【小説】ロックバンドが止まらない(56)
吉間から期限を伝えられてから一週間も経たないうちに、神原たちは再び貸しスタジオに入っていた。もちろん、他の新曲の練習もするが、メインはやはり「波になりたい」の合奏だ。
他の曲を軽くさらってから、神原たちは「波になりたい」を合わせる。四人全員が今までの演奏をベースにしつつ、新しい演奏を考えてきていたが、それでも神原にはまだあまりしっくりこなかった。どこかバランスが悪く、ちぐはぐしている印象さえ感じられる。
納得していないのは三人も同じだったようで、神原が感じた改善点を伝えると、比較的素直に応じてくれた。でも、いくつかのパターンを組み合わせて演奏してみても、神原には満足できたと言い難い。
このままで期限に間に合うのか。自分たちは考えすぎて、迷路に入ってしまっているのではないか。
不安な気持ちを、神原はかぶりを振ることで打ち消した。考えに考えた末には、この曲にぴったり当てはまる演奏が絶対にある。そう思いたかった。
神原たちが次に貸しスタジオに入ったのは、二週間の期限が終わる前日だった。これが期限前最後の合奏になるから、神原たちは他の曲もそこそこに「波になりたい」の演奏に入る。
自分たちがまた新しく考えた演奏は、少なくとも前回よりは、神原には腑に落ちていた。方向性は間違っていないと思える。
でも、何かが違う。何かが足りない。
それを四人で、言葉も交わしながらどうにか探っていく。演奏を繰り返していくうちに、少しずつ曲は神原たちが抱く理想形に近づいていき、そして貸しスタジオの使用終了時間まであと十数分となったところで、神原たちはようやく「これでいい」と思える演奏に辿り着いた。
さっそく録音機材を用意して、決まった演奏をデモテープに録音する。時間がない中での一発録りとなったが、誰もミスをすることはなく、無事録音ができた。あとはこれを吉間に提出するだけだ。
貸しスタジオを出ると、まだ再レコーディングもしていないのに、神原はやりきったような感覚を抱いてしまう。他の三人の表情からも同じ気持ちを感じていることを、神原は察した。
吉間から神原たちのもとに再び連絡があったのは、神原がデモテープを提出した翌日のことだった。
飯塚や野津田にも聴いてもらって「良くなっている」という評価を得られたらしい。「再レコーディングも前向きに検討したい」と言われて、神原は心の中でガッツポーズを作った。
自分たちの頑張りが、人を動かそうとしている。限りなく難しかった状況を、ひっくり返そうとしている。そのことが神原には、とてつもない功績のように思えた。
まだ再レコーディングをすると決まってもいないのに、諦めずに考え続けた自分たちを、今だけは褒めてもいいような気がしていた。
再レコーディングは、さっそくその翌週に実施された。どうにか新譜の発売日は延期にならなかったし、野津田も休日を返上して付き合ってくれている。
様々な人々の尽力で再レコーディングができていることに、神原には感謝の言葉しかない。だから、その想いに応えようと、レコーディングにも自然と熱が入る。
四人ともが今までのレコーディングでも屈指の演奏ができていて、神原はレコーディングをしながら手ごたえを感じていた。
最後まで粘り強く取り組んだことで、前作よりも間違いなく良い作品になる。神原はそう信じて疑わなかった。
再レコーディングが終わってからの日々は、あっという間に過ぎた。
マスタリングを施した完成音源の確認、アルバムジャケット等のアートワークの打ち合わせ、新譜の発売に伴うインタビュー等のプロモーション、さらには数回入っているライブなど、神原たちは音楽関連のことだけでも、目まぐるしい日々を送っていた。
さらに、そこに生活のためのアルバイトもしなければならないから、神原に完全に休める時間はあまりなかった。もっとバンドマンは時間があるイメージがあったのだが、新譜の発売が近づくと、こんなにも忙しくなるのかと思うほどだ。
もちろんライブごとに全力を傾けているし、吉間たちが入れてくれるプロモーションにも積極的に協力している。全てはひとまず新譜をノルマの五〇枚販売して、来年以降も契約を継続してもらうためだ。
だから、神原たちは一つ一つの活動に、自分たちが持てるエネルギーを最大限注いだ。「疲れる」とか「大変」だという思いは、誰一人として口にしていなかった。
忙しない日々を送る神原たちは、気づくと新譜である「FIGHT TERROR RHYMES」の発売日を迎えていた。既に一度味わっているのに、新譜の発売日は神原にはなかなか慣れず、昨夜はドキドキしてなかなか寝つけなかった。
かすかに重い頭で、貸しスタジオの最寄り駅へと向かう。「FIGHT TERROR RHYMES」が発売されて数週後に控えているライブに向けて、今日も練習をする必要があった。
それでも、使用開始時間より大分早く最寄り駅に辿り着いた神原は、貸しスタジオがある方向とは反対の出口に向かう。
目指すは、北口方面にあるCDショップだ。学生時代は足しげく通っていたものの、一人暮らしを始めてからは少し距離ができたこともあってあまり行っていない。それこそ、最後にその店に行ったのは「日暮れのイミテーション」が発売されたときになる。
エレベーターを降りると、一年以上前に訪れたときと少しも変わらない店構えが、神原の目に飛びこんでくる。店内に入って、インディーズコーナーへと向かう。
すると、そこにはしっかりと「FIGHT TERROR RHYMES」が陳列されていた。相変わらず目立った陳列はされていないものの、それでも手に取ってみると、アルバム名がでかでかと載ったジャケットが目に露わだ。
新譜がちゃんと店頭に並んでいることに、神原は大きく安堵の息を吐いた。
まだ貸しスタジオの使用開始時間までには、一時間以上ある。その時間を潰す方法を、神原はあまり持ち合わせていない。
だから、神原はCDが置いてあることを確認した後も、しばらくは店内に留まっていた。店頭に並べられているCDを眺めたり、試聴機で他のバンドの新譜を聴いたり。
その間も、視線は度々インディーズコーナーに向く。前作のときは、購入する人をこの目で見られなかったし、実際にその瞬間を目の当たりにした久倉が羨ましかった。今回こそはという思いを神原は視線に込める。
前回よりも店内にいられる時間は短いし、可能性は限りなく低かったけれど、それでも奇跡が起こることを願ってやまなかった。
だけれど、「FIGHT TERROR RHYMES」を購入してくれる人間は、やはりなかなか現れなかった。インディーズコーナーで人が立ち止まる度、神原はそれとなく様子を見に行っているが、それでも自分たちのCDは手に取られる機会すらままならない。
前作が発売されてからというもの、ライブをはじめとした活動を地道に頑張ってきた自負があるのに、それでもまだまだ知名度が低いことを、神原は改めて思い知らされる。
まだ開店してからさほど時間は経っていなかったものの、神原の心はにわかに焦り出す。ノルマである五〇枚の販売に、早くも黄色信号が灯った感覚があった。
神原が店内をうろついていると、貸しスタジオの使用開始時間は着々と近づいてくる。携帯電話を確認して、この時間になったら店内を出ると決めた時間が、刻一刻と迫ってくる。
そんなときだった。一人の男性がインディーズコーナーで立ち止まったのは。
例によって神原は少し離れたところから、それとなく様子を見守る。
すると、その男性は何枚かCDを手に取っては棚に戻しを繰り返した後、「FIGHT TERROR RHYMES」を手に取った。初めて自分のCDが手に取られるところを見た神原は、そのまま購入してくれますようにと強く祈る。
その男性は裏面まで確認した後、「FIGHT TERROR RHYMES」を手に、別のコーナーへと向かっていた。その姿を目で追いながら、神原の期待は膨らんでいく。
そして、その男性はさらに何枚かのCDを手に取った後、そのまま「FIGHT TERROR RHYMES」を棚には戻さずにレジに向かっていった。会計がなされている様子を見て、神原には抑えきれないほどの喜びが湧いてくる。
おそらく男性がしたのは、いわゆるジャケ買いだ。自分たちの曲を気に入って買ってくれたのではない。
それが分かっていても、ジャケットも自分たちのミニアルバムの一部だから、神原は素直に嬉しいと思える。一度に何枚もCDを買うからには、よほど音楽が好きなのだろう。駆け寄って喜びを伝えたくなったという久倉の気持ちが、今なら分かる。
でも、いきなり話しかけられたら男性も面食らってしまうだろうと思い、神原はどうにか堪える。
それでも、胸の中には歓喜の花が咲いていた。ノルマの五〇枚のうち、少なくとも一枚が売れる様子をこの目で見られた。なかなか幸先のいい滑り出しだと言っていいだろう。
テンションは上がって、この後のバンド練習にもいい調子で、神原は臨めそうだった。
(続く)
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