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『ペトリコール』第五話

■5

「花菜ちゃーん! 舞ちゃんが遊びにきたでー」
 ドアを開けて開口一番、舞が部屋の奥にいる花菜に呼びかけた。
 慌ただしい足音を響かせて花菜が姿を現す。
「舞ちゃんだ!」
「花菜ちゃん、いい子にしてたぁ? 悪さばっかしてたんちゃう~ん」
「してないもん! ね、ね、舞ちゃん一緒に遊ぼう!」
 舞が「ええよー」と笑うと花菜は嬉しそうにその手を引いた。
「ただいま」
「あ、おかえり! 今から舞ちゃんと遊ぶ!」
 梨恵が玄関から中に入った頃には、手を引かれた舞の後ろ姿しか見えなかった。
「梨恵さん、そういうわけなんで……すみませんけど、お願いしまーす」
「はーい」
 花菜のはしゃぎっぷりは烈しく、捲くし立てるように話をしたり、描いた絵を見せたりで興奮しきりだ。
 舞のほうも花菜と久しぶりの再会を喜んだ。渋ることなく根気よく遊びにつき合っている。
 帰り道のスーパーで買った食材を冷蔵庫にしまいながら、数時間前の舞とのやりとりを思い返した。

「梨恵さんどうしたん? 目ぇ、めっちゃ腫れてますよ!」
 バレないようメイクでごまかしたつもりだったが、舞にはすぐ見破られてしまった。
 逆に普段よりも念入りにしたせいで目立ったのかもしれない。今さらになって反省する。
「ううん、なんでもないって」
「なんでもなくて、そんな目ぇ腫れます? 隠さんといてくださいよ、彼氏さんにやられたんとちゃいますか!」
「ち、ちがうって! 大ちゃんはそんなこと絶対しないから!」
 言葉尻から『殴られたんじゃないか』と詮索されたのだと直感した。誤解だと納得させようと言葉を探すが適当ないいわけが思いつかない。
「ちょっと色々あって、ね。参っちゃってて」
 結局笑うのでせいいっぱいだった。だが舞はそんな見え透いた強がりで引き下がるような性格ではない。
「ほんまのこと言うてください! 正直、彼氏さん見た時から心配してたんですよ! 梨恵さんってあれでしょ? 恋愛いぞ……体質っていうか、相手に没頭してまうタイプ。あんま振り回されたら、身ぃ持ちませんよ!」
 こちらが面食らってしまうような熱量で舞は詰め寄ってきた。『恋愛依存症』と言いかけたが、そう言われることにも慣れている。
 舞はあの手この手で絶対に聞きだそうとした。
 結局、まんまとまるめこまれ、大輔が生活費を持ち去ったことを話してしまっていた。
「え、それってほんまですか。最低最悪の男やないですか」
「違うよ。弟くんの学費がすぐ必要だったんだよ!」
「梨恵さん甘すぎるわ……。お金パク……ちゃうくて、持って行った言いますけどその後、彼氏さんから電話とか連絡あったんですか」
 考えたふりをするが、嘘を見逃さないとばかりに目を光らせている舞に負け、「なかった……かな」と答えた。
 答えを聞いた舞は大きな溜め息を吐く。
「梨恵さん、持っていかれた生活費ってなんぼですか」
「え、なんで?」
「15万あったら足りますか? あたし、それ貸しますんで」
「そんなっ、いいよ! 悪いし、そんな大金もらえない……」
「あげるとは言うてません! それにこんなん言うたら怒るかもしらんけど、今回の件は自分の責任やし、お金ないんは苦しくてもしゃあないって思うんです。けど、梨恵さんには花菜ちゃんがおるんですよ? それ知ってて持っていく彼氏さんのことも正直どうやねんって思いますけど。とにかくもう、四の五の言わずに受け取ってください。……とか言いながら今手元にあるわけじゃないんですけど」
「いや、ダメだって! ほんとそういうのは!」
「選択権ありませんから! それと、あたしから借りたってことは彼氏さんはもちろんのこと、誰にも言わんでください」
「そんな……舞ちゃんだって、大変なのに」
「お金のことやったら気にせんとってください。別に金銭的に大変やからバイトしてるわけちゃうし、こう見えてもあたし結構堅実に貯めこんでる派なんで。別にお金がすぐに必要なわけやないんです」
 それでも「そうですか」と舞から金を受け取るわけにはいかない。どう遠慮すれば身を引いてくれるかを考えた。そうしてようやく思いついた言葉を吐こうとする梨恵の口に、差し入れのマシュマロを口に突っ込まれた。
「あたし、花菜ちゃんのこと大好きやから、それ以上なんも言わんでください。繰り返しますけど、花菜ちゃんのためですから! 返すんもちょっとずつでええんで。その代わり、条件があります」
 やはりうまい話はない。きっと無茶な条件を提示してくるに違いないと、勝手に身構えた。
「時々、家に行って花菜ちゃんと遊んでもええですか? それ呑んでくれたら、喜んで貸します」
「え……」
そんなの条件にならない、と言おうとしたが、口に詰まったマシュマロのせいでうまく発語できなかった。だが舞の気持ちは身に染みるほど嬉しかった。
 そうして、胸を締め付けるような申し訳なさを抱きながら、舞の厚意に甘えることにした。その日の仕事が終わりに、舞との条件を果たすことにしたのだ。
「花菜ちゃんは、プリキュアとか見いひんの?」
「前は見てたけど、今は見てない」
「なんで? 飽きたん?」
 他愛のないふたりの会話を聞きながら、夕飯の準備に取り掛かった。
 今日は思い切って作ることにしたのだ。きっと大丈夫だ、という舞の言葉を信じて。人参を水洗いしながら、もしも花菜が食べてくれなかったら……という思いがよぎり腰が引けそうになる。
「テレビはこわいから」
「こわい? あー……そうかもしらんなぁ。最近、物騒な事件も多いし。テレビ好きなんちゃうん」
 あまり深く考えたことはなかったが、言われてみれば確かに花菜はテレビを観ない。その理由が怖いからだというのも初耳だった。
 舞は花菜が怖がっているものをニュースが伝える事件の類だと思ったようだが、そういうことではない気がしていた。
「え、どうしたん花菜ちゃん?」
 花菜は急に黙り込んだ。なぜ黙り込んでしまったのか、舞は首を傾げている。
 やがて花菜は舞に近づくと、なにかを耳打ちした。
「今日はカレーライスにするからね。花菜ちゃん、嫌いじゃないよね?」
 野菜を洗い終え、ジャガイモを片手に笑いかける。どことなく不穏な様子のふたりの空気を変えようと思ったのだ。
 コン、コン
 舞は花菜の話を聞いて固まっている。その姿を不思議に思っていると、沈黙を割るようにノックが来客を告げた。
「はあい」
 スリッパをパタパタと鳴らして玄関へ向かう。
 ドアを開けたのと同時に声が割り込んできた。
「すんまへん。自治会費千円」
 訪ねてきたのは胸の勲章が目障りな、帽子の老人だった。
「え、でもついこないだも千円って……」
「そない言われても知らん。千円、ほら」
 こちらの話など聞く耳も持たず、無遠慮に開いた手を突きだしてくる。その粗暴な態度に腹が立った。
「払ったのはつい最近ですよ? それに毎回千円って、本当に払わなきゃいけないお金なんですか」
 ことあるごとにこの老人は何度も千円を徴収してゆく。
 月に一度や二度ならまだしも、必ず週に一度はやってくる。一週間に二度きた時もあった。
 いくらなんでもこんな頻度で現金を徴収しにくるのはおかしい。
「強制やない。あくまで厚意の基金やし。せやけどみんな払うてるで」
「市や区で集めているお金なんですか」
「ちゃうで。さみだれ(ルビ/ここ)の住人からもうとる金や。無理にとは言わんけど、払うてもらわんと困る」
「強制じゃないけど払わないと困るって……」
 支離滅裂も甚だしい。つまり払わないと悪者になると言いたいのだろうか。強制でないのなら恐喝だ。
 老人の無茶な要求に思わず声を荒らげそうになったが、舞の手前これ以上揉めるのも不本意だ。仕方がなく渋々千円を手渡す。
「あんなぁ姉ちゃん、こない言うんもあれやけどたかが千円やねんから。あんまごねやんで欲しいわ」
「ごねるって、そんな言い方……今度市に直接問い合わせますから」
「おおこわ。好きにしたらええわ。あんまり自分のことしか考えなはんなや。あんたはええか知らんけど子供がかわいそうやでな」
「放っておいてください!」
 沸騰しそうな昂ぶりを抑えてドアを閉めた。怒りで早くなる動悸をなんとか落ち着け、気持ちを悟られないよう頬を揉み、表情を直して部屋に戻る。
 部屋に戻ってすぐに舞と視線がぶつかった。老人とのやりとりを聞かれたのではと危惧したが、そうではないとすぐにわかった。彼女の表情は心配している様子ではなく、むしろ驚いたように目を見開いている。
 そのすぐそばで花菜が寂しそうにうつむいていた。
「どうかしたの?」
「……梨恵さん、なんで言うてくれへんかったんですか」
「え、なんの話?」
 ふたりの間から漂う、張り詰めた空気を感じた。
 さっきまで盛り上がっていたはずなのになぜそんな空気になったのか、想像がつかなかった。花菜の様子から考えるなら、なにかして舞に叱られたのだろうか。だがそうだとしたら舞の表情の説明がつかない。
 困惑している梨恵のそばに舞が詰め寄る。
「花菜ちゃんが福島から県外避難してきたいうことですよ!」
「あ……」
 思わず声が漏れ、同時に自らの迂闊さに眩暈がした。
「テレビでいっぱい津波や倒壊した被災地の映像見すぎて、テレビ見るんが怖くなったって言うてるやないですか。あたし知らんと、つい無神経なこと言うてもうた……」
 しまった! と花菜に向いた時にはもう遅かった。
 あれだけ楽しそうにしていた花菜は無表情に戻ってしまっていた。これでは舞の頑張りが水の泡だ。
「そういうの一番気を付けなあかんとこですよ。あたしら大人かて被災した人の前で地震や津波の事なんてよう聞かんのに、子供なんてもっと敏感で繊細なんやから。もしかして学校の同級生とかに言うたりしてへんですよね?」
「言ってない……と思う。その辺は妹がやってくれたから。担任の先生とか、一部の先生以外は誰も」
 気持ちが治まらないのか、「梨恵さんね……」と話を続けようとした舞の袖を花菜が引いた。
「花菜ちゃん」
「そんなのいいから舞ちゃん、もっとあそぼ」
 照れ臭そうな花菜の顔を見て、花菜なりのがんばりが伝わった。憤る大人に割って入るなど、勇気が必要だったに違いない。これまでの花菜を思えば飛躍的な進歩だ。
「せやね! うん、今日は舞ちゃんは花菜ちゃんといっぱい遊びにきたんやし、じゃあ梨恵さんのカレーができるまであそぼっか」
 花菜が嬉しそうに「うんっ」とうなずき、再び部屋へ戻った。
 よかった、と思いつつ内心は複雑な気分だった。
 ――そういうの一番気を付けなきゃって、私は花菜の母親じゃないんですけど。
 花菜を預かってほしいと真麻から打診されたことを大輔に相談したのが、そもそものはじまりだった。
 最初は反対した大輔だが真麻が生活費をだすと知った途端、態度が変わった。
 手のひらを返し花菜を預かることに賛成したのだ。そして強引に返事をさせた。
 もっとも、預かる理由はそれだけではなかったが。
 転々とする避難生活で真麻の心もすり減っていたのだ。それは限界に達しようとしていた。もともと選択肢などあってないような相談に、大輔の言葉が後押ししただけだ。

 二年前。未曾有の大地震が東日本を襲った。
 積み木を崩すように住宅は倒壊し、どす黒い巨大な津波が町や物、人々を飲み込んだ。
 真麻は福島のとある地域で被災。結婚七年目の冬だった。
 当時、保育園にいた花菜は事なきを得たが、夫の誠一は勤務先で被災し、行方がわからくなった。
 その後、会社から七キロ離れた先のがれきの下から、誠一は遺体で発見された。
 昼夜問わずに襲う余震としきりに行き来する自衛隊のジープに落ち着く暇もなく、怯えるだけの日々。
 自宅は全壊こそ免れたものの原発事故による汚染区域に指定され、帰るに帰れない状態に陥った。
 しばらく仮設住宅で生活を続けていた。夫の親族や知人にも難を逃れた人はいたが、それに頼れるほど彼らにも余裕はなかった。
 やがて県内か県外、どちらに避難するか迫られた。同じく被災した義理の両親にも頼れない。
 幼い花菜は精神的に不安定な時期が続き、夜中に「ママ、地震!」と飛び起きて泣くことはしょっちゅうだった。いつも船酔いしているような感覚にも悩まされていた。
 もはや一考の余地はなかった。
「がんばろう東北」「がんばろう日本」というスローガンが呪文のようにそこら中に目につき、その度真麻は頭痛がした。真麻もまた精神的に追い詰められた。
 最初に移り住んだ東京の実家では両親も快く迎え入れてくれた。避難生活中に花菜の学校、真麻の職場も決まった。
 東京での再スタートがもっとも最善のはずだった。しばらくして母親から相談されるまでは。
「花菜ちゃんが学校でいじめに遭ってるみたいで……。学校に行きたがらないの」
 ふたりが東京の実家に住むようになって半年が過ぎたころだった。
 理由を聞けば、根も葉もない謂れ。
『原発事故で漏れた放射線がつくから近づくな』という、子供ならではの容赦のない言いがかりだった。ほどなくして教室でクラスメートから「汚染物」と呼ばれるようになった。
 花菜は深く傷つき、そして、その頃からあまり笑わなくなった。
 完全な風評被害――。震災から一年が経っているのに、担任も放射線について確かな説明もできず、日に日に花菜に対するいじめは烈しくなる。
 ただ学校にいるだけで、学校に苦情が相次いだ。地獄の日々だった。
『そんな子供を通わせてなにを考えているのか』
『自分の子供も被曝するから通わせるな』
『一緒の給食を食べさせないでほしい』
 どれも酷く人間味を欠いた、根拠もない放言だ。
 同じ地続きの土地で起こった大災害。誰もが被害者のはずだった。
 大衆は報道の上澄みだけを掬って、足りない情報を盾にし自分勝手に危険視する。
 多くの人が津波で大切な人や物を失い、放射線の影響で家にも帰れない暮らしを強いられている。日本中の誰もがみな、そんなことは知っているはずだ。
 それなのにまだ小さい花菜から、これ以上なにを奪うというのか。
 我が子の苦しむ姿を見ていられなくなった真麻は住みやすかったはずの家をでて、神奈川に住む知人の伝手を頼りに再び住処を移った。だが同じことの繰り返しばかりだった。
 そして真麻は気付いてしまった。身バレの原因が自分にあるということに。
 自分がいると、近所伝いや書類上の記載から必ず出身が漏れ伝わってしまう。
 決まって最終的に花菜を孤立させた。
 大阪に住む梨恵に花菜だけを預けたのも、自分から引き離すことで花菜を世間から守るためでもあった。
 真麻は花菜がいじめられるのを回避したかった。

 ――と、ここまでが表向きの理由。本当の理由は他にもあった。
 たらい回しの暮らしの中で好奇や差別の目で見られていたのは花菜だけではない。真麻も同じだった。
 本当は自分の心でさえ癒えてもいないのに、無理してでも働きにでなければならなかった真麻の方が、もろに人間の闇に曝されていたのだ。そして、真麻の心はすこしずつ病んでいった。
 名古屋で暮らしていた時のことだ。
 最初は家に帰るのが遅くなりがちになった。やがて暗くなっても帰らなくなり、連日花菜はひとりきりの夜を過ごすようになった。
 夕食はいつもカップラーメン。ひどいときにはお菓子が夕食という日もあった。
 風呂も数日おきで、体からは悪臭がし、それを理由にまたいじめられた。
 教師や市の職員が何度も家に訊ねに来たが、家に真麻がいたのはたった2度きり。
 仕事が終わったその足で飲み歩く毎日。職場からも酒の匂いがすると注意されるようになった。
 そうなっても真麻は家に帰らない。辛い現実から逃げだしたのだ。
 何もかも嘘。津波も、地震もなかった。今でも誠一と花菜と三人で福島の家で幸せに暮らしている。酒が切れた現実こそがタチの悪い夢。そうやって真麻は戻れなくなっていった。
 そしてアルコール依存症になってしまった。
 どうしようもなくなった真麻は、梨恵にSOSを送った。

 事情は理解していたつもりだったが、不意に花菜が舞に話したことで、認識の甘さを痛感した。花菜の心の傷は、思っていたよりもずっと深い。
 ――だけど、私は花菜のお母さんじゃない。
 わかってはいても、花菜との暮らしに息苦しさを感じていた。
 幼い花菜が上手くいかないすべての元凶なのだ、とさえ考えそうになった。必死で思いとどまろうとするが、一度暴走しかけた思いは容易には止められなかった。
 ――なんで私がこんな目に! 花菜も真麻も舞ちゃんも! 私には必要ないのに……私が本当に必要としているのは――。
 思い浮かぶのは大輔の姿。大輔さえいてくれれば我慢できるのに。なのに大輔だけがいない。
 精神的な支柱もなく膨れ上がる疲労とストレスは、まるで水風船のようだ。すこしの刺激で破裂するし、なにもしなくても勝手に膨張し続けて破裂する。
 自分が花菜の母親でなければならないと強要されているようで、息が詰まりそうだった。
 ――助けて大輔
 繰り返し念じていた。この思いはきっと届くはず。
 どうしても必要な時、必要なタイミングで、必要な優しさで。思いがけず自分が最も嬉しい手段で、大輔はヒーローのように現れる。そんな日が必ずくるはず。
 だからきっと、まだ耐えられる。まだ限界じゃないから大輔はこない。もっと我慢しなければ。もっと――
 そう思いつながら野菜を鍋に切り入れた。その合間に期待を込めてスマホを確認するが、大輔に送ったメッセージは未読のままだった。

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