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なんで怖いのか、泣きたいのか、ちゃんと説明できなかったりするよね。熱血漢への共鳴的な痛みと、感動のあり方の話。

私はベタベタのベタな人間なので、受験期はファンキーモンキーベイビーズのあとひとつを聴いたりしていた。私が小学生の頃に流行っていて、その頃はよく耳にした。熱血漢がことごとく嫌いな私だったが、楽観できる明るい曲は好きだったのだろう。もう今は聴かなくなったけど。

小さい頃悩まされ、未だに襲われることのある衝動的な痛みがあって、私は未だにその感情がなんなのか、よく分かっていない。

あとひとつを聴くと、メジャーという漫画を思い出す。小学生の頃、友達の家に行ってやることが無くなると、友達のお父さんが全巻揃えていたメジャーやはじめの一歩をこっそり読んだ。メジャーで主人公がまだ小学生くらいの割と序盤の頃に、主人公と女の子がいじめっ子に反逆をするシーンがある。あのシーンを読んだ日、私はなぜか触れてはいけないものに触れてしまったような、泣き出したいような逃げ出したいような気持ちにかられて、心臓を鳴らしていた。あの時と同じ感覚になる。あとひとつを聴くと(今たまたま耳に入ってきたのだが)。

恋とか感動とか、そういった上向きの感情ではなく、泣き出したいような、逃げ出したいような、あの気持ちはなんというのだろう。男女の友達で遊びに行って、男同志が喧嘩をはじめて、最初はいつものようなふざけ合いだったのが、次第に収集が付かない程激しくなってしまった時のような。きまりが悪い、というのとも違う。ただ暴力的であることが怖い、というわけでもない。なんなんだろう。

サーカスの演技なんかで、ナイフで切られた振りをして呻く人や、汗を飛ばして踊るディズニーランドのダンサーさん、声を合わせてお神輿を担ぐ同級生なんかを見た時も、同じ感覚に襲われる。

小さい頃はその衝動的な感情に耐えきることができず、ステージや舞台、小さな出し物なんかの度に大泣きしていた。幼いので言葉で説明もできない。激しく感情が揺すぶられ、その場に立っていられなくなる。感傷とも違う。

上向きの感動で泣きたくなるんじゃなくて、むしろ目の前の人が痛みに飛び込んでいくから、怖いのだ。痛み、というのは物理的なものではなくて、「努力」「本番」「正義」とか、そういう熱血的な、痛みのことである。痛みに耐えている、いわゆる真剣な表情を見ると、心が動かされると共に怖くなる。

そっちに行かないで、戻ってきてと泣きながら叫びたくなる。痛みに耐える姿は確かに美しい(多くの場合が晴れ舞台なのだから当たり前ではあるけど)。それでもどうしようもなく苦しいし、共鳴的に痛みさえある。私だけだろうか。それとも、みんなの言う「頑張って、かっこよかったよ」には痛みへの共鳴も含まれているのだろうか。

今ではこのミラーニューロン(相手の感覚に共鳴する神経細胞)の作用的な、ふいに襲ってくる痛みへの共鳴は年齢とともに薄まって、別に泣き出したりはしなくなった。泣きたくなることに変わりはない、でも感動や恋ではない。悪い感情ではないけど。広義でいえば、エモい、とかに含まれるのだろうか。

泣きたくなってしまうな。

他に私が怖いものとしては、お化け屋敷がある。
お化けが怖いというより、お化け屋敷が怖い。

お化け屋敷という空間において、どれだけ怖がっても、泣き叫んでも、誰も助けてくれない。それどころか、お化け役は怖がっている人のもとにこそ、嬉嬉としていつまでも追ってくる。
「ちょっ、タンマ!!怖いって!!」とへらへら笑いながら言っても、「いや流石にやりすぎましたかね〜」とか言ってお化けがコスチュームを脱ぎ捨てる、などということは無い。徹底的に平謝りさせてくる。泣かせてくる。体育会系の、泣くまで叱るぞ、と言ってくる先生に捕まった時と同じパターンである。だから熱血漢は嫌いだ。

だけど結構、そういう泣きたくなるようなある種の怖さに、マゾ的な、快感を得るから人は痛み(広義)に飛び込んでいくのかな。私にはその感覚があまり分からない。

眠れない夜に捧ぐ