【小説】ロックバンドが止まらない(55)
「あのさ、『波になりたい』のことなんだけどさ」
神原が挙げた曲は、最後までこれだという演奏が定まらなかった曲だった。三人もすぐに、神原が何を言おうとしているのかを察したらしい。四人の間にかすかな緊張が走る。
騒がしい店内には不釣り合いな雰囲気の中で、神原は意を決して言葉を続けた。
「俺、やっぱりあの演奏じゃ納得できない。もっとあの曲を生かせる演奏が、絶対にあるはずなんだ」
そう口にした瞬間、三人の視線が神原の身に刺さった。
もうレコーディングは終わったのだ。ここからひっくり返すなんて本気か。言葉にされなくても、三人がそう思っていることが、神原には手に取るように分かる。
でも、一度言ってしまったからにはもう後には退けない。神原は半ば勢いに任せるように続けた。
「だから、俺はあの曲を別の形で録り直したい。もちろんどれだけ無茶なことを言ってるかは、自分でも分かってる。でも、俺は自分が満足できてないものを世に出したくないんだ。だから、頼む。この通りだ」
神原は頭を下げた。額がテーブルにつきそうなほど深く。それくらいしなければ、無理を通すことはできないだろう。
園田が慌てたように「ちょっと、泰斗君。頭上げてよ」と言っている。周囲からの視線を感じているのだろう。
三人を困らせるのは本意ではなかったので、神原は素直に頭を上げた。だけれど、三人の目には確かに困惑の色が滲んでいて、神原はそれをわがままを言っている自分に対する報いだと受け取った。
「泰斗君がたぶんそう言うだろうなってことは、あの曲をレコーディングした日の様子から私も感じてたよ。でも、私はレコーディングした演奏が、あの曲に合った演奏だと思ってるから。それを今になって変えるって言われても、なかなか難しい部分はあるよね」
「俺も園田と同じだな。俺もあの演奏がいいと思ってるし、第一再レコーディングするにもいつやるんだよ。俺たちただでさえ、ライブをやるたびにお金が逃げていってるような状況なんだから。再レコーディングできるだけの余裕なんてないだろ」
二人の意見は至極真っ当で、現実的で、自分が勝手なことを言っていることを神原に改めて突きつけた。やはり一度レコーディングしたものを受け入れるしかないのか。
神原は縋るように、まだ意見を発していない与木に目を向ける。でも、与木は神原が目を向けると、視線をわずかに落としてしまっていて、それはこの話にはあまり関わりたくないという態度の表明に他ならなかった。
与木だって当事者なのに。そんな思いを神原はぐっと飲みこむ。
三人を説得するためには、神原は言葉を重ねるしかなかった。
「それは俺だって分かってるよ。でも、ここで諦めずに粘り続けてより良い曲にできたら、俺たちなんか壁を一つ超えられそうな気がするんだ。やっぱり今までと同じじゃダメなんだよ。あがき続けることで、見えてくるものだってあると思う。だからさ、俺と一緒にあがいてくれないか。俺も必死に、もっと曲に合った演奏を考えるからさ。な、マジで頼むよ」
そう言った神原の口調は、もはや頼むというよりも縋りつくと言った方が正しかった。みっともないと思われても構わない。それくらい神原は必死に頼みこんでいた。
しかし、三人の表情は未だに渋い。やはりもうこの状態からは覆せないのだろうか。
それでも神原は諦めたくなくて、頭を回して言葉を探す。三人の態度を変えるには、誠心誠意を持って頼み続けるしかないと感じていた。
「……俺は録り直すのも、完全にないとは言い切れないかな」
その声がしたのは、何度も頼み続ける神原に、テーブルの空気が微妙になりかけたときだった。聞こえたのは確かに与木の声で、三人の視線が一斉に与木に向く。
神原の口から、思わず「本当にか!?」という声が出る。与木は少し身体を縮こまらせていたけれど、その目はもう下を向いてはいなかった。
「正直言うと、俺は今のままの演奏でも十分良いと思ってる。でも、お前がそこまで頼みこむなんて、よっぽどのことだろ。だから、お前が納得してないってことだけは理解したい」
自分に向けて言われた言葉に、神原はかすかに風向きが変わったことを感じた。理解を示してくれる人間が少なくとも一人いることは、神原をどれだけ勇気づけるか知れない。
自分の気持ちが、確かに与木に伝わったと思えた。
「ありがとう。じゃあ、再レコーディング協力してくれるか?」
「ああ。本音を言えば今もやる必要はあまり感じてないけど、でもどうしてもやらなきゃならないってなったら、協力するよ」
与木は完全な同意はしていなかったけれど、それでも「協力する」という答えが得られて、神原は心強く思う。園田や久倉に向けた懇願も、より質量を増していく。
与木もこう言ってくれているから。現状では二対二のイーブンだ。
そういった言葉は露骨すぎて神原には口にはできなかったが、それでも同じような思いが声にはこもっていた。
「神原、本当に今の『波になりたい』には納得してないんだな?」
真剣さを増した目で久倉が問う。神原も真摯な態度で「ああ」と頷いた。こちらを見てくる目をじっと見つめ返す。この期に及んで、逃げるわけにはいかなかった。
「そっか。じゃあ、俺も本当にしなきゃいけないってなったら、再レコーディングを受け入れようかな」
態度を変えた久倉に、自分だけでなく全員が目を瞬かせていることを、神原は感じた。もちろん分かってほしかったのだが、そう簡単に分かってもらえるとも思っていなかったので、神原は驚きを隠せない。
でも、そんな神原にも、久倉は真剣な目をやめてはいなかった。
「何だよ、再レコーディングしたいって言い出したのはお前だろ」
「いや、そうだけどさ。でも、本当にいいのかよ。いわばこれは俺のわがままでもあるのに」
「そうだな。はっきり言えば、俺も今の演奏で良いと思ってる。でも、どうせ出すなら全員が納得できるものにしたいよな。誰かが納得していなかったら、それが火種となってくすぶりかねないわけだし。それは俺としても、あまり望ましいもんじゃないから」
「ああ、ありがとな。そう言ってもらえると助かるよ」
頷いた久倉の表情は、まだ完全に納得しているとは言い難かった。だけれど、それでも神原には十分すぎた。自分の考えを理解してくれる人間がまた一人増えたことに、安堵する思いだ。
三人の視線が園田に向く。多数決の原理で押しつぶそうとしているようで、あまりいい状況とは言えなかったが、それでも神原は目を逸らさなかった。
園田の了解を得られれば、自分たちは再レコーディングに向かって動き出すことができる。今の神原はそれしか考えられなかった。
「演奏考えるの、本当大変なんだけどなぁ」
三人に見つめられて、園田はため息交じりに言っていた。でも、言葉とは裏腹に嫌々という様子は、少なくとも神原には見受けられない。もしかして納得してくれたのかと思ってしまう。
「再レコーディング、協力してくれるのか?」
「言っとくけど、完全に納得したわけじゃないからね。私は今のままがいいと思ってるし。でも、まずは吉間さんに話通してさ、それでやるってなったらそりゃ協力するよ。ひょっとしたら、まだ私たちが思いついてないだけで、あの曲により合った演奏が本当にあるかもしれないしね」
園田は依然として軽く口を尖らせていたが、それでも言葉の上では同意してくれている。それが神原には、簡単な言葉では表現できないほどありがたかった。瞬発的に「マジで!? ありがとな!」という声がこぼれる。
園田の表情はまだ柔らかくなってはいなかったけれど、それでも全員の同意が得られたことに、神原は一歩前に進んだ感覚があった。
さっそく明日を待たず、吉間に連絡をしなければ。神原は使命感を覚える。
まだ新しい演奏は考えついていないけれど、とにかくやらなければ。神原はそういった気分になっていたし、それが三人にも伝播することを期待していた。
神原が吉間に電話で相談したところ、最初に返ってきた答えは「難しい」だった。これ以上レコーディングにかけられるお金がないだとか、もし再レコーディングをするならば、発売日をそれなりに延期させなければならないだとか、予想していた通りのことを言われる。レコーディングまでに用意していたものが全てだとも。
それでも、そこを何とかできないかと執拗に思えるほど頼み続けると、少し時間を置いてから「二週間だ」と神原は言われた。ひとまず二週間は様子を見る。そこまでに新しい演奏を録音したデモテープを提出できなければ、再レコーディングは行わない。そう言った吉間に、神原は「ありがとうございます」と応えていた。
曲作りの観点から言えば、二週間というのは決して十分な時間ではない。貸しスタジオに入ってバンドで演奏を合わせる回数も限られてくる。
でも、本来なら時間は一日だって与えられないはずなのだ。二週間は、吉間たちが自分たちにかけてくれる最大の温情だろう。だから、神原は感謝する以外ありえなかった。
吉間との通話が切れる。その瞬間から迫りくるタイムリミットに、神原は何としても新しい演奏を作り上げないといけないという思いを、より新たにしていた。
(続く)
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