【哲学対話の記録】感情は理屈になる?
はじめに
雨が降っていた。私は傘を忘れて、小雨に濡れながら川沿いを歩いて皆に会いに行く。
今回は初めて対面で対話を行いました。
オンラインの画面で、名前だけ見えていたあの子が今、目の前にいる、「初めまして」と言うべきか、「おつかれさま」と言うべきか。この葛藤は二年も前から私を困らせている。
私は、正直名前と顔が一致していない中で、名前を聞いていく。
マスクは外しちゃいけないし、お菓子もない。丸く円になって椅子に座り、皆の声がランダムに聞こえてくる。名前の表記もないし、リアルな肉体として、メンバーがそろった。
「さぁ、そろそろ、始めましょうか。」
人の笑い声や布の擦れる音、息遣い、ミュートにはなり得ないこの世界は、音にあふれている。
レコーディングが出来ない中で、私は、目の前のメンバーと共に浮遊する。
これまでの対話の記録は以下よりお読みいただけます。是非、オンラインとオフラインの対話の雰囲気の違いを感じ取っていただけると幸いです。
私達については以下よりお読みいただけます。
お時間がございましたら、ぜひ開いてみてください!
問い出し
今回も一人が三つのテーマを持ち込んだ。
人生の長さについて
「人生の長さに絶望するときもあれば、人生の短さに絶望するときもあるなって思って、このテーマを挙げました。今、私は21歳なんだけど、80歳まで生きるとして、あ、あと60年人生やるのかって思うときもあれば、5年はどこかで働いて、そのあと転職して~って考えたらすぐ30歳になるんだなって思えば、人生短いなって思う。みんなは自分の人生についてどう考えるのかしらって思って」
「○○できない人もいるから、○○する/しない」は理屈になるか
「よく小さいころ、ご飯食べられない人もいるんだから残しちゃいけません、好き嫌いはいけませんって言われたんだけど、それってなんの関係もなくない?って思っていて。私が、ご飯を全部食べたところで、食べられない人が食べられるようにはならないわけで。酷い言い方なんだけど。こういうのって割と人を説得するときに使いがちなんだけど、理屈になるのかなって思って」
自分の肉体は自分のものと言えるか
「すごく暗い話で本当にごめんなんだけど、自殺って基本的にいけませんってことになってるじゃない?自分で、自分の肉体の生命活動を自由に終わらせることはよくない、という認識が社会にはある。別の観点からは、自分で自分の身体をコントロールしようとしても難しいなって思ってて。さっきの話とは正反対なんだけど、どんなに死にたくない!死なないようにしようと思っても、いつかは死んじゃうわけじゃん。病気にならないようにしようとしても、病気になるし、体重を落とそうと思っても思い通りにいくことって難しいから、あれ、自分の身体だけどほんとに自分のものって言えるのかなって思って。」
さて、どのテーマについてお話ししましょうか。
ひとりひとりが話したいテーマを挙げるとその発言にリアルタイムで誰かの発言が返ってくる。オンラインではなかった状況に少し困惑するが、「対話する」ってそういうことだよなって、その会話を聞きながら考えた。
人生の長さについて
―人生の終わりを考える?長生きっていいこと?
「人生の長さ、について話したいなって思ったんだけど、正直今生きるのに自分が必死すぎて、先の老後とか、そんなこと考えていらないよって思ってて。虚無感、みたいな。みんなどうかなぁって、将来のコト、考えてる?とか。」
「分かるなぁ、私も人生の長さについて考えたい。こないだ、自分が夢の中で、溺れてて、ホントに死んじゃうって感じだったんだけど、それをすごく妙に受け入れてる自分がいて。あー死んじゃうんだなぁって、すごく死を前にして冷静だった、というか、想定外の死に対して、というか。自分の死、というか終わり方って決めたいもんなんかなぁって」
「うん、日本の平均寿命ってどんどん長くなってるじゃない?それは悪いことじゃないし、それのおかげで日本は発展してるって面もあると思うんだけど、個人的にはそんなにいいか?って思う。長生きが至高!みたいなのが常識になってるけど、長生きってホントに良いことだと思いますか?」
「○○できない人もいるから~」
―感情は理屈になる?人と比べることの意味って?
「私は、二番目のやつについて話したいな。実際、昔これがあったんだよね。なんか体質的にマラソンが出来ない子が小学校の時にいて、その子のお母さんが自分の子は出来なくて可哀相だから、マラソンの大会をなくしてほしいって言って、その年だけなくなった時があって。でもさ、マラソンなら活躍できる子はそこで活躍できなくなっちゃって。それってどうなんだろう?」
この一言から、「マジョリティとマイノリティ」、「ユニバーサルデザイン」、「機会の平等、結果の平等」等話が大きく広がった。皆が平等になることはあり得るのだろうか、そんなことを考えていた。
「結構これって、親とか先生とか、依頼する側、この場合は大人の都合がすごくあると思う。感情ベースで話して、それに子供、というか依頼される側も納得は出来ないけど反論できない。そういう風に理屈として成り立つことを信じ切ってるけど、そもそも感情は理屈として使えるの?って思ったかな。」
「なんかそれを聞いて思ったけど、よく『あの子は出来てるのに何でやらないの?』とか『なんでできないの?』って言われたけど、それって意味あるのかな?」
「人と比べることに意味があるのかってこと?」
「人生の終わりを自分で決めているのか」
「長生きは良いことか?」
「感情は理屈になるのか」
「誰かと比べることに意味があるのか」
「全員が平等になることはあり得るのか」
以上の問いが最終的に挙がった。
そして今回は「感情は理屈になるのか」について話すことになりました。
対話
そもそも感情は理屈になる?
「初めに、そもそも感情は理屈になると思いますか?」
「ならないと思います!」
早速一人が声を上げた。リアルタイムに言葉が飛び込んでくる。
私は、その理由をすかさず聞く。
「依頼してる側にとっては、感情ベースでも納得できているかもしれないけど、依頼されている側の立場からしたらなんの説得力もないもん。ご飯が食べられない人がいて可哀想だから、ご飯を残すなって、え、なんで?って感じ。言いたいことは分かるけど、けど、私がご飯を食べても食べなくて、食べられない人には何の影響もないわけじゃん。だから、納得できないし、理屈にはならないと思う。」
確かに。ある行動が、その行動を要求する理屈となっている事実になんの力も持たない場合は、その行動を要求されても納得できない。私がそれをしてもしなくても、根拠として挙げられている状況は何も変化がないのだから。
一人がそれに反応して意見を述べた。
「その考えには私も共感するんだけど、私は感情が理屈になる場面もあるかなって思っていて。なんか昔、同じクラスに大縄跳びに参加できない子がいて、その子が参加できない分クラス皆で頑張る、頑張ろうっていうのは、私個人とても共感して納得出来ていて、その場合は十分、その行動をする根拠になっているんじゃないかなって。だって私はその理屈を持って、大縄跳びを頑張ろうって思ったわけだから。」
構造としては、大縄跳びも食べ物の話も似ているのにどうして、納得できる場合と出来ない場合があるんだろう?どちらも感情ベースの根拠なのに。
理屈の根拠になるものとして「物質的なもの」と「感情」が挙げられるのではないか、という意見が出た。
「物質的なもの」は同じ条件・状況を多くの人が共有して納得しているから比較的理屈として成立しやすい。けれど、「感情」は個人によって受け取り方が異なるから、根拠として納得できる人もいればできない人もいる。それ故に、物質的な話よりも理屈として成立しにくい。
説得する相手によるのではないか、という意見もあった。不特定多数の大衆を説得する場合、例えば法律や制度を作る場合、は物質的な話、科学的なデータとか研究成果とかを根拠、理屈として示す必要はあるが、相手が特定の個人である場合、家族や友人などの近しい間柄の場合は感情的な話でも十分理屈になることもある。
「確かになぁ。政治家に『僕はこれが嫌だから、法律で禁止します!』って言われたら、えー!ってなるもんね。」
「私、小学校の学童でバイトしてるんだけど、その中で、皆に同じことを要求する場合でも、注意する必要がある子がいるんだよね。のぼっちゃいけない場所があるとして、その子以外には「だめだよ」という言葉だけで伝わるけど、その子にとっては「だめだよ」は自分全部が否定された気持ちになっちゃう言葉だから、「ここがこうで、危ないからのぼっちゃいけないんだよ」って伝えるようにするとか。だから、相手がどういう捉え方をするのかによって何を理屈として人を説得できるのかって変わってくるなと思ったんだよね」
遊具の使用を禁止する場合でも、「あなたのことを心配していて、怪我をしてほしくないから」と伝えたほうが納得する子もいれば、「物理的に壊れていて危ないから」と伝えたほうが納得する子もいる。「だめだよ」の一言で納得する子ももちろんいる。
誰かがどんなに物質的で、比較的多くの人が客観的に納得できることを言われて、納得できたとしても理屈として成立しない場合もある、という意見も挙がった。
「私は、人参が大嫌いなんだけど、今まで散々『栄養がある』とか、『身体にいい』とか、もっと具体的な栄養素の名前を出されて説得されてきたけれど、私には『食べたくない』って感情しかなくて。
どうしてもその物質的な理屈を受け入れられないんだよ。いや、栄養とかいろいろ言われてるけど、ぶっちゃけ別の食べ物で補えばいいし、サプリとかもあるのかわからんけど、人参と同じ栄養素とれるじゃんっていう。
『あなたの健康を心配して~』って言われても、いや人参ぐらい食べなくても健康でいられるよって。要求してくる側からしたら、理屈として挙げているもので完結してるのかもしれないんだけど、私からしたらそれ以外の反論する理屈があるわけで」
皆が分かる!と盛り上がった。誰かが話を振らなくても、わっと話が広がっていく。
社会的な理屈と個人的な理屈、という考え方を述べた人もいた。
社会的に通用する理屈はより客観的、個人的な理屈は感情ベースでも成り立ちやすい。けれど、世論などで社会が動くように、社会的な理屈が感情になることがある。
そもそも「理屈」って何?
「なんか、そもそも「理屈」って何だと思いますか?なんか、よくわかんなくなっちゃった」
皆で、「理屈」について辞書を引いてみる。
「2とか確かにね。理屈をこねるとかいうもんな」
理屈を述べて、要求をするということ自体が感情的に動いているから、そもそもどんなに物質的な話をしたとしても理屈はすべて感情ベースなのではないか、という意見も出た。
「物事の筋道が理屈なんだったら、物質的でも感情的でも、要求する側とされる側がどちらも理屈として成立するんじゃないかな。納得できるなら、感情もそこでは理屈になる、んじゃないかな。
さっきの人参の例で言うと、人参を食べさせたい人の頭の中では、人参には栄養がある→食べれば健康になる→だから食べてほしい、という理屈が確立しているけれど、人参を食べたくない人の頭の中では、それを論破できるくらいの理屈がある。その理屈は感情によるものかもしれないけれど。だから、受け取る側にとってその理屈は完璧じゃないんだよね。形成段階の理屈であって壊すことが出来るもの、みたいな、」
「なるほどね。その形成されている途中っていうの、なんかすごくすっと落ちた」
「ただ、互いが納得するのは、同意なのか共感なのか…それらとどう違うのか、は分からない。」
「じゃあ、完璧な理屈は存在する?のか?」
ここで時間が来てしまった。もう少し、今ちょっと垣間見えた「完璧な理屈」について話してみたい。
でも、だめだよ。もう時間だからね。これが個々のルールだから、対話はおしまい。
この場ではこれが「理屈」になって、皆納得して日常へ帰っていく。
納得してないかもしれないけれど、「理屈」として時間やルールは成立していないかもしれないけれど、今日も対話は終わりを迎えた。
終わりに
今回初めて、オンラインではなく対面で対話をした。挙手機能を使わなくても、名前を呼ばれなくてもラグが無く、クリアに声が聞こえる。目線も交差し、全員の身振り手振りが分かる。
雨が対話の途中から上がっていることにも私たちは気が付かなかった。
それだけ、目の前の対話に夢中になっていた。
窓から光が差し込んでいる。ちょっと気温が上がった。もう春になる。
今回は「感情は理屈になるのか」という問いから「理屈」自体に話は移っていった。そういうことでいい。だって、理屈がはっきりと姿をつかめなければ、感情がそれになるのかどうかは分からないのだから。
今回、ずっと姿が掴めなかった、『目の前の誰かと本当に目の前で、文字通り向き合うこと』ができた。けれど、それでもなお、誰かの考えや意見は理解しようにもしきれず、また、掴みきれなかった。
「理屈」も結局、なんだかぼんやりと姿が見えたような気がするけれど、また霞んでどこかへ行ってしまった。
正確には私たちが、時間を理屈にして離れたのだけれど。
今日はこれでおしまいです。ありがとうございました。
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