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『ペトリコール』第十話

■10

「あんた、あない言うたのにあおむしに会わせてもうたんか」

 さみだれ住宅に帰ってきて早々、住人に声をかけられた。無視して、花菜を背負ったまま急いで部屋に駆け込んだ。

「ごめん、花菜ちゃん。今日はシャワーで我慢して」

 キッチンのテーブルで足をぶらぶらさせながら、それには答えずこちらを向いた。

「ねえ、りえちゃん。寝るまでたえちゃんと遊んでいい?」

 心臓が止まりかけた。その名は今一番聞きたくない。

「たえちゃんとは遊んじゃだめ」

「なんで?」

「なんでもよ! たえちゃんと遊ぶと、知らないところに連れて行かれちゃうよ」

 そんな説明では花菜が納得するはずもない。

「なんでなんで! なんでそんな意地悪言うの! たえちゃんと遊びたい! 遊びたい遊びたい遊びたい遊びたい!」

 突然炸裂した癇癪に棒立ちになった。これまで一度だってこんなに強く主張したことはない。聞き分けはいいほうだったはずだ。

 ――家に帰ってきて急に『たえちゃん』の話をした……

 改めてここが異世界であり、あおむしの影響を受けているのだと知った。

「たえちゃん! たえちゃん! たえちゃんと遊ぶ!」

 大声で喚き、花菜はそばにあったおもちゃや文房具を手あたり次第に投げまくった。初めての激情に狼狽えるだけだった。

「やめて花菜ちゃん! 暴れないで……」

 そう言って投げつけた物を拾うのが精いっぱいだった。それ以上のことはどうすればいいかわからない。

 ととと

 物を拾うのにしゃがみ込んだ隙の出来事だった。小さな足音がそばを横切ってゆく。咄嗟に振り返ると花菜はトイレに入ろうとしているところだった。

「なにしてるの! ひとりでトイレに行っちゃダメ!」

「うるさい! トイレとお風呂なら誰にも邪魔されずにたえちゃんと遊べるもん!」

「だからたえちゃんと遊んじゃダメ! トイレとお風呂なんて、もっとダメだよ!」

 トイレのドアを閉められる寸前で飛びつき、全力で阻む。綱引きのような状態の後、なんとか花菜を引き離すことができた。

「りえちゃん、仲良しの友達作れって言った、友達と遊べって言ったもん! だから花菜はたえちゃんと友達になって、仲良く遊んでたのに! なんで、なんで急にダメって言うの! バカ! りえちゃんのバカ!」

「花菜ちゃんやめて! そんなこといわないで!」

「貴様、米英の諜報員か! 非国民め、粛清するぞ!」

「はっ?」

 花菜は突然、大人の言葉……いや、まるで軍人が使いそうな言葉を投げつけた。

 睨めつける眼つきは尖りきっていて、知っている花菜とはまるで違う表情をしている。それは強烈な憎悪と敵意を孕んだ目。その目に睨まれると喉にものが使えたように声がでない。子供の迫力とはまるで違う。

 唖然としたまま動けないでいると花菜はぷいっ、と背を向けて部屋の端で膝を抱えて座り込んだ。

 立ち尽くした梨恵の足元に、にゃにゃちゃんが寂しげに転がっていた。



「あ~あ」

「あと一年耐えたらよかったのになぁ」

「いつ連れて行かれるかなぁ」

 町で老人たちに囁かれる回数が日に日に増していた。

 アンジーと知り合ってからというもの、それらは違ったものに聞こえてくる。

 忠告通り、花菜を水場に近づけないようにしているが、いつまた豹変するかと思うと怖くて強く叱れなかった。幸い今のところ、あの夜のようなことはなかったが……。

 だが問題はそれだけに留まらない。水回りでの異常も日増しに烈しくなっていた。

 シャワーがひとりでにでる。台所のシンクには誰のものでもない髪の毛が数本落ちている。トイレから夜通し『ごぽごぽごぽ』と水中で人が喋っているような音が聞こえる。バスルームからは湯も張っていないのに水の跳ねる音。そういった現象は日常茶飯事だった。

 一度、ずぼぼぼぼっ、と排水口に何かが詰まった烈しい音がした。驚いて思わず様子を見に行ったことがあった。

 バスルームに近づいたところで、バシャン、とそこそこの重量を持ったものがバスタブに飛び込んだ音が、それ以上の接近を拒んだ。

 それでも梨恵は足音を殺して近づき、バスルームの中をそっと覗き見る。

 待っていたかのようにバスタブから青い頭を半分だしたなにかがこちらを窺っていた。

「ひっ!」

 梨恵がその存在を認めた直後、もう一度バシャン、と大きな音を立てて湯船の底にそれは消えた。

 勇気を出してバスタブを確かめてみたが、それは忽然と消えてしまった。

 説明つかない出来事はまだある。

 蛇口から真っ黒な水がでてしばらく使い物にならなかったり、頻繁にトイレが詰まったり、一見なんの変哲もない透明な水でも、口に含むと焦げた炭が入っているような異味がしたりした。

 家の水道を使う気になれず、ネット通販でペットボトルの水を大量に注文するが、決まって荷物は届かず履歴はエラーになった。そのため定期的にディスカウントショップで購入するようになった。

 とにかく、『三つのルール』さえ守っていれば、これ以上の実害はないと信じていた。

 そんな中にあって、花菜との関係はさらに冷え切ってゆく。一言も交わさないことが日常になりつつあった。

 梨恵としては積極的に話しかけたりなどして努力はしているが、肝心の花菜が反応しない。さらに頻繁にあった『たえちゃんとのおしゃべり』もなくなった。本来なら、喜ぶべきなのだが、その静けさがかえって不気味だった。

 だが一方で良いこともあった。

 花菜がひとりで水場に行かなくなったのだ。それだけでも負担はかなり減った。

 徐々にこの異常な日々に慣れてきている自分自身に、梨恵は恐ろしくなる。

『三つのルール』を守っていれば、あおむしはなにも仕掛けてこられない。花菜があおむしに狙われていたとしても対処を徹底しているからか、それ以上の悪化もなかった。

 真麻に早く大阪へくるよう説得している間、なんとか耐えしのがなければならない。

 この日常に身を置き、さまざまな現象を目の当たりにすれば厭でも離れるだろう。

 ――麻痺していた。

 なにも解決していない。なにひとつとして好転していない。日々の現象は烈しさを増していくばかりだというのに、それに目をつむり現状維持を心がけ、それが上手く続いていると思い込む。そうやって考えることを放棄していた。自分なりの自己防衛だった。

 アンジーには連絡していない。彼に頼ってしまうと、なにかがはじまってしまいそうで怖かった。梨恵はただひたすらに、見たくないものを見ない振りをし続けていた。

 その日がくるまでは。



 まもなく花菜の学校が夏休みに入ろうとするころ。

 あてにならない天気予報は関西全域快晴になると伝えていた。珍しく予報通りの空。真っ青で雲ひとつない、夏を象徴するような日だった。

 ひきっぱなしの布団の上に寝そべる。今日は休みなのでもうひと眠りするつもりだった。

「大輔に会いたいなぁ……」

 いなくなってしばらくの時が経った。それでも大輔に対する思いは変わらない。いまだにひとりになると大輔を思って泣いた。

「戻ってきて、私をどこか連れてってよぉ大輔……」

 枕に涙のシミを作りながら、眠りが意識を攫いにくるのを待った。

 梨恵は夢を見た。

 天気のいい昼下がり。公園のベンチで子供を抱いていた。自分に子供はいないはずだったが、腕の中で眠る子に不思議なほど母性を感じていた。

 すーすーと寝息を立て、気持ちよさげに眠る我が子。それを愛しく見つめているだけで自然に微笑みが漏れる。

「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ」

 梨恵は子守歌を歌っていた。その子守歌はほかならぬ軍艦マーチ。それが子守歌とは妙な話だが、不思議と違和感はない。

「守るも攻めるも黒鉄のー 浮かべる城ぞ頼みなるー 浮かべるその城日の本のー皇国の四方を守るべしー真鉄のその艦日の本にー仇なす国を攻めよかし……」

 穏やかに歌うその歌はこれまで忌み嫌ってきたものとはまるで別ものに聴こえる……優しいものだった。

「お父ちゃん、はやく帰ってきてほしいねぇ」

 すやすやと眠る子の頭を優しく撫でてやる。すると次の瞬間、

 ごろん、

 なにか重いものが転がり落ちた。構わず梨恵は頭を撫でながら子守歌を歌っている。

 そばに転がっているのは――子供の頭だった。

「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ……」

 梨恵は動じない。自分の子の首が椿のようにあっけなく落ちても子守歌を歌い続けていた。

 カンカンカンカン!

 その時、鐘を叩く音と甲高い獣の唸り声のような音があたりいっぱいに木霊した。

 みるみるうちに公園は炎上し、真っ赤に染まった。夕焼けの空のようで綺麗だと思った。

 気づくと梨恵は我が子を抱いたまま焼かれていた。天を衝くように伸びる火柱が烈しくふたりを焦がしていく。

 遠くの方で「おおきに……ごめんなぁ……」と聞こえる。

「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ……」


 弾かれたように跳ね起きる。夢か現実かわからず、しばらく上体を起こしたまま放心していた。ベランダから漏れる仄かな冷気が次第に梨恵の意識を覚ましていった。

 シャツが張り付いていた。体臭がぬるい熱気に乗って鼻先に漂う。全身が汗でびっしょり濡れている。

「どのくらい寝てたんだろ……」

 寝汗を掻くほど寝ていたのか、と時間を確かめるが思ったほど経っていなかった。それよりやたらと喉が渇く。

 立ち上がったついでにカーテンをすこし開く。ベランダの向こうに広がる空は気持ちがいいほど青い。なぜこんな快晴の日に悪夢を見なければならないのか理不尽に思った。

 熱さましがてら、厭な気分も洗い流すつもりで冷蔵庫からペットボトルを取った。キャップを回し、中の水を喉に流し込む。

「うぷっ! おぇっ!」

 直後、味に異変を感じてシンクに吐きだした。

「な、なにこの味?」

 口の中に広がった生臭いえぐみ。

 水の味に混乱しつつも、口の中に残った余韻が次第に自分の知っている味に変わってゆく。水だと思って味が付いていたから思わず吐きだしてしまったが、よくよく味わってみるとそれは……だしの味のようだった。

 しかし極端に薄い。ほぼ水だと言っていい。煮干しを浸した水だろうか。

 思わずラベルを確認する。

『純水仕上げミネラルウォーター』

 表記はミネラルウォーター……つまり水だ。だしが入っているなどとどこにも書いていない。そういえばこの水を飲むのははじめてではないのだから、だしが入っているなどと考えるまでもない。

「これもあおむしのせい……」

 無意識に眉間に皺が寄る。動揺してしまわないよう固く目をつむった。

 ペットボトルなら安心だと信じていたが、これも信用できなくなってしまった。いよいよ見てみぬふりは無理がある、呻きながら手に持ったボトルをテーブルに置いた。

「……?」

 テーブルに置いたボトルに違和感を覚えた。

 正確には、ボトルではなくボトル越しに変なものを見た気がする。

 怪訝に思いつつボトルをテーブルから離す。異変はない。再びボトルをテーブルに置く。……やはりなにかがおかしい。

 一体なにがおかしい? 胡乱な気持ちでボトルを凝視した。


 ドン、ドン!


「ひっ!」

 突然のノックに跳び上がった。

『渡辺はん。防犯費用千円くれてんか』

「千円おじさんか……驚かさないでよ!」

 この頃は千円おじさんをまともに相手にしなくなっていた。それでも千円おじさんは凝りもせずやってくる。

 だが今回は驚かされたことに腹が立った。いつもならしないことだが、文句を言ってやろうと思い、つい玄関を開けてしまったのだ。

「姉ちゃん、千円ちょうだい」

「きゃあ!」

 千円おじさんはドアを開けた瞬間、隙間からにゅっと腕を突きだしてきた。梨恵は驚いて尻餅を突いた。

 しまった!

そう思いすぐに顔を上げる。この隙に家の中に入ってこられてはたまらない。

「……あれ?」

 千円おじさんの姿はない。目の前で静かにドアが閉まるだけだ。再びドアを開けてみるが、その姿はどこにもなかった。

 まるで狐につままれたかのような心境だった。

 幻か現実か、はっきりとしない。

 ザァァ――

 消えた千円おじさんに気を取られて気づくのに遅れた。この音は――雨の音だ。

「嘘……こんなの!」

 土砂降りだった。

 部屋の中から見えた空は雲ひとつない真っ青な空だったはずだ。だが玄関の外は暗い灰色の空、バケツをひっくり返したような雨。

 そんな中に花菜をひとりで行かせてしまったのだ。

 ――一体、いつから降ってたの……?

 体から血の気が引き、背筋にじゃりじゃりとしたざらついた寒気が走った。

 なにかの見間違いだと部屋に駆け戻りベランダを確かめる。

「そんな!」

 灰色の雨。

さっきまでの快晴は全部嘘だったのだと空が舌をだして喜んでいるようだ。雨どいはじゃぶじゃぶと滝のような水を下に伝えている。

 たった今降りだした雨ではないことは一目瞭然だ。

「あおむし……!」

 自分が見ていた青い空は事実でなく、この灰色の雨景こそが現実。あおむしによって、偽りの空を見させられていたのだ。

「花菜!」

 傘もささずに外へ飛びだした。

 花菜がでて行ってから一時間以上経っている。無事、問題なく学校についているのならばそれでいい。だがあおむしの仕業である以上、花菜がきちんと学校についているとは到底思えない。

 砂糖水のようなべとついた雨が寝汗のかわりに体中にまとわりつく。だが気持ち悪いなど言ってられない。花菜の名を呼びながら土砂降りの中を走った。

 町には人っ子ひとりうろついていない。店もすべて閉まっているし、どこからも生活の空気が一切漂ってこない。ずいぶん昔からこの町はすでに廃墟だったのではないかと錯覚する。

 小さな社を何度か横切った。駆け抜けながらいくつもあったのだと知った。

「花菜ぁ! 花菜ちゃあーん!」

 雨粒が声を吸う。町中に蜘蛛の巣がかかったように白い景色をさらに走った。

 学校までの道を辿るが花菜の姿はない。店が開いていない以上、捜す場所は絞れるはずだ。徐々に体温が奪われてゆく中、公園の前を通りがかった。

 おもちゃの動物園を思わせる無機質な遊具たちが通り過ぎる梨恵を見つめている。その中にひっそりと佇む公衆トイレ。

 ジジ……

 公園の中央に立っているスピーカーから引っ搔いたようなノイズが漏れ、次に続く。

『……るに拘らす戦局必すしも好転せす世界の大勢亦我に利あらす 加之敵は新に……』

「やめて!」

 はっきりと拒絶を叫ぶ。従うようにしてスピーカーはおとなしくなった。逆立つ産毛が怪異の余韻を撫でた。

 だがそれが逆に梨恵の頭を明瞭にした。

トイレの前で立ち止まり、正面に向き直る。

 そういえばこの町に越してきてすぐ、このトイレに花菜を連れてきた。思えば、そこからこの町がどこかおかしいと感じはじめたのだ。

 トイレの入り口付近にできた水溜まりになにかの紙が沈んでいるのが目に入った。近づいて見ると《使用禁止》と書かれた紙。以前きたときに個室のドアに貼られていた紙だ。

「この紙が落ちているってことは……」

 直感し、トイレを睨んだ。そして意を決すると中に足を踏み入れた。

 思った通り、トイレの個室は一室だけ貼り紙が剝がれている。迷わずその個室の前に立った。

「たえちゃん、会いたかったぁ。ずっとずっと花菜ね、さみしかったんだよ! それよりね、なにして遊ぶ? 愛国いろはかるた? 兵隊ごっこ? ねぇねぇ、なにして遊ぶ?」

 花菜の声だった。

「花菜ちゃん、今すぐそこからでて!」

 ダンダン、と力の限りにドアを叩き訴える。

「B29が飛んでこなかったらもっと遊んでもいいよね」

 キャッキャッとはしゃぐ花菜の声。まるで舞と遊んでいる時のようだった。さらに烈しく叩き、呼び続けるが花菜は全く反応しない。

「だめよ花菜! それ以上あおむしと遊んじゃだめ! でてきなさい!」

 ダンダン、ダダン、ダンダン、ダダン。

 ドアを叩く音に不自然さを感じた。自らが叩くダンダン、という音以外にダダン、という連続した音がある。実際に叩いているよりも音が多い。

 それまで花菜を思う一心で正面しか目に入っていなかったが、音の不自然さにふと我に返り、一歩下がってみた。

「ひっ……!」

 息が止まる。

 梨恵が立っていた姿だけ切り抜いたようにして、個室のドア全体が真っ黒な煤で埋め尽くされていた。余分な音は、スタンプのように煤のついたなにかでドアを叩いていた証左となった。そしてそれは、おそらく人の手。自分が叩くのと音の質が同じだということは……そうとしか思えない。

「花菜! でてきてってばぁ! じゃないと……」

「じゃないと……なぁにぃ?」

 花菜がはじめて反応した。しかし、明らかに声の様子から雰囲気が違う。人をからかっているような、馬鹿にしたような、不快になるイントネーションだった。

「じゃないと連れていか――」

「たえちゃんはぁ? たーえーちゃーんーはぁー?」

 慄きで過呼吸になりそうだった。ここからすぐ逃げだしたい。ドアの向こうにいるのは、花菜だが花菜ではない。決して触れては……かかわってはいけない怪物なのだ。正気を失うギリギリのところで戦いながら叫んだ。

「花菜から離れてよ! このバケモノ!」

 ……カチャリ。

 全身全霊を懸けた叫びに呼応したように、数秒の間をあけて内鍵が開く音がした。

「花菜!」

 それを聞き逃すはずがなかった。すぐさまドアを開け放ち、花菜の名を呼んだ。

 便器の横にびしょ濡れの花菜が倒れていた。和式の便器の水は真っ黒だ。

 気を失っている花菜を抱きかかえ、一秒だってこんなところにい

られるものかと飛びだした。



 アンジーの下を訪ねたのはその翌日。

 昨日の出来事を受けて、自分だけで処理できない段階まできていると痛感した。

 助けを訴えるメールを送ると、待ってましたと言わんばかりにすぐ返事が届いた。四の五の言わず、すぐ会いたいという内容だった。

「あらぁ、きたわね。いらっしゃーい」

 花菜を学校に送り届けてからアンジーと会った。不安だったがアンジーのアドバイスを受け、それに従った。

「梨恵ちゃんの気持ちもわかるけどな、まだ学校のほうが安全やで。少なくともひとりになりようないし。さすがに今の花菜ちゃんを見れば教師だって目を離さへんよ。学校も自分ところで児童の失踪なんてだしたないやろうからね」

「その辺がよくわからないんですけど。あの町が異世界だとして、だったら学校も異世界の施設だってことになるんじゃないんですか。もしそうなら、児童が失踪したとしても『実在しない町の実在しない学校』として無関係なんじゃ」

「まあそない思うやろねぇ。わかるわ。誤解すんのも無理はないけど、あそこは『実在しない町』やなくて、『誰も知らない町』やねん」

「ニュアンスの違いじゃなくて……ですか」

「そう。あの町を認知できるのが『町に関わった人』やっていうだけ。あの町は確かに存在してる。せやからその証拠に私はあそこに住んでたし、認知してるやん? ネットでの検索ヒットが極端に少ないのも、『町』の持っているなにかが拡散を阻止してんちゃうかな。あくまで私の憶測やけども」

 巻煙草を咥え、火を点けながらアンジーはこうも言った。

「知ってる? ネットの都市伝説でな、『電車に乗ってたら全然知らん、聞いたこともない駅に着いて下りてしまった』って話。いざ下りて町を歩いてみたら人っ子ひとりおらん気味の悪いところやったらしい。そんでその迷子がどないなったかわからん……っちゅうやつ。あの町もたぶん、その類ちゃう?」

「きさらぎ駅ですよね」

 アンジーは認める。

「でも、私の妹はあの町の市営住宅……さみだれの存在を知人に紹介されたって」

「その知人が私みたいにさみだれの元関係者やったんか、それかあの町に花菜ちゃんが呼ばれたんか。どうなんやろな」

 あの町に呼ばれた――

 心の中でその言葉を反芻した。今更信じられないものなどない――が、花菜が町に呼ばれたというのはどうも解せない。

「花菜ちゃん、もう何回かあおむしと会ってるやろ。あおむしに一度会った子供は外でもあおむしと遭遇するんやけど、水場で会うのとでは意味合いがちゃうみたいやねん。外で会った場合、あおむしは子供を水場に誘う。水場が独壇場なんやろか。けど、あおむしと会うん重ねていくともう連れ去られてなおかしいねんなぁ。やのに花菜ちゃん、今の今まで連れていかれずにおる。そこらへんがどうも腑に落ちんとこやねん」

「腑に落ちないって……連れていかれていないのなら、それ以上のことはないじゃないですか」

「いや、そうやねんで。なんや言うても無事でおるんがなによりや。でもそれが不気味やねん。梨恵ちゃん、なんか心当たりとかないんかいな? 花菜ちゃんとあおむしに共通するところがあったりとか」

 そんなこと言われてもなぁ、と心当たりを探すが、それらしいものはなにも思いつかない。

 なにより花菜に対して親身になってくれるアンジーの存在がありがたい。それも息子の歩と重ねているからだろう。花菜を救うことと、歩を救うことを同じに思っているのかもしれない。

「歩くんを捜すのにあの町に戻ったりはしなかったんですか」

「ああ、それなぁ……ほんまやったらそうしたかったんやけど。一度離れてまうと見つからんねん。『誰も知らない町』(ルビ/あの町)、ほんま厄介やで。住人でなくなるとあかんみたいや。あらゆるものから存在を隠しよる」

「え、でも大輔や舞ちゃんは普通に……」

「そらその人らはその町が『誰も知らない町』やって認識しとらんで行ってたんやろ。知ってる知らん以前に、認識外にあるんやから。それに梨恵ちゃんいう町の住人との接点があったから入れたって考え方もできるし」

「そんなこと……あれ、でもそれじゃあ……」

 ハッとアンジーに振り返る。アンジーはみなまで言うなとばかりに不敵に笑った。

「そう。今は私、認知している梨恵ちゃんを介して町に戻れる」



 JR森ノ宮駅を降りると大阪城の雄姿に出迎えられる。

 そして国道沿いをすこし歩き、横断歩道を渡ったところに目当ての場所あった。

「ここだ……」

『ホープおおさか 大阪平和祈念センター』

 太平洋戦争を中心とした戦時資料や展示物を扱った施設だ。今は主に大阪大空襲を語り継ぐことに力を注いでいる。

 梨恵はアンジーに言われてこの施設へやってきたのだった。

 公園の公衆トイレでのことをアンジーに話した際、花菜が口走っていた『愛国いろはかるた』や、『B29』という戦時中を思わせる単語。そして軍艦マーチ――。

 それらを並べると、おのずと浮かび上がるのは戦争というキーワード。

『誰も知らない町』と戦争が深く関係しているとすれば、ここになにかヒントがあるのではないか。アンジーはそのように推察した。

「大阪大空襲やて。えらい久しぶりやわ」

 となりでアンジーはつばの大きな帽子で陽を避けながら笑った。まるでどこぞのセレブタレントのようないでたちだ。

「どないしたん?」

 アンジーは顔色の悪い梨恵を気にかけた。

「わかんないです。けど、なんだか……すごく不安で」

「なにが不安なんよ」

「それがわからないっていうか……。入っちゃいけないような、入らなきゃいけないような」

「なるほど……せやねぇ、胸騒ぎみたいなもんやね。でも興味があるから不安やっていう考えもあるで。ほら、吊り橋効果っていうやん」

 そうなんでしょうか、と返事をしたが自分でも驚くほど小さな声だった。

 アンジーは気を遣ったのか、それまで並んでいたのにすたすたと先を歩いた。そして先導するように館内に入る。

「ほら、こっちやで。おいで」

「はい……ありがとうございます」

 館内の展示を前に息を呑んだ。展示物はどれも生々しく、痛ましい。

 ある会場では床下に大阪大空襲後の大阪の町並みがジオラマで再現されていた。戦闘機から街を俯瞰し、いまにも爆撃をはじめるぞ……そんな気分にさせられる。さらに進むと大きな一トン爆弾の実物大模型が目についた。

「っはぁ~! こんなごっつい爆弾がいくつも落とされたんやなぁ。そら焦土になるわ」

「きたことあるんじゃないんですか?」

「きたっちゅうか……大昔のことやしなぁ」

「私は、学生の頃にいった博物館とか割と憶えてますよ」

「東京にもあんの? こういうところ」

「ありますよ。靖国神社のところに。知りませんか」

「関西人は関東の事に疎いからなぁ」

 アンジーはそう言って笑った。

 それにしても……と言葉を結びつつ、展示についてなにか言おうとしたがその先の言葉がでてこない。自分自身、これまで戦争というものに向き合ったことがないからだ。

「言いたいことはわかるで。でもちゃんと見やな、どこにヒントあるかわからんで」

「そう……ですね」

 ふたりして展示物や解説を隈なく見て回る。その中に気になる記述を見つけた。

「アンジーさん。花菜はあの時、B29が飛んでこなかったらいいよね、と言っていました。大阪大空襲で襲来した爆撃機はB29――。花菜は大阪大空襲のことを言っていたんでしょうか」

 アンジーは、「なるほどなぁ」と納得しつつその脇のパネルにも目を移した。

「大阪大空襲って言うても一回だけやないんやな。私は三月一三日のやつしか知らんわぁ。第八次やて。八回も爆撃しよったんか……。うわうわうわ、ちょう梨恵ちゃん見てみぃ。この第八次の京橋空襲なんて八月一四日やで。終戦前日に空爆やなんて慈悲なさすぎやろ」

「本当ですね……。なんていうか、今じゃ想像できないですよね。空から爆弾が降ってくるなんて」

「んなもん、地獄に決まっとるで」

 戦争の残酷さに非日常さを感じた。確かにこの地で昔あったことなのに、他人事のようにしか思えなかった。

 ここに息づいていた時代――、それは無差別にそして無慈悲に何千何万の命が奪われたのだ。そして遥かその先の未来に自分たちがいる。空から爆弾が降ってくる危機も、食糧がなく食べられないひもじさも、ただひたすらに勝利だけを信じて耐え忍んだ日々も、今では考えられないことだ。

 身近な人間の死は悲劇なのに、見知らぬ沢山の死はただの数字。そんな風にしか思えない自分は、戦争というものに向き合えるわけがない、そう思った。

「梨恵ちゃん! これ見てみぃ!」

 興奮気味にアンジーがパネルを指差した。

 そこには『第一次大阪大空襲』の時刻、場所、規模などが細かに記載されている。そしてアンジーが指しているのは、『場所』だった。

『北区、南区・東区(現中央区)、西区、港区、浪速区、大正区、天王寺区、西成区』

「もろあそこの一帯やん!」

「本当だ。これだけの範囲なら、あの町も入ってますよね」

「爆撃で町ごと無くなった、とか?」

 思わずアンジーと顔を見合わせた。

「丸ごと無くなってしまった町が、誰にも知られることなく再生した……とか?」

 ふたりはすでに、あり得るかあり得ないかという基準で考えることはすでにやめていた。だからこそ、それがあの町の真相だと思った。

 仮定ではあるが、そういうつもりで見始めると展示物はどれも興味深く見える。

 その中に破れかけたボロボロの防空頭巾や錆びて穴の空いてしまった水筒などもあった。

「あっ……」

 その防空頭巾を見た時、背筋が粟だった。

「花菜が〝たえちゃん〟のことを青い帽子をかぶってるって……、あれって防空頭巾のことかもしれない!」

 言ったあとであおむしという名前も〝青い頭巾〟という意味も含まれているのではと思った。もしもそうならなおさら青い防空頭巾と符合する。

 アンジーもそれしか考えられないと同調した。

 その他にも町に関する手がかりがないか周到に探した。だがそれ以上の収穫はなかった。しかし、その収穫は大きい。

 ホープおおさかは二階が受付・入口になっており、順路通り進むと一階に下る造りになっている。順路に沿って一階に下りた。

 一階には中庭と講堂があった。

 中庭にはモニュメントがあり、館内案内を見るとそれは、戦没者を祀る『刻(とき)の庭』というらしい。

 ガラス越しに中庭を覗くと、モニュメントの戦没者を刻んだ銅板の前にひとりの老人が佇んでいた。

 寂しそうな眼差しで一点を見つめている。

 気が済んで踵を返した際、目が合った。彼は軽く微笑み会釈をした。

 頬に大きな古傷が目立つ。戦争体験者なのだろうか。

 つられて会釈を返して入れ替わるように中庭に入り、銅板の前に立つ。

 戦没者の銅板を囲むように八つの鐘が、ここへきたものを迎え入れるように静かに佇んでいた。案内には八回行われた空襲にちなんで、八つの鐘があるのだと書いてあった。

 夥しい数の名前がそこには刻まれてあった。そのひとつひとつが、戦争のせいで死んだのかと思うとめまいがしそうだ。

「ダメだ……とても読めない」

 ひとりひとりの名前を追うのをやめようとした時、見覚えのある名前があった。

「江口……三矢子……」

 どこで見たのだろう。思い出せなかった。

「梨恵ちゃん、なにしてんの。そっちは関係あらへんで」

「あ、はい……すみません」

 アンジーに呼ばれ、思いだすのを中断し、戻った。

 中庭の正面に講堂がある。閉め切った扉の前に年配のスタッフが立っていた。

 中でなにかやっているのだろうか、ちらちらと様子を窺っていると、気づいたスタッフの男が手招きをしてふたりを呼んだ。

「ああ、今始まったばっかりやからどうぞ入ってくださいね。折角やから聞いていかはったらええわ」

「え……そんな」

 やんわり断ろうとするも、「ええからええから」と半ば強引に中へ招かれてしまった。

 広い構内のステージ上では、パイプ椅子に座るひとりの女が戦争体験を語っていた。綺麗に生えそろった白髪が印象的な、清潔感のある老女だった。

 席についている客は満席にはほど遠く、まばらだった。しかし誰もが真剣な表情で語りに耳を傾けている。

 ひとまず空いている席にアンジーと座り、老女の話を聴くことにした。

『――みなさん、焼夷弾が空で炸裂する様を知ってはりますか。三月一三日の空襲で私も初めて見たんです。真っ暗な夜空に、パァッと光が弾けてキラキラした赤や青や黄色の光がねぇ、枝垂桜が川面に伸びていくように落ちていくんです。その時、私はまだ九歳(ここのつ)やったさかい、単純にえらい綺麗な花火やなぁって思うたんです。けど、空で幾つも焼夷弾が弾けるたんびに、火が降り注いで最初は綺麗な花火の桜やなぁって思うてたのに、あっという間に火の雨になってしもうたんですわ。

 それで火の点いた重たい鉄の棒がぎょうさん降ってきよってからに、家の屋根を突き破ったり、地面に突き刺さったりして、町が火の海になったんです。いつも遊んどった神社の木にも火が落ちて、パキパキと割れる音が鳴り響いて。

 あちこちから助けて、逃げろ、っちゅう悲鳴があがってまるで地獄やった。

 私は火の海になった景色に、顔が熱くなって、ガタガタガタガタ、足が震えた』

 老女の話は大阪大空襲の話らしかった。

 おそらくあおむしには大阪大空襲が関係していると考えていただけに、この偶然には感謝した。だが話を聴いていて、それ以上に気になるところがあった。

 それは『花火』。それに『枝垂桜が川面に伸びていくよう』という言葉。

 ――それって……もしかして。

 スマホを取りだし、ギャラリーから写真を呼びだす。大輔の顔が歪んでいる写真と、例の花火のような写真だ。

「いや、なにそれ。梨恵ちゃん」

 老女の話とシンクロしているような写真に、思わずアンジーは声を上げる。

「これ、もしかして、焼夷弾の光……?」

「間違いないって! これ、絶対あのオバアの言うてる奴やで。あなた、なんでそんなん持ってるん!」

 あまりに驚いてアンジーの言葉に反応できない。なぜこんなものを持っている? そんなこと、こっちが知りたい。

『家とかもみんな燃やされてしもて、どかん、どかん、と爆音が地響きたてながら鬼でもきたんか思うくらいに地面揺らしとってねぇ。手を上にあげたまま黒う焦げてもうた人や、焼夷弾が首に刺さって死んどる人もおった。

 でも私がねぇ、見たんで一番悲惨やったんは小さな子供背負ったお母さん。子供を背負うて一生懸命逃げてはるんやけど、背中に背負うとる子供の頭が無いなっとったの。爆弾から逃れるのに夢中で、背中で子供が頭落っことしてもうたことわからんで「たえちゃん、しっかりしな。こんなのすぐに終わる。終わったらお父さん帰ってくるから」って励ましてんねんなぁ……。そのたえちゃん、って女の子のことは知らんけど、それが鮮烈に頭に焼き付いててねぇ……戦争ってね、こんなに惨いんやってようわかったわ』

「た、たえちゃん……」

 花火、そして『たえちゃん』の名前。

 当時はよくある名前だったのかもしれないが、このタイミングで偶然とは思えなかった。

 アンジーを見る。アンジーも青白い顔で見つめ返していた。

「……せやな。あのオバアに話訊かなあかんわ」

『――以上、お話を語っていただいたのは大阪大空襲を語り継ぐ会の寺井美智子さんでした』

 ステージ上の老女――寺井美智子は椅子から立って深くお辞儀をすると、舞台袖へと消えていった。まばらな客たちからの拍手で送られながら。


 講堂の外で寺井を待った。

 さっきのスタッフに『会いたい』と伝えてもらったのだ。

 すこしして寺井が姿を現した。

 こちらに気づくと穏やかな笑みを浮かべ、ステージで話していた時と変わらぬ品のある所作でお辞儀をした。

「さっき講堂で聴いてくらはった方やねぇ? 私と話したいて聞いてますけど、戦争の話やろか?」

「急に呼びだす真似をしてすみません。……そうですね、さっきのお話の延長線上というか」

「ええんよ。私らの役目は戦争を知らん世代に語り継いでいくことやさかいに」

 実際に言葉を交わしてみても、物腰の柔らかい印象は変わらなかった。

 緊張で強張っていた肩の力が緩むのを感じながら、寺井にここまでに至るいきさつを話した。

 町のこと、あおむしのこと、そして『たえちゃん』のことと『花火』――

 未整理で拙い話し方でやけに長い話になってしまったが、寺井は相槌を打ち、時折うなずきながら辛抱強く聞いてくれた。

「――……という話なんです。信じられないかもしれませんけど」

 なんとか最後まで話し終え、寺井を見る。

「ふふふ」

 寺井は笑った。

 どうしてわからず彼女の様子を窺う。

「ああ……堪忍な。笑うたら気分悪うしはると思うたんやけど、つい」

「どういう意味?」

 不機嫌な様子でアンジーが訊き返し、おもわずひやりとする。

「こういう語り部をしてるとねぇ、学生さんやったり作家さんやったり、そんで時々あんたみたいな物好きが話聞きたい言うてくるんやわ。さっきも言うた通り、どんな形であっても私たちは戦争っちゅうもんがどういうもんやったか、どんだけ残酷なもんやったか、そして二度と繰り返したらあかんっていうのを伝えていく義務がある。せやから聞きたいっていう人には喜んで話すつもりでやってんねんけど、……長い事やらしてもうててこういうのは初めてやわ」

 そう言って寺井は立ち上がり頭を下げた。

「ちょっとオバア、なんやの? どこ行くつもりなん」

「せっかく長い事話してもうたのに悪いねぇ、せやけど作り話にはよう付き合われへん」

 アンジーの言葉を無視して、寺井はそのように言い捨てた。誤解されたようだ。

 だがそれも無理もなかった。客観的にこの話は、作り話ならともかく現実のことには到底思えない。アンジーのような人間ならば別だが、水場や誰も知らない町、あおむしの話など、馬鹿にされていると捉えられても仕方がない。

 花菜のことに夢中になりすぎて忘れていた。

「違います! 作り話じゃなくて本当の話なんです、信じてもらえないのはわかりますけど……」

「私はちょっとやそっとのことで怒ったりせえへんけどね、戦争をふざけて面白おかしく扱う人は好きやないんやわ」

「オバア、もうちょっと話聞いたりぃや! 真剣かふざけとるか、そんだけ長う生きとってなんでわからへんねん!」

「この施設はええとこでしょう? またきはってね。上の階には図書や映像もあるさかいに、もっと勉強してからおもろい話作らはったらええわ」

「待ちぃやオバア!」

「アンジーやめて!」

 寺井はアンジーの怒声も気にかけず椅子から立ち上がると、今にも去りそうに背を向けた。

「あの、寺井さんが戦災に遭ったのは九歳のころだって言いましたよね?」

 アンジーを無視されたこと、自分の話を作り話だと切り捨てられたこと、こうしている間も花菜はあの町にいること、それらの怒りと焦りが勝手に言葉を走らせた。

「それがなんやの」

「寺井さんは九歳でこの世の地獄を見たんですよね。私の姪――花菜だって9歳なんです! あの震災を地獄じゃないっていうんですか。自然災害は悲劇じゃないって言いたいんですか。信じなくてもいいから話を聞かせてくれたっていいじゃないですか! 私はふざけてなんてない!」

 気が付けば大声で叫んでいた。アンジーが慌ててなだめようとするが、それを振り切ってさらに続ける。もう自分でも止められなかった。

「歩くんが行方不明なのは本当だし、花菜だって今もなにがあるかわからない! 大輔も舞ちゃんもいなくなったことも本当なんです! 作り話だったら大輔に会わせてよ……! 作り話なんだったらあの震災がなかったことにしてよ! そしたら花菜はこんな私のところなんかに……」

 大粒の涙が床に落ち、いくつも小さな水たまりを作った。あれだけ水が怖いのに、自分の体からこうして水が落ちるのも許せなくなっていた。足で床に落ちた涙を潰し、滲んだ目で寺井を睨む。

 気圧されたのか、寺井は腰が引けたように見える。

「梨恵ちゃんええねん私のことは! 今は花菜ちゃんのためにどうにかしやんと」

 アンジーももらい泣きしそうに涙声で手を握った。興奮で我を忘れかけているのを心配して、ひとまず今日はここで退こうと説得してくる。

「なんで……なんで私じゃないの。みんないなくなった……私がいなくなればよかったのに……」

「もうやめ、梨恵ちゃん」

 肩を抱き、アンジーは背を向けたままの寺井に向けて「またきますんで」と言った。

「コラ、君、なにを大声で騒いどんや! ここどこや思うとんねん!」

 梨恵の大声を聞きつけて、スタッフの男が血相を変えてやってきた。

「寺井さんに怒鳴っとったんちゃうんか! 寺井さん高齢やのになんちゅう口の利き方しとんねん!」

 謝罪の言葉を言おうとするが、嗚咽で言葉に詰まった。

 とにかくここをでるしかない、とアンジーに肩を支えられ椅子から立ち上がる。だがその間にすっと寺井が入った。

「峯さん、堪忍。彼女興奮さしたんは私なんです。せやからもうちょっとだけ話してもええやろか」

「ほんまですか? わしにはどない聞いてもさっきのは……」

「ええんです。せやけど、ここじゃなんやから講堂で話させてもらいたいんやけど」

 もしかしてかばってくれているのか……?

 寺井の小さな背中を見つめながら今起こっていることをうまく整理できないでいた。

「わかりました。寺井さんがそない言うんやったら信用しますけど……なんかあったらすぐ知らせなはれや」

 寺井の押しに負け、数十分間程度ならいいとスタッフの男は講堂の使用を許可した。

「おおきにな、じゃあこっちでお話しましょか」

 寺井はそう言って講堂の中へと招いた。

「寺井さん、あの……」

 頭が冷え、取り乱した自分が恥ずかしくなった。ひとまず無礼は詫びなければと口を開いたところで寺井は微笑んでそれを否む。

「……子供のこと言われるとねぇ。あんたの言うてることが作り話やったとしてもつい助けたあなってまうもんやなぁ」

 はからずもなりふり構わない言葉で寺井は怒りを治めてくれたらしい。そんなつもりではなかったが、怪我の功名だった。

「さっきは私もついムキになってもうて堪忍なぁ。お嬢がさっき言うてた話やねんけど、ようよう考えてみると気になること思いだしたんよ」

 そう切りだした寺井の顔には穏やかさが戻ってきていた。怒らせてしまったのはこちらのほうなのに、と恐縮してしまう。

「あの、気になることというのは」

「あんたの言うてた町なぁ、私知ってんねん」

 アンジーと顔を見合わせ、見つめながら互いにうなずいた。語りの中で『火の雨』や『たえちゃん』といった既知感を覚える言葉があった、それが大阪大空襲を指し示していて、実体験ならば語り部である寺井はあの町を知っているのではないか。そもそもそれが聞きたくて彼女から話を聞いたのだ。

「ほんまはその名前の町、聞いた事あるなぁって思うててん。なかなか思いだせやんかったんやけどねぇ、ようやっと思い出したわ」

 気付けば前のめりになりながら寺井の話に集中していた。

「大阪は戦時中、軍都大大坂って呼ばれとってねぇ。陸軍の砲兵工廠や軍事工場が多く密集しとったんよ。そういう軍事施設を壊滅さすために大阪、特に大阪城周りのここら一体が標的にされたんよ。そらもう徹底的に潰しにきてねぇ、大阪が空襲で爆撃されたんは全部で八回やってなってるけど、大小合わすと三三回も空爆されてるんよ。それであんたの話を聞いとって、そんな戦時中のどさくさで忘れられてもうた町があったなぁって。六〇年以上ぶりに思い出したわ」

 さらに詳しく聞こうと口を開きかけたが、「そいでもな」と続く寺井の声に阻まれる。

「単純に私が忘れてた、いうんは考えられへんねんけどなぁ。そんなん、町が爆撃でまるごと焼き尽くされたかて、普通は覚えとるはずや。今と町の名前が変わって無くなってしもた……って話でもあらへん。あんたに聞くまで、あの町についての記憶がまるごとすっぽりと抜け落ちとったみたいや」

 覚えていられない……忘れてしまう町。つまり、誰にも知られていない。誰も知らない町。

 やはり通常では考えられないようなことが起こっている。

「あの、寺井さんが被災したのって、どの辺だったんですか」

寺井は浪速区の一画の名を挙げた。

「アンジーさん、そこって」

「……あの町から目と鼻の先や」

「じゃあ、間違いない」

 あの町だ。

「寺井さん、あの町はその後どうなったか知っていますか」

「それがねぇ……」

 申し訳なさそうに寺井は顔を伏せた。本人も一体いつからあの町のことを忘れてしまったのかわからないと話した。それはつまり、あの日、首のない子供を背負った女性を見た直後からわからない……ということだ。

 寺井には悪いがそれだけならば、あの町を知っているといっても意味がない。

「寺井さんがさっき、ステージで『たえちゃん』の話がでてたと思うんですけど。あれってその……知り合いの人ですか」

「ちゃうちゃう。だってあれは母親が頭が無いなった子供に呼びかけてたんやで? そないなるとそもそも顔がわからんし、私にも『たえちゃん』いう友達はおらへん」

「そっか……そうですよね」

 さすがにそこまでは掴めないか、と肩を落とす。

「ほんであんたはその町に住んでんの? せやけど誰も知らんような町にどないしたら住めるんやろか。ほんまは違う名前やけどその町やって思い込んでるだけやとか」

「そうだとしても『水場に子供を近づかせるな』とか、『雨の日に誰も外にいない』なんてルールがまかり通ってる場所があるんでしょうか……。仮にあったとして、そんなルールの町なら、地元の人くらいは知ってないとおかしいと思うんです」

「確かにそないけったいな習慣は聞いた事ないねぇ。せやけどトイレに現れるっちゅうのがどうもわからんなぁ。私ら子供の頃はおかあやおとうから『雪隠(せっちん)には厠神いうのがおって、これを綺麗に大事に扱わん奴はぼっとんにひきずり込まれて死によんや』って脅かされてたんやけどねぇ」

「そういえば、何年か前に『トイレの神様』って歌が流行りましたね。そういうトイレに住む神様っていうのはどこにでもある話なんでしょうか」

 どうやろ、と笑い寺井は昔の暮らしを述懐する。

「昔は今みたいに下水道なんてあらへんから、地面に穴掘って落としてたんよ。私らの子供のころはみんな汲み取り式の便所でねぇ。夏場なんか臭いが上がってきて、えろう臭かったわぁ。小さい子供なんかはよう落ちて亡くのうたりもしたんよ」

 それを聞きながらアンジーと目を合わせる。入手できる情報はここまでか、と諦めかけた。

 ほかになにか聞いておくことはないかと考えた時、ふと梨恵は前に思い出したことがあった。

「前に学校のトイレで花菜があおむしと話しているのを聞いたんですけど、あおむしは福島県からきたみたいです。当時はそういう……他の地方から大阪にやってくる人って結構いたんですか」

 それを話すと寺井はすこし考え込んだ。

「地方からこっちへ嫁いできたってことやんな? そらおらんことはなかったけど、そういう人が近所に多かったかって言うたら、うちの周りはそうでもなかったかなぁ。さっきも言うたけど、大阪は爆撃される危険性が高かったから、わざわざ地方からこっちにくる人も少なかったはずやし」

「オバアさ、友達におらんの? その辺で空襲から生き延びた人とか」

 寺井はその問いに反応せず、アンジーは不機嫌に口を尖らせた。

「空襲から逃れて今も存命の友達とかいらっしゃいますか」

 アンジーの代わりにと訊ねる。

「前はおったんやけどねぇ。もうこの歳やし、えろう少のうなってしもたから……」

「どんな小さなことでもいいんです! すこしでも話を聞けるなら」

「そない言われてもねぇ、ええと、三杉さんはまだ元気やったかな……」

 そう言いながら寺井は携帯電話を取りだし、老眼鏡をかけると目を細めて番号リストをスクロールする。彼女が善人でよかった。

『♪』

 バッグの中でスマホが鳴った。画面には真麻の名前が表示されている。

「真麻からだ。なんだろう」

 アンジーにそこを任せ、通話をするため講堂の外にでた。

「えっ……」

 目に飛び込んできたのは滝のような雨。さきほどまでの夏晴れが嘘のよう豪雨だった。

「そんな!」

 思わず叫んでいた。今日は一日晴れの予報だった。それ以前にほんのすこし前まで雨の気配すらなかった。

 スマホを耳にあてながら、中庭を叩きつけるような雨に呆然とする。

『もしもしお姉ちゃん! 今どこにいるの? 学校から連絡あったんだけど、なにしてるのよ! 美容院も休んでるし!』

「学校から連絡? 待って、私のところにはかかってこなかったよ!」

 ぷつぷつと手足の先から毛穴が立っていくのがわかる。これから起こる厭な予感に体の全身が一斉にざわつきはじめた。

『ちょっと信じられないんだけどさ、花菜が……花菜がクラスの児童全員と一緒にいなくなったって!』

#創作大賞2024
#ホラー小説部門

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