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『ペトリコール』第十三話

■13

 雨の大阪城公園は、傘をさして記念写真を撮る外国人ばかりが目立つ。

 そんな中、天守閣を囲む外周歩道で、腰を擦りながら歩く寺井の姿があった。

「ええ、福島のねぇ、そうなんよぉ。ああ、そうかいな。わかりましたぁ」

 寺井は携帯電話で話しながら、ゆっくりと歩き、受話器相手にお辞儀をして通話を切った。

「あの、すみません~」

「はい?」

 不意に呼び止められ顔を上げる。一眼レフのごつごつしたカメラを首から下げた男が作り笑いを顔に張り付けながらこちらを見ていた。

 男の後ろにはふたり、同行している仲間らしき男女。どれもはじめて見る顔だった。

「あの、すみません。ちょっと聞きたいんですけどいいですか」

「はあ……なんでっしゃろ」

「ええっと、変なこと聞きますけど、この辺で『誰も知らない町』っていう都市伝説があるって聞きまして。お母さん、知ってます?」

「誰も知らない町? なんか最近聞いたような……」

「え、本当ですか! いやぁ、全然情報なくて困ってたんです。どんなに小さなことでもいいんで教えてください!」

「急にそないなこと言われてもなぁ……」

 いじわるではなく、本当に思い出せなかった。物忘れがひどくなってきている自覚はあった。

「ちょっと今思い出されへんねぇ、ごめんやで」

「そうっすかあ……。あ、じゃあ、後で思いだしたら連絡してくれませんか」

 そう言って男は名刺を差しだした。

「ヴィンチ出版? ああ、本屋さんでっか」

「本屋っていうか……まあ、そんなとこです。実は僕たち取材してまして。ネットロア発の真相を暴くって特集で」

「ようわかりまへんけど、思いだしたらここに電話したらよろしい?」

「あ、はい。是非―!」

 男は「よろしく!」と手を振ると去って行った。調子のいい男だな、と思った。見ると別の通行人にまた声をかけている。

 ひと休みしようとやってきたベンチが雨でびしょ濡れだった。溜め息を吐き、ここに座るのをあきらめる。

「ええっと、なんやったっけ……。うち、なんかしてたはずなんやけど……」

 出版社の男に話しかけられたことで、なにをしていたかすっぽり抜け落ちてしまった。この程度の物忘れは日常茶飯事だが、なにか頼まれていた気がする。

 すこし考えこむが、自分でも感心するほど綺麗に忘れている。

「ま、その内思い出すやろ」

 深く考えるのやめ、ホープおおさかへ戻った。


「ああ、寺井さん。ご無沙汰でんな」

 ホープおおさかの講堂前の休憩所でひとりの老人が彼女を出迎えた。髪の毛の寂しい白髪の老人で、頬に大きな古傷があった。

 同じ『大阪大空襲を語り継ぐ会』のメンバーで、彼も時々この施設で語り部を担っていた。

 まもなく第七次大阪大空襲の日が近いということで、できるだけ現存するメンバーで大阪大空襲の話をする企画を考えていた。

「今日は下見がてらにきたんですわ」

「下見やて。怖いわ」

 何度もここで語っているくせに、というニュアンスを含みつつ笑った。

 老人も豪快に笑ったかと思うと、痰の絡んだ咳をする。

「いややわぁ、尼塚井さん。次の語りの時まで生きとってよぉ~。せやないとうちが尼塚井さんの代わりしやんとあかんやんか」

「はっはっは、心配せんでええさかいに。化けて語れば坊主どもも怖ごうてええわ」

 ふたりが話していると、「すんません、えろうお待たせしまして」と施設のスタッフが現れた。

「なんやくるん早いわ~。今、べっぴんさん口説いてんのにやな」

「あらら、そら悪いことしたなぁ。って、ちゃうか、ははっ! それはそうと……ええっと、尼塚井さんは来週の回にでてくだはるんでしたな。今回もあの話してくれまんの?」

「せやなぁ。わしが話せるんはあれくらいやからな」

「それにしても不思議な話やねぇ。変な格好した女の人に助けられたって話。だってその女の人、どこの誰かもわからんのでしょう?」

「ああ……せやねんなぁ。わしのことおぶって、橋の下まで連れていってくれたんや。あの辺であないなべっぴんさんおったら知らんわけないんやけどな」

「ほんま、年寄りなっても女、女、やなぁ」

 尼塚井は豪快に笑うとまた咳き込んだ。

 ほんのすこし前に全く同じやりとりをしたのがおかしくて、腹を抱えて笑った。そして笑った拍子に思いだした。

「ああ……そういえば、あの福島の人の名前。『西川ハナさん』って言うんやった」

「なんや、誰やそれ」

「いえね、お願いされたんよ。それにしてもあの娘、けったいな子やったなぁ。ひとりできてんのに、まるで誰か連れがおるみたいにぶつぶつ喋って……。しゃあけど、どこ行きはったんやろ?」

 ふと見上げた刻の庭からの空。

 雨は止んでいた。



 真麻がニュー有宮に着いた時、時刻は一八時を過ぎていた。

 職場に無理を言い、半ば強引に新幹線に飛び乗ってやってきた。今の職場になってからこんなことははじめてだった。

 やはり独身の梨恵に花菜を頼むのは無理があったか、と道中、何度も自分を責めた。

 ――花菜にもしものことがあったら……。

 学校に着くまで生きた心地がしなかった。

 気持ち悪い汗ばかり噴きだし、動悸が収まらない。夫に続いてひとり娘まで失くせば、このさきどう生きていけばいいのか。

 精神的に病んでいたことは認める。今の自分では花菜と一緒に暮らせないというのも事実だ。だがもっとやりようがあったのでは、と悔いばかりがよぎった。

 ふと、道路沿いにぽつんと佇む小さな社に足を止めた。

 なぜこんなところで立ち止まったのか、自分でも説明がつかない。いまはこんなことをしている場合ではないこともわかっている。だがどうしてだか、そこから離れる気になれない。

「お姉ちゃん……?」

 梨恵に呼ばれた気がして振り返った。だがそこに梨恵の姿はない。あるのは傘を持った通行人ばかりだ。

 不思議な感覚を振り払い、真麻は再び学校への道を急いだ。


 小学校に着くとはやる気持ちを押えられず、廊下を走って花菜の教室へ向かった。

 三年生の教室の前で深呼吸をすると、祈る気持ちで教室のドアを開けた。

「……あれ」

 教室の中、児童達が一斉に真麻に注目する。

 クラスごといなくなった、と聞いていたのに……と目を丸くした。

「渡辺さんのお母さんですか? 妹さんから連絡ありませんでした? あれは教員の勘違いで、みんな音楽室にいたんですよ」

「え? 勘違い? 音楽室って、そんなこと――」

 有り得ない! そう言おうとした時、不意に誰かが抱き着いてきた。

「花菜!」

「ママ、会いたかった!」

「え……大丈夫なの? 一体なにが」

「大丈夫だよママ」

 屈託ない顔で笑う花菜を前に、喉まででかけた言葉を飲み込んだ。

 無事ならばそれでいい、と花菜の頭を撫でる。久しぶりに会った娘はすこし大きくなっている気がした。

「なによ、楽しそうにしてるじゃない。ちゃんと仲良くできてるんだね。ママが心配してるだけだったのかな」

 嬉しそうに大きく頷き、花菜は頬を寄せた。

「でも先生。もう一八時過ぎていますよ。なんでクラスの子みんな残っているんですか」

「実はねぇ、合唱コンクールが近いんですぅ。先方の都合で今年は八月一四日にありまして……。それに備えて練習をさせていただいてるんですぅ。保護者の方々には了承済みですのでご安心ください」

「夏休み中に合唱コンクール? 保護者のって、姉の了解も?」

「ねぇ? こんな時期に困りますよねぇ」

 絶妙に問いをかわし、藤本は教壇から児童達に向き直った。

「じゃあ、折角だから渡辺さんのお母さんに聴いてもらいましょう。さ、みんな立って」

 藤本の号令に児童達が一斉に立ち上がる。

 まるで軍隊のようなきびきびとした、一糸乱れぬ正確な動きだった。

「八紘一宇、我が国に勝利をもたらす神風起こせ!」

 藤本がハの字に手を突きだし、指揮棒を構える。そして、合図とともに児童達が一斉に歌いだした。

「タンタン、トンカラリンシャン、テテテのテ♪」

 その異様な光景に圧倒され、動けなかった。今、一体なにが行われているのか整理できない。

 そんな真麻に構わず、児童たちは力強く拳を振りながら合唱をはじめる。


「守るも攻めるも黒鉄の
 浮かべる城ぞ頼みなる
 浮かべるその城日の本の
 皇国の四方を守るべし
 真鉄のその艦日の本に
 仇なす国を攻めよかし」


「……軍歌?」

 次に胸をよぎったのは、こんな軍歌を小学校の合唱コンクールで歌うのかという疑問だった。

 どの児童も精悍な顔つきで笑顔で歌っている。本当に軍隊さながらだ。さらによく見れば、教室の男子は坊主、女子はおかっぱ頭で統一されている。

 まるでここだけが戦時中のようだ。異様な光景に開いた口が塞がらない。

「ママ……」

 その時、花菜が真麻の耳元で囁いた。

 誰にも聞かれまいと声を殺しているようだった。

「そのまま聞いて。あのね」

 軍艦マーチを延々と合唱する児童達は、真顔のままで徐々にこちらに体を向く。おのずと児童たちと目が合い、凍り付いた。日本の勝利を確信している顔つきだった。

「わたしね、なにもいらない。どんなことでも我慢するし言うこともちゃんと聞く。だからね、ひとつだけお願いがあるの……」


「石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾丸(たま)撃つ響きは雷(いかづち)の
声かとばかりどよむなり

万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ」



「――お引越ししたい」




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