見出し画像

【哲学対話の記録】無関心の向く先は

誰もが自分を見ていない世界。
視線という視線が自分という存在を通り抜けていく世界。

自分という存在が希釈されたような、
はたまた存在していないような。

そんな世界に今、あなたがいたとしたら、
どんな思いで、どんな気持ちで、

自分の横を過ぎ去る人々を見ているのでしょうか。

はじめに

薄桃色に埋め尽くされていた景色が、段々と鮮やかな緑色に変わっている今日この頃。
時が流れるのはあっという間だと考えながら、教室へ向かい足早に歩きます。

今日で対面での対話は2回目。
やっと予定が合って今日初めて参加出来る人もいる。

どんな世界が広がっていくのだろうかとわくわくしながら、
今日も対話が始まります。


前回の対話は下のリンクからご覧になれます。
 “感情は理屈になるのか”
私達が振りかざす理屈について、深めていきました。

また、私達、対話空間創造社については下のリンクからご覧になれます。お時間のある際に、ぜひ読んでみてください。


テーマと理由

今日の対話のテーマは、以下の3つとなります。
今回は私が考えたちょっと深めのテーマです。

・この世でいちばん怖いのは無関心というけれど本当か
・likeとloveの違いは何か
・自分の価値はどう決まるのか

それでは、このテーマに至った理由をお話ししたいと思います。

この世でいちばん怖いのは無関心というけれど本当か
好きの反対は嫌いとかいうけれど、好きの反対は無関心とも言えるんじゃないかと最近ふと思いまして。「○○の反対は××」の関係は、実は表裏一体なのかもしれないとも考えたんですね。あと、私には、嫌うよか無関心でいてほしいっていう気持ちがあります。嫌いという明確な意思を受け取り続けるのは辛いし。みんなはどう考えるのかなと思って、このテーマを挙げました。

likeとloveの違いは何か
日本語に直すと、likeもloveもどっちも「好き」という言葉になりますよね。友達に対してはlikeよりもloveを使う人が多い印象があるし、恋人に対しての「好き」はloveと表現されることが多いけれど、もしかしたら、感覚的にはlikeの人もいるかもしれない。どっちも「好き」と表現できるのであれば、果たしてそこに明確な違いはあるのかな、と。

自分の価値はどう決まるのか
就職活動をしてるとどうしても考えてしまうんですよねぇ……自己分析だとか他己分析だとか性格検査だとか、本当の自分、というか自分が考えていることが見えてくると、こんな奴をどの会社が採るんだよ…ってめっちゃ落ち込んできちゃって笑 自分の価値は自分で決めろみたいに言われるけどそんなことは難しいし、かといって他人が決めたものが全てではない。じゃあ誰が私の価値を決めるの?何をもって価値は決まるの?と考えたので、みんなと話したいなと思いました。

問い出し

「テーマについて話す前に、一度対話のルールをおさらいしましょうか」

誰かの意見を受け止めること、全否定はしないこと、意見が変わることを楽しむこと。

改めてルールを聞くと、本当に自由な世界にいるのだと感じました。


「さて、では話したいテーマはありましたか?」
いよいよ対話が始まります。

「無関心についても自分の価値についても、興味があるかな」
ちょっとの沈黙の後、ひとりが発言します。

「そもそも価値ってなんだろうっていう根源みたいな話にもなるし、あとは、比較対象があるわけではないのに比べちゃう、みたいなこともあるから」

深いかな?!と焦ったり、難しいなあと笑い合ったり。
オンラインでは感じることの出来ない雰囲気が、そこにあります。

「私は無関心にも興味があって。あなたってフレンドリーだねって言われることもあれば、冷たいって言われることがあるんだよね。無関心だから冷たいって思われたのかなあって」

「私はlikeとloveの違いに興味がある。loveは親子愛を表現するときにも使われるし、loveは愛情を表すもので、ただの好きより深いっていう印象があるなあ。likeはいろいろなものに対して気軽に使える気がする」

「今の話で、深度と重度は関係あるのかなって思った。愛が重いって言う表現もあるよね。深度と重度って一緒なのかな」

「確かに!重いも深いも愛情の表現として似たような感じでつかうよね。比喩表現としての二つの言葉の違いは気になるかも」

ちょっとヘビーな話題だったかな。
この言葉に「はっ!ヘビーも重さじゃん!」
ふとした発言にもみんなツッコんできます。

「無関心が怖いって話は本当かもって思わせる出来事があって。小さい頃、仲良かった子と突然話す機会がプツッとなくなったことがあったんだけどあれは本当に怖かった…」

「分かる!嫌っている訳ではないんだけど急に関心が無くなるのか、何もなかったみたいな感じになるんだよね」

「"嫌い"って壁があるじゃん?でも無関心から好きに転ぶことはある。だから、自分に対して無関心でいられることは苦ではないかな」

「そうそう。嫌いは壁を感じるよね。ズドーンって感じ」

「『好きの反対は無関心』とも挙げてくれたけど、その場合、嫌いの方が好きに近いんじゃないかなって今思った。嫌いになるまでにその人について何か知ったり受け取ったりしているわけで、少なくとも自分の何かを受け取ってくれてると解釈できるから、無関心よりましだってことになる。ここまでのみんなの話とは逆になるのかな」


今までのやりとりからみんながそれぞれ思考を巡らせているのか、
外から聞こえる吹奏楽部の合奏練習の音が少し大きくなりました。


私はひとりの参加者に声をかけてみました。
どう?何か感じるものはあった?

「うーん。無関心って愛だなって思ってるんだよね」

え?どういうこと?
おお、なるほど…
参加者の表情が見事に二分される瞬間を見ました。

「親は自分に無関心なんだけど、だからこそ、今の自分があるし自由にやってこれたし。嫌だと思う人もいるかもしれないけれど、自分はありがたいって思うんだよ」

「教育に関してになるかもしれないけれど、無関心と放任とはどう違うのかも気になってきちゃうな」

「自分は、少なくとも自分の知り合いには無関心にならないなって思う。喧嘩とか、そういうことが起きなければ基本プラスかなって。知らない人に関しては何も起きないけど」


確かに知人に対して無関心になることはないよなあ。
だとしたら無関心ってなんなんだろうね。
無関心は対象についての気持ちがゼロなのかな…?

道ばたに転がる石ころのように、
疑問の欠片達があちこちに散らばっていきます。


「例えばさ、アンチって、すっごいその対象のことみてるじゃん。そしたら情報的にはプラスだよなって。でも好きとか嫌いとかの感情で見たとき、嫌いのマイナスに振れてる、っていう状況じゃないかなって今ふと思ったんだよね」

「私舞台に対してそうだよ。見る度に、ああ自分は舞台には勝てないなあって思うの。でも舞台はすっごい好きだし…」

「自分は逆に無関心がうらやましいなと思うときがあります。関心を受けすぎるとき、例えばストーカーとか。そうなるくらいなら無関心がいいな、と。でも自分はみんなに関心がある。そもそも、友達とかを選ぶ段階で、自分に関心がありそうな人を選んでいると思います」

「確かに。その時点でもう自分は、そして相手は無関心ではないよね」

「嫌いな人も、考えた上で合わないと感じることがあったり好まないと感じたりしているってことは無関心ではないし。無関心が怖いと感じるのは、自分だけが関心を持った状態になるからかなと思いました」


結構みんな無関心について興味がありそう。
ということで、無関心に関して生まれた問いから、今日の問いを決めることにしました。

・無関心とは何か
・無関心は悪か
・無関心と放任の違いは何か
・無関心は怖いのか

この4つの中から、話していきたい問いを1つ選び、多数決で問いを決めました。

そして、今回決まった問いはこちらです。

''無関心とは何か"

対話スタート

「それじゃあまず、無関心って何だと思いますか?」

「素直に捉えれば、関心の逆だよね。興味がないこと」
うんうんという様子。

「無関心ってフリが出来ますよね?例えば、友達が恋愛話を持ちかけてきたけど聞きたくないときとか、無関心のフリをすると思うんです」

「そうそう。だから無関心の認知って難しいなって思った。その人に関わった時点で、その人に関して何かしらの情報を得て感情を抱くから」

「友達とか知っている人を見かけたら、何しているかなとか思うけど、そうではない人達に関しては見かけても何しているかなとか思わないし。それが無関心かなって」


知り合いだったとしても、無関心であればスルーしてしまう。
しかし、出会った瞬間に相手に関しての何かしらの情報を得ればそれは関心になる。

対比の存在のはずなのに、なぜか重なってしまっていると感じました。


「話が逸れちゃうかもしれないんだけど、夢に全く知らない人が出てくることってあると思うんだ。友達から聞いた話だから真偽は分からないんだけど、その知らない人ってどこかで会った人なんだって。無関心だから、自分自身では覚えてないけど、脳は覚えてる、みたいな。これは無意識に関心を持っているってことなのかな」

「うーん、関心ってもっと能動的なものじゃない?だから、みんなの話みたいに、受動的に情報を手に入れてしまった段階で関心を持ったとすることには違和感がある。例えば、街中にポスターがいっぱい貼ってあっても、自分が気に入ったポスターしか覚えてないことってあると思うんだけど、関心ってそういうことかなって。でも覚えちゃったら無意識に関心を持っていることになるのかもと思ったり…」

「関心が無意識下で働くのかって話にもなるよね」

「確かに。でも、感情が引き起こされたとしてもそれに対して思いを巡らせたりしなければ、関心があるとは言えない気がする」

「私が最初に無関心が怖いって話したとき感じたのは、社会の人々が見なかったこと聞かなかったことにするっていう状況がとても怖いなと思っています。でもそこから、起きていることとかを調べようとするのが関心があるで、そのまま流れてしまうと無関心かなって思いました」

「つまり、何かを知ったそのあとに能動的に行動に移したくなれば関心で、そうでなければ無関心ってことになるよね」

無関心はフリが出来る。
この考えの通りの出来事だと考えながら聞いていました。

見ないように、見なかったように。聞かないように、聞かなかったように。
でも見た、聞いたという事実には変わりはなくて。

なんとなく分かるかもしれない、そんなことを感じました。


「今までの話を聞いて、無関心って何から生まれるのかが気になりました。関心があって無関心なのか。何かのきっかけがあるのか…」

「その対象のものを、認知した、知った、この次があるかないかじゃないかな」


ある出来事が起きた。そして私はその出来事を知った。
その認知の先で、ゼロに行ったら無関心、プラスやマイナスに行ったら関心。

かんしん、かんしん言い過ぎて、頭がこんがらがってきました。笑


「必ずしも好き嫌いに行かなくてもいいのかなって。少なくとも感情が好きか嫌いかどちらかに振れたら関心に変わりないし、消えていったら無関心、みたいな」

「感情が動いたら関心で、それがさらに動いた先に好きや嫌いがあるって感じだよね」

「そうそう。それで、関心が枝分かれして嫌いになって、そこから振れなくなるのは装いだと思うんだよね」

「それは好きでも一緒じゃないかな。振れなくなったらフリってところは」


頭の上でかなり高度な会話が繰り広げられているようで、
はてなが浮かんでは消えて浮かんでは消えての繰り返しです。


「全く好き嫌いに分かれるわけではないよね。例えば、コロナを認知しました。かからないから知らないってのは無関心。逆に、コロナに関心をもって情報収集する、けどコロナは好きでもなければ嫌いでもない。事実として関心が動いている」

「好き嫌いがわかりやすい例として動いているけど、好き嫌い以外の分岐点もあるはずだよねきっと」


またまたみんな整理の時間。


ファシリテーターがぽつりと話しました。
「無関心と興味が無いって一緒…ですか?」

「えっと、無関心、関心って言っているけど、たぶん自分の中ではまだどっちか分からなくて。第三者がそれを判断したら無関心か関心かになると思います」

「うんうん……ん?ごめんもう一回言って?」

分かりそうで分からないこの歯がゆい感じ。分かります。

「もし、好き嫌いを置いておいて何かしらの情報を得たとして、無関心ととるか関心ととるかは本人は意識しないじゃないですか。その状況を見た第三者が区別するのかなって」

「話を聞いたあとの『ああ~』って言う反応とかに対して、いやこいつ話聞いてないじゃん無関心じゃんって思う場合も第三者からしたらあるってこと?」

「それもあるし、なによりも本人はその瞬間は考えてるとは限らないし。さっきのアンチの話だって、SNSを使ったアンチだったとしたら、その人を嫌いだからSNSに書いているかもしれないし、SNSに書くことで誰かが自分に賛同してくれるから書いているのかもしれない。そうなったら、 SNSに書くことに関心があるのであってその人に無関心だから出来ることかもしれないなって」


心の底から納得した「ああなるほど」が口から出ました。

賛同を得たいからアンチをする。
対象が嫌いだからアンチをする。
でも、書き込む本人以外には『アンチ行為』でしか見ることが出来ないから、この人の関心がどこに向いているのか分からないのです。

つまり、周囲と本人との関心の方向がズレて認識される場合がある。


「ということは、自分が何に対して無関心であるかは自分自身では気付かないってことよね」

「あ、私が最初に言いたかったのはそれ!そういうこと!無関心を認知することが難しいっていうのは」

「なるほど!そういうことか!」


対話の流れの中で、少しずつ、
参加者同士の考えている事がお互いに分かり始めます。


「確かに、無関心って自分で言わないしね。じゃあ、自分で自覚したら、興味がある・興味がないになってくるのかな?例えば、勧誘とか『興味ないから』って断ったりすると思うんだよ。だから、自分が認知出来たら、興味があるなしっていう判断材料になるのかなって。他人から言われたときに関心無関心って言われない?興味あるなしもあるけれど…自分から『関心あります』とはあまり言わないなって思った」

「自分の中では興味のあるなししか出てこないもんね」


だとしたら、興味と関心は同じということなのでしょうか。


「限りなく近いけど、言葉に出来ない表現では何か違うよね」

「あと関心って意外と人に対して使う印象があるよね。みんなの話を聞いていると、関心無関心の話をしている時、友達とか知り合いとか、人を例に出すことが多いなあと思って。興味はどっちも向けられるけど…」


あ、時間だ。

対話を終えて

結局、無関心とは何なのでしょうか。

本人が決められることでもなければ、
他人が決められることでもない。

"無関心"と"興味が無い"。
この2つには本当に違いはあるのでしょうか。

自分にも自分以外にも向く関心は、
果たして無関心の対極にあるものなのでしょうか。

無関心とは何なのか、無関心の向く先は?


今回の対話は、大きな軸に沿いつつも
新しい流れの中で過ごせたと思います。

たくさんのもやもやを残して。


私は今、この記事を読んでくれたあなたに、関心が、興味があります。
だから、また次回もお会いできたら嬉しく思います。


ここまで読んでくださりありがとうございました!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?