【小説】ロックバンドが止まらない(64)
佐川たちの最後のワンマンライブは、ダブルアンコールまでを演奏しきって終わった。佐川たちにも観客にも疲れがあるはずなのに、最後のダブルアンコールで演奏された曲はこの日一番の盛り上がりを見せて、ライブは最高潮のまま終わっていた。
全ての曲を演奏し終えて、佐川たちは最後にマイクを通さない声で「ありがとうございました!」と、三人で手を繋いで観客に感謝を伝えていた。神原たち観客も、三人にありったけの拍手を送る。
拍手は一分以上も続き、佐川たちはもう一度フロアに広がる光景を目にしてから、ステージを後にしていた。
佐川たちがいなくなっても、拍手はしばらく鳴り止まない。それは観客が今贈れる精いっぱいの労いと惜別だった。
それでも拍手は自然と小さくなっていき、やがて鳴り止む。すると、ライブハウスは燃え尽きたかのような清々しさと、本当に佐川たちの最後のライブが終わってしまったという神妙さで埋め尽くされた。一言では言い表せない不思議な雰囲気に、これがバンドが解散するということなのかと神原は思い知らされる。
一人、また一人と踵を返し始める観客たち。フロアの後方には、ライブを終えたばかりの佐川たちが最後の物販に立っていて、その前には名残を惜しむ大きな人だかりができていた。
神原たちも、最後に佐川たちと言葉を交わしたい。そう思ったけれど、物販コーナーの前には行列ができていて、自分たちの順番がいつになるのかは分からない。
それに神原は、佐川の連絡先を知っている。ライブの感想を伝えるのは、後ででもいいだろう。
そう判断して、神原たちはライブハウスを後にした。
ドアを開けると、一気に冷たい空気が神原たちに触れる。ちらちらと雪も舞っていた。
下北沢駅で三人と別れ、最寄り駅前の牛丼屋で夕食を食べた神原は、そのまま帰路に就いていた。
家に帰ってきても、今日ばかりは神原はギターを弾く気にはあまりならなかった。佐川たちの最後のライブの余韻を噛みしめていたかった。
シャワーを浴びて、しばらく漫然とした時間を過ごす。その間もライブの余韻は、神原の中から抜けきることはなかった。身体はライブハウスで音楽に乗っていた感覚を、未だに保っている。
そして、夜の一〇時を回った頃、神原はそろそろ頃合いだろうと佐川に電話をかけた。数コールを経たのちに佐川は電話に出てくれた。電話口から雑踏が聞こえてきて、佐川は外にいるのだろうと神原は察する。
「ああ。もしもし、神原君。今日はライブ来てくれてありがとね。神原君たちの姿は、ちゃんとステージからも見えてたよ」
「はい。佐川さんも今日のライブお疲れ様でした」
「うん、ありがと。でも、どうせなら打ち上げにも来てくれてよかったのに。来ていいよって、俺言ってなかったっけ?」
「はい。言われてたんですけど、でもやっぱり今回ばかりは僕が混じるべきじゃないなと思って。やっぱり今日だけは、佐川さんたちだけで打ち上げをすべきだと思ったんです」
「まあ、そりゃそうだよね。俺としてはそんな気遣ってくれなくてもいいんだけど、神原君からしたらそうなるか」
「は、はい。あの、でもライブすごく良かったです」
「ありがとね。俺たちも最後で最高のライブができたと思うよ。ワンマンライブの経験自体ほとんどなかったから、ライブ前は少し不安だったんだけど」
「そうですか? そんなこと感じないぐらいやり慣れてると思いましたけど。やっぱり一〇年間の活動期間は伊達じゃないなって感じました」
「ありがと。そう言ってもらえると嬉しいよ。なかなかうまくいかないことの方が多かった一〇年間だったけど、それでも続けてきてよかったよ」
「はい。メジャーデビューしてるバンドも含めて、僕が今まで行ったライブの中でも屈指の素晴らしさでした。こういうのを有終の美っていうんだなって、心から思いました」
「有終の美かぁ」
電話越しでも、佐川が小さくため息をついたことが神原には分かった。思わず「どうしたんですか?」と訊き返してしまう。
「いや、もう本当に終わっちゃったんだなって思って」と答える佐川の声は、どこか湿っぽさを含み始めていた。
「そうですね」と返事をするのも違う気がして、神原は一瞬黙ってしまう。電話の向こうの雑踏は止まない。
「はぁ、神原君。俺、何にもなくなっちゃったよ。どうしよっか?」
「そんなことないですよ。佐川さんたちには、今まで作ってきたアルバムが、形として残ってるじゃないですか」
「うん。それはそうなんだけど、それこれからの人生で役に立つときが来るのかな。もう音楽はしないってのに。レーベルとの契約も今年いっぱいで切れちゃうし、そうなったら俺バイトしかしてない三十路の男になっちゃうよ」
「そんなこと言わないでくださいよ。たとえレーベルとの契約が切れたとしても、佐川さんたちが音楽をやってた事実は消えませんって」
「励ましてくれてありがと。でもさ、俺そんなすぐには切り替えられないんだ。初めてロックを聴いた小学生の時から、俺の中には常に音楽が中心にあって。それを手放すってことは、大げさに言ったら俺の存在意義自体が揺らぐってことなんだ」
「……佐川さん」
「あぁ、もっと売れたかったなぁ。メジャーデビューしてさらに何枚もアルバム出して、もっと全国の色々なライブハウスでライブしてみたかった。着実に人気を積み重ねていって、何周年かのアニバーサリーには武道館ライブもしちゃったりしてさ。そんなバンドに俺たちもなりたかったよ」
佐川の嘆きはバンドを組んでからの一〇年間、募り続けていた想いに間違いなかった。必ず訪れると信じて疑わなかったであろう未来が訪れなかったショックはいかほどだろう。
佐川の心のうちを完全に想像できない自分に、何かを言えるとは神原には思えなかった。ただ押し黙ってしまう。
電話越しの沈黙は、面と向かって話しているときよりも神原には気まずく感じられた。
「まあ、結局は俺たちの力不足だったってことなんだろうね。メジャーで通用するような曲や演奏ができなかった。今回の解散も、原因は全部俺たちにあるからさ」
「そんなことないですよ」考えるよりも先に言葉が、神原の口をついて出ていた。佐川には自分たちを、今まで自分たちがやってきたことを否定してほしくない。その一心が口を動かす。
「僕はモントリオール、大好きでしたよ。メジャーで活動してるどのバンドにも負けないくらい。それこそメジャーデビューして、もっと評価されなきゃおかしいって思ってましたから。佐川さんたちに声をかけなかったレコード会社の人間は、一人残らずセンスないですよ。間違っているのは佐川さんたちじゃなくて、絶対にその人たちです」
「それはさすがにちょっと言いすぎだと思うけど、でもありがと。そう言ってくれる人間が一人でもいるだけで、俺たちはほんの少しでも救われるよ」
「佐川さん、僕はこれからもモントリオールの曲聴き続けます。僕は佐川さんたちのことを絶対に忘れたりしないですし、いつか僕たちが人気になって取材で影響を受けたバンドやお世話になったバンドを訊かれたら、真っ先にモントリオールの名前を挙げます。佐川さんたちは僕にとって、頼りになる先輩で目指すべき存在で憧れでした」
「泣かせること言うなぁ。俺も神原君たちと知り合えてよかったよ。後輩とかじゃなくて、俺たちは同じインディーズシーンで戦った仲間だと思ってるから」
「はい」と応えながら、その言葉は神原の涙腺を刺激した。一回りも年下である自分たちを「仲間」と称してくれるのが、神原には掛け値なしに嬉しい。どのバンドよりも先に佐川たちと知り合えたことは、とてつもない幸運だろう。
「でもさ、いつまでも憧れのままだったらちょっと困るかな。神原君たちには俺たちなんて軽く追い抜いてもらわないと。だって、神原君たちメジャーデビューしたいんでしょ?」
神原は声に出して「はい」と頷いた。電話越しではただ黙って頷いても、何も分かりはしない。
「だったらさ、これからもバンド続けなきゃね。良い曲を作って、ライブで披露する。それを愚直に繰り返していけば、きっと神原君たちなら道が開けると思うから。何の根拠にもならないかもしれないけど、俺が保証するよ」
それは神原たちにとって、少しも簡単なことではなかった。確かに未来につながる道はそれしかないが、言葉のシンプルさと実際に実行することの難しさは、天と地ほどの差がある。
何よりそれを体現していた佐川たちが、こうして夢を叶えられず解散しているのだ。自分たちも同じような未来を辿らないとは限らない。
それでも、神原は佐川の言葉を信じたいと思う。未来は自分たちの手で切り開く。そういった気概がなければ、ここまで言ってくれる佐川に失礼だろう。
「ありがとうございます。僕たちはバンドを続けます。良い曲を作って、良いライブをして、這ってでもメジャーデビューに漕ぎつけます」
「そうだね。その意気だよ。でも、そこまで辿り着けなかった俺が言うのもなんだけど、メジャーデビューは決してゴールじゃないから。メジャーデビューをした後も、バンド活動は続いてくんだからね。だから、俺は神原君たちが少しでも長くバンドを続けて、一曲でも多くの曲をリリースできるように願ってるよ」
「はい。メジャーデビュー後もどんどん曲を作り続けて、ライブをし続けて、いつか武道館でライブができるようなバンドになります。同じ場所を目指していた、佐川さんたちの想いも背負って」
「ありがと。でも、俺たちの分までとか全然思わなくていいからね。神原君たちは神原君たちの活動をすればいいわけだし。そんな張り詰めなくても大丈夫だから」
「そうですね。結局、僕たちは僕たちにできることをやるしかないですよね」
「そうだね。俺もこれからは一リスナーとして神原君たちが作る曲、楽しみにしてるよ」
他意のない佐川の言葉に、神原は嬉しさと寂しさを感じた。もう佐川たちとライブで共演することはない。その現実が今になってより浮き彫りになる。そこに無念さや切なさを感じないと言ったら、嘘になった。
「ありがとうございます。あの、佐川さんはこれから僕たちのライブ来てくれますか? もう一緒にライブやイベントには出れなくなってしまったんですけど、それでも」
「もちろん。行くよ。って言いたいところなんだけど、正直しばらくライブはいいかな。今日でやりきった感覚があって、またすぐに他のバンドのライブを見たいって、なかなか切り替えられないかも。これからお金もよりいっそう厳しくなるし。いくら神原君たちのライブでも、そんなすぐにはね」
「……そうですか」
「あっ、でも安心して。別に音楽やライブが嫌いになったわけじゃないから。まずは調子を整えて、生活基盤もしっかり確保して、それでまた行けると思ったら、ライブに行かせてもらうよ」
「そうですか。僕たちも佐川さんが再びライブハウスに来てくれる日までバンド続けますから、焦らずゆっくりとやっていってください」
「ありがと。俺もそのときを楽しみにしてるよ。より成長した神原君たちのライブを見られる日をね」
「はい。ご期待に応えられるよう頑張ります」
神原がそう答えた次の瞬間、電話の向こうで佐川を呼ぶ声が聞こえた。モントリオールのベース担当だった北沢だ。
佐川も「今行く」と応えている。きっとそこに神原が入り込む余地はない。
「じゃあ、神原君。そろそろいいかな?」
「はい。このタイミングで佐川さんと話せてよかったです」
「うん。俺も神原君と話せてよかったよ。じゃあ、またいつかね」
「はい。またいつか」
神原がそう言うと、佐川は電話を切った。神原も携帯電話を下ろす。
今の佐川と話したら、もっと辛い心境になるのかと思っていた。解散してしまったという事実を今一度思い知らされて、塞ぎこむような気分になるのだろうと。
確かにその気持ちは神原の中にもあったものの、でも気分は思っていたよりもずっと悪くなかった。
解散したからといって、佐川たちと自分たちの繋がりが断ち切られたわけではない。自分たちが音楽を続けてさえいれば、佐川たちとはたとえかすかにでも、繋がり続けることができるのだ。その大変なことが、今の神原には希望めいて見える。
神原は一つ息を吐いた。最後のライブの打ち上げで、佐川たちが呑んでいる酒の味を想像しながら。
(続く)
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