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【小説】ロックバンドが止まらない(58)



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 最後の曲を演奏し終えたとき、神原は今まででも一番だと思えるほどの音量の拍手を聴いていた。それこそ全員が手を叩いてくれているように見え、それは今日の神原たちのライブに対する評価に他ならないだろう。自分たちが抱いたうまくいったという実感は、間違いではなかったのだと思える。

 次のバンドにいい形でバトンを渡せたのもそうだし、ライブ後の物販に向けても、神原は期待を抱かずにはいられない。

 今日までで「FIGHT TERROR RHYMES」は、四八枚を売り上げている。ノルマである五〇枚の達成も射程に入ってきたように感じられた。

 四組目のバンドも、神原が素直にカッコいいと思えるほどのライブをして、イベントは盛況のうちに終わっていた。それはすなわち、物販の開始の合図だ。

 神原は他のバンドのメンバーと一緒に、イベントが終わる直前にフロアの後方に立っている。今までに出した二枚のCDを中心に、Tシャツやリストバンドといったグッズも販売するのだ。

 それでも、この日の神原は一にも二にも「FIGHT TERROR RHYMES」が売れますようにと願わずにはいられない。ノルマ達成のために提示された期間は、あと数日しかない。

 今日のうちにあと二枚を販売してノルマを達成したいというのは、神原の偽らざる本音だった。

 四組目のバンドのライブが終わって、フロアの照明がつくと観客は少しずつ帰り始める。CLUB ANSWERは出口に向かう観客は必ず物販コーナーに目をやる構造になっていて、実際何人かの観客が物販コーナーの前まで来てくれる。

 他のバンドのCDやグッズが売れていくのと同様に、わりと早い段階で「FIGHT TERROR RHYMES」も一枚を売り上げることができた。買ってくれたのは神原が今まで顔を見たことがない女性で、もしかしたら今日初めて自分たちのライブを見てくれたのかもしれない。

 そういった観客の行動に影響を与えられるライブができたことが、神原には誇らしく思える。実際にCDを手渡すと、自分たちが今までやってきたことには意味があったのだと、強く感じられていた。

 五〇人ほどの観客が一人、また一人とライブハウスを後にする。一緒に来た人と話して余韻を味わっている観客もいたが、それでも終演後のライブハウスは、あまり長居をするには向かない。フロアに残っている観客の数は、みるみるうちに減っていた。

 もちろん物販コーナーに来てくれる観客も少なからずいるし、他のバンドのメンバーは知った仲なのか、やってきた観客と軽く話してもいる。

 しかし、そんななかで神原は一人佇むままだった。早い段階で「FIGHT TERROR RHYMES」を一枚販売するできて、幸先のいいスタートを切れたと思ったのだが、その後が続かない。Tシャツやリストバンドが売れないことは今だけはよかったとしても、それでもなかなか人が寄りつかない状況は、やはり堪えるものがある。

 他のバンド目当てでやってきた観客も、申し訳程度に神原たちのコーナーを一瞥してくれるものの、実際に買ってくれることはなかった。二、三千円もするCDを買うハードルはそこまで低くないことを、神原は思い知らされる気分だった。

 物販が始まってからの時間はあっという間に過ぎ、気がつけばフロアにいる観客はもう片手で数えられるほどになっていた。物販コーナーの前にも人はほとんどいなくなり、今日ももう終わりかという空気が流れ始めている。

 今フロアに残っている数少ない観客が神原たちのCD、特に「FIGHT TERROR RHYMES」を買ってくれる可能性は、限りなく低いだろう。

 それでも、神原は奇跡が起これと願わずにはいられない。今日、この目で五〇枚目の「FIGHT TERROR RHYMES」が売れていくのを見たい。その一心だった。

 イベントの終演から十数分が経ち、一人の男性が物販コーナーにやってくる。フロアの雰囲気から、神原はこの男性がこのライブハウスに残っている最後の観客だと感じる。

 男性は神原とは隣のバンドメンバーの前に立つと、CDやグッズの写真が貼られているテーブルを全体敵に眺めていた。ちゃんと自分たちのコーナーにも視線を送ってくれて、神原の祈る気持ちはより大きくなる。

 正真正銘最後のチャンスだ。神原だけでなく、物販コーナーに立っている全員が、期待する視線を男性に向けている。

 そして、その男性は顔を上げると、神原に目を合わせた。本番以上に鼓動が速くなっていることを、神原は感じる。そして、男性ははっきりと口にした。

「あの、このCD一枚ください」

 そう言って男性が指し示したのは、間違いなく「FIGHT TERROR RHYMES」の写真だった。砂粒ほどの可能性しかなかった奇跡が本当に起きたことに、神原はかえってすぐに返事ができない。

 さすがに不思議そうに目を瞬かせている男性の前だったから、一拍置いてから「あ、ありがとうございます!」と答えたが、その声は嬉しさのあまり若干ひっくり返ってさえいた。

 背後にある段ボールからCDを取り出し、代金と引き換えに男性に手渡す。穏やかな男性の表情を見ていると、神原の心は高く跳ね上がった。

 別にCDを一枚販売したという事実は変わらない。それこそ一枚目だろうが、一〇枚目だろうが、五〇枚目だろうが、その行為が持つ重みは同じはずだ。

 だけれど、CDを一枚売ることがどれだけ大変か、神原は身に染みて知っている。それがノルマ達成を意味する五〇枚目となれば、喜びもひとしおだ。これで来年以降も自分たちはECNレコードと契約して、バンドを続けられる。

 そう思うと、神原は男性に何十回でも感謝を伝えたくなる。だけれど、男性は神原たちのそんな事情は、当然知る由もない。

 神原は万感の思いを、CDを手渡した後の「ありがとうございます」という一言に込めた。

 さすがに観客がもう自分しかいない状況では、あまり話していられないと思ったのだろう。男性はCDを受け取ると、神原に短い言葉をかけただけでフロアを後にしていた。

 それでも、神原にはそれで構わないと思える。自分だって同じ状況なら、同じ行動を取っている。

 それよりも神原の胸は達成感に満ち、小さいながらもガッツポーズをした。心なしか、他のバンドのメンバーから寄せられる視線も暖かく感じられる。

 男性が帰っていくと、スタッフが「撤収してください」と告げる。撤収作業をしながら、神原はかつてないほど前向きな気持ちで、打ち上げに参加できるような気がしていた。

 物販が終わって、神原が与木たちに「FIGHT TERROR RHYMES」を二枚売り上げてノルマを達成できたことを伝えると、三人も表情に安堵と喜びを滲ませていた。

 耳にした当初は「本当に!?」と確認していた園田も、神原が頷くと自然とガッツポーズをしていたし、久倉は嬉しさを手を掲げることで表現していた。開かれた手に神原が軽く手を触れると、四人の中でハイタッチをする流れが生まれる。神原も、園田や与木と軽くハイタッチをした。

 与木はかなり照れくさそうだったけれど、それでもハイタッチを拒んではいなくて、神原が手を触れると口角を小さく持ち上げていた。

 その日のうちに神原が五〇枚のノルマを達成できたことを電話で報告すると、吉間は落ち着いた口ぶりながらもまるで自分のことのように喜んでくれて、「よく頑張った」という言葉をかけてくれた。

 出会ってから初めて言われた種類の言葉に、神原の表情も緩む。面と向かってではなくてよかったと思えるほどだ。

 別にノルマを達成したからといって、来年の契約が確約されたわけではない。吉間や飯塚からは、契約期間中の活動を総合的に判断して決めると言われている。

 でも、今回のことは来年以降の契約の継続にも、プラスに働いてくれることだろう。自分たちはこれからもECNレコードのもとバンド活動を続けられる。そんな前向きな展望を、神原は描けていた。

 神原たちの次のライブは、また一ヶ月後に訪れた。

 電車から降りると前回来たときよりも、はっきりと涼しくなった空気が神原の頬に触れる。出口で与木たちと落ち合うと、神原たちはライブハウスに向けて歩き出した。

 今日ライブをするライブハウスは、同じ下北沢の別のライブハウスだ。そこは紛れもなく神原たちがレコード会社のオーディションに落ちた場所だったが、それはもう二年以上も前のことだし、一度ライブを経験したことで神原たちはその苦い思い出を、少なからず払拭できている。

 だから不安は、少なくとも神原にはそれほど存在していなかった。今日に向けて、期間は短かったけれど、いい練習を積めている実感がある。それはちゃんと自信に姿を変えてくれていた。

 ライブハウスに到着した神原たちはフロアに入ると、オーナーに挨拶をしてから、すぐにステージに向かった。

 今日のイベントは三組が出演して、神原たちはトップバッターだ。もちろん緊張を感じる部分もあるが、それでも新譜の販売ノルマを達成した今となっては、いくらか落ち着いた状態で神原たちはリハーサルに臨むことができる。

 実際、リハーサルの出来もよく、全員が前回のライブからの良い調子を維持できていると、神原には感じられる。それはこの状態のまま臨めれば、本番も問題ないだろうと思えるくらいだった。

 リハーサルを終えると、神原たちはひとまず自由時間になった。ここから数時間後の開場時間までは、ライブハウスにいてもいなくてもいい。

 園田や久倉がライブハウスの外に出ていった一方で、神原と与木はライブハウスに留まった。散発的に話したり、フロアで二組目のバンドのリハーサルを見たりする。

 名前も曲も初めて聴いたバンドは、神原が好きと思える曲を演奏していて、心穏やかな時間を過ごせる。

 すると、リハーサルの途中で入り口のドアが開いた。

 階段を下って入ってきたのは、佐川たちだった。今日のイベントでは、佐川たちが三組目で登場する。

 神原たちは軽く挨拶を交わした。リハーサルとはいえ他のバンドが演奏する前だったから、あまり話しこむことも気が引けて、また佐川たちのリハーサルが終わった後で、落ち着いて話そうという流れになる。

 二組目のバンドのリハーサルが終わって楽屋に向かっていく佐川たちを、神原たちは「頑張ってください」と見送った。佐川は小さく微笑んでいた。


(続く)


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