで無意識に口にだしてることとかあるやん?」

「もしかして、私も知ってる言葉ですか?」

「言葉ちゃう、歌やで。もうわかるやろ?」

 わからないはずがない。思いだすのも厭になる。

「もしかしてこれですか……タンタン、トンカラリン――」

「あかん! それ以上歌いな!」

 軍艦マーチを口ずさもうとした刹那、アンジーが血相を変えて怒鳴った。驚いて中断した。

「それやそれ、大人が口にしたらあかんやつ!」

「え……?」

「ええか、ひとつめの『子供を水場に立たせてはいけない』のんと、ふたつめの『雨の日に外にでない』っちゅうのはな、あくまで子供に対しての禁忌や。それにこのふたつは『町限定』のルールやし町の外は範疇やない。でもみっつめの『大人がそれを口ずさんではいけない』は次元がちゃう。町やろうが町の外やろうが、関係あらへん。あおむしはどこでも現れよる!」

「ちょ、ちょっと待ってください! あおむしって、子供を攫うんですよね? 大人の前にも現れるってことは大人も攫われるんですか」

「ちゃう。あおむしは目が利かんねんけどな、やから相当近くにこなわからんらしいわ。せやけど大人は背格好で子供やないって一目でわかるやろ。あおむしはな、大人から子供を奪っていきよるんよ」

「それって子供が攫われるのとどう違うんですか。子供が禁忌を冒すと攫われて、大人が冒すと子供が奪われる……どちらも同じに聞こえます」

「そうやなぁ……じゃあ、言い方を変えるわ。子供が授かれなくなる」

 胃が縮むような、膀胱が持ち上がるような不快感に息を呑んだ。大人から子供を奪う……とは、そういう意味なのか。

「私の考えやとあの町の下水道とかになにかが棲みついとるはずなんよ。水道管から伝ってきよんか、どんくらいの数おるんか……わからんけど、あんな慣習が根付くんやから相当数おるんやと思う。そんでルールを破った子供を攫いにきよんねん。そんなんもあってアレを『神様』やなんて言うとるやつもおる有り様やしな」

 脳裏に浮かぶ、大輔や舞、森谷の姿――

「まさか、私の周りで消えた人って……それを歌ったから、とか」

「まあ間違いないわ。あおむしは必ず水場に現れる。トイレ、風呂、プール、川、池、海……場合によっちゃ台所とかにもきよる。せやけどな、究極なことを言うとあれを口ずさんでも、水場さえ避ければなんとかなるねん。どうしようもないんが雨の日。雨の日だけはいたる所が水場に化けよるから、ほとんど逃げ場がなくなる――。窓ひとつない密室とかやったら話はちゃうけどね」

 アンジーは空のグラスにウィスキーを注ぎ足す。そして、あまり減っていない梨恵のグラスを指差し、「とりあえず飲み。シラフじゃ聞いてられへんで」と勧めた。

 言葉を失う。元凶は花菜だったのだろうか。

 花菜があおむしに魅入られたのは、町のルールを破ったから?

 だとすれば、自分のせいではないか。

 そう思うと頭がおかしくなりそうだった。大輔も、舞も、森谷も、みんな自分が死なせた。花菜の媒介してだとしても、かかわったことは事実だ。

「私が花菜をひとりでトイレに行かせたから……ひとりでお風呂にも……だからみんな……」

 こんな時悔やむのは大輔のことばかりだ。自分にとって、大輔が心の拠り所だった。どれだけ理不尽なことをされたとしても大輔さえいれば幸せだった。

 その大輔が自分のせいで、もう二度と会えないかもしれない。そう思うだけで今すぐ狂ってしまいたくなる。

 大粒の涙が手の甲に落ちた。すぐにもうひとつ、またひとつ――

「うっ……うう」

 涙が止まらない。すべてを失ってしまった。それが全部、自分の不注意のせいだったなんて、死にたくなる。

 自分を許せない気持ちが強くなればなるほど、涙はとめどなくながれ嗚咽は大きくなった。

「気持ちわかるで。私もおんなじ思いをしたしな。自責の念に囚われすぎてなにもかもが手遅れになってもうた。死んでもうた私の嫁とはもう二度と会われへん。私もずっとずっと歩を捜し続けて彷徨うとる。自分責めるんはいっちゃん楽な方法や。私みたいにならんよう、どないかせんと」

「そんなの無理です……私なんかには……」

「花菜ちゃんを守ってやれるんは梨恵ちゃんだけなんやで。花菜ちゃんまであおむしに攫われたらどうするん! しっかりしい!」

「うう……うぅ」

 アンジーの喝にたまらず泣き崩れた。アンジーの言う通りだ。花菜を救えるのは自分だけなのだ。

 だが大輔がいない中で発起できるはずがない。逃げだしたいという衝動が全身を駆け回る。

「今はまだ、よう決めやんわな……。まあ、とにかく今日は帰りぃ。ほんでゆっくり考えたらええわ。せやけど家に帰ったかて私の言うたことしっかり守りや。雨の日は絶対に一緒におったり。できるやんな?」

 正直、それができるかどうか自信はない。でも今の梨恵には黙ってうなずくしかできなかった。今はなにも考えられない。

「決心ついたら私のところに連絡ちょうだい。これ、私の連絡先やし」

 アンジーから連絡先のメモをもらい、ひとしきり泣いた後……『味園ビル』を後にした。

#創作大賞2024
#ホラー小説部門

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