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26歳の今思うこと

毎日定時に退勤できるかわりになんの身にもならない仕事で給料を得て、1K6万9千円の暮らしを維持している。慢性的な肩凝りやたまの生理不順はあるもののおおむね健康、実家はある程度裕福で、両親・両祖父母ともに健在だ。気の置けない友人がおり、付き合っている男がいる。しかし、どこまでいっても私は私の人生に納得がいかない。
納得できないというのは、過ぎた昨日を悔いて、こんなはずではなかったと溢すようなことではない。なぜなら、私は後悔をしない。ものごとを測る尺度が人生単位なので、その時その時の心の有り様をなによりも信じ、重んじている。自身の心の向く方向を見誤らずに行動することを最善としているため、その結果、後味が悪くなるような事態は起こらない。くわえて、私はとても強情で、後悔する状況を招いた自分のことをとても許せないから、悔いなんて微塵もありませんと敢えてすすんで言い切ってしまう性質である。認められない自分は始めからいなかったことにしてしまう。だから、後悔することがない。いつでも苦い思いをするのは、自身の心に背いていると知りながら、他人の声に従わなければならなかった時だけだ。
私の不満足は、過去ではなく、明日の自分へ向けた叱責だ。今に見てろよ、と鏡を睨む心地は、宣戦布告にも似ている。当面の人生の目標は、もうここで死んでもいいと思えるような夜にたどり着くことだ。できれば人生最高の夜に化粧も落とさず眠ってそのまま死にたい。そのために長いこと自分に喧嘩を売っては買い、売っては買いを繰り返している。死を目標として生きるというと前向きなのか悲観的なのかよく分からずおかしな話のように思えるが、大まじめである。私は本当の意味で死を望んだことはない。きっと死んで楽になれるタイプではないのだ。こんなところで死ねるかよと毎日思っている。まだ死にたくない。そんな暇ない。まだ全然満たされてない。ここで終わりになんてできない。そんなの死にきれない。この意地が確かに私を生かしている。
私を苦しめるのもまたこの意地だ。毎日はままならない。ぬるい現実に適当に浸かっていればいいものを、一年に一度あるかないかの最高の夜をできる限り集めて生きた意味を刻みたいなんて馬鹿な夢を秘めてしまっているものだから、ずっと戦っていないといけなくて、気が抜けない。思いは行動で伝える。態度で示す。言わない気持ちはないのと同じ。現状に不満があるなら行動する。これらはみんな私の人生の指針で、宗教で、武器だ。20歳の時「全部勝つ」を一年の抱負に設定していたが、我ながらギラついていて良いなと思い出すたびに笑ってしまう。闘志は少しかたちを変えて、今も私の中に棲んでいる。
この一年で、転職を反対する親と揉めて、元彼と別れて、仕事を辞めて、ひとりで広島で飲んだくれて、転職して、入社と同時に自宅待機になり、今の彼氏と付き合いはじめて、同棲を反対する親と揉めて、彼氏と揉めて、波乱万丈なのはいつものこととしても、それと見合うほどの浮上ができたか分からないけれど、noteを始めたのは良かった。きっと一番良かった。まだ死ねないと思う限りはやめずにいたい。

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