【小説】ロックバンドが止まらない(46)
神原が店内に入ってから二時間が経った。ずっといる神原に、店員もきっと怪しく思い始めてきた頃だろう。
だから、バンド練習の時間が迫っていることもあり、神原はCDショップを後にした。南口の近辺にある牛丼屋で昼食を済ませて、貸しスタジオへと向かう。
するとビルの前には、久倉が立っていた。携帯電話を見て暇を潰している様子の久倉に、神原は近寄って声をかける。
久倉はなんてことないように応じていたけれど、その返事はどこか浮き足立っているように、神原には思えた。
「あれ? お前だけ? 園田や与木はまだ来てねぇの?」
「ああ、まだ来てねぇな。でも、使用開始時間まではまだ一五分もあるんだぜ。別に心配しなくても、そのうち来るだろ」
「ああ、そうだな。ちょっと気持ち逸ってたわ」
小さく笑う二人。でも、自分たちの笑顔は少し不自然だと神原は感じてしまう。話したいことは明確にあるのに、自分から口に出すのは気が引けた。
二人の間に、一瞬沈黙が下りる。街の喧騒が遠くに聞こえる。
そんな状況に耐えかねたのか、先に口を開いたのは久倉の方だった。
「俺たち、本当にデビューしたんだよな」
感慨を込めて言っていた久倉の心のうちは、神原にもよく分かった。今朝起きたときから、頭はずっとそのことで占められていた。
「そうだな。デビューしたよ。実際に今日そこのテラレコ行ってみたら、一枚だけだけどCDも置かれてたし。間違いなく現実だよ」
「ああ、俺もさここに来る前にシモキタのテラレコに、CD置かれてんの見てきたから。それを見て、ようやく実感が湧いてきたっつうか。やっぱ考えることは一緒なんだな」
「そうだな。紛れもなく、俺たちにとってはとてつもなく大きな一歩だよ」
「あのさ、俺さ実はCD買ってく人を見たんだけど」
「えっ、マジで!? どんな人だった?」
「俺たちと同い年ぐらいの男だったかな。たぶん、ライブに来てくれたこともあるんだと思う。俺さ、そん時めちゃくちゃ嬉しくてさ。思わず『ありがとうございます!』って、声かけそうになった」
「えー、いいなぁ。俺も二時間ぐらい粘ってみたんだけど、誰もCD買ってってくれなかったぜ」
「まあ、インディーズデビューしたばかりで、ライブも数回しかしてない俺たちの知名度なんてたかが知れてるしな。声かけるのは気色悪いって思われそうだったから何とか我慢したんだけど、それでも俺たちの曲を必要としてくれる人をこの目で見て、バンドやっててよかったって思ったよ」
「そっか。じゃあ、俺も練習終わったら、もう一回そこのテラレコに行ってみよっかな」
「ああ。でもほどほどにしとけよ。あまり何時間もいると、それこそ店員に気味悪いって思われちまうから」
「分かってるよ」そう言いながら神原は、久倉が遭遇した光景に羨ましさを感じずにはいられなかった。偶然とはいえ、CDの購入者が一人でもいると分かったことは、神原に大きな勇気をもたらす。
もしかしたら他のCDショップでも同じように、自分たちのCDを買ってくれた人がいるかもしれない。そう思うと売り上げにも期待が持てるようだ。
「その人、次のライブにも来てくれるかな」「来てくれたら嬉しいよな」「そのためにも練習頑張んねぇとな」そんな会話を久倉と交わしていると、園田や与木もビルの前にやってくる。
集まった四人はまた少し話してから、使用開始時間を待って貸しスタジオに入った。
演奏の準備をしながら、神原のテンションは上がっていて、CDを買ってライブに来てくれた人に恥じない演奏をしようと、強く感じていた。
二三枚。吉間から電話で伝えられた数字に、神原の身体は一瞬固まった。それは「日暮れのイミテーション」がリリースから一週間が経った時点での売り上げの合計で、返事をしたいと思う口に、神原の頭は追いつかない。
神原たちは発売から一週間で、ひとまず五〇枚を売り上げることを目標にしていた。
でも、現実はその半分にも達していない。五〇枚くらい簡単だと侮っていた発売前の自分を、神原は一喝したくなる。まだほとんど誰も自分たちを知らない現実に、神原は打ちのめされていた。
それでも、いくら神原たちがへこんでいても、ライブの日は構わずやってくる。
だから、神原はアルバイトで疲れた日も、なんとなく気分が乗らない日も、毎日ギターを弾いて練習するしかない。
しかし、今の自分たちの持てる力を最大限発揮したアルバムが受け入れられなかったショックは思いのほか大きく、神原は練習に身が入らない。
それは三人も同様だったようで、売り上げを知らされてから初めて迎えたバンド練習では、全員がどことなく精彩を欠いてしまっていた。お互いに注意し合っても、なかなか改善されず、月末に予定されているライブに神原は危機感を抱いてしまう。
インディーズデビューをしたからといって、何もかもが魔法のように変わるわけではないことを、四人は思い知らされていた。
前日にセットリストの通り四人で通して演奏しても、神原の不安は未だ消えない。四人とも前回のバンド練習よりかはマシになっているという程度で、今までのライブのような調子に、神原たちは終ぞ持っていけなかった。
何度も練習は積んでいるから、目を覆いたくなるような失敗をすることはないだろう。そう神原は思いたかったけれど、それはステージに立ってみなければ分からないことだった。
ライブ当日は五月なのに、午前中で既に夏日となるような蒸し暑い日だった。
今日の会場は、神原たちが初めて訪れる街のライブハウスだった。中央線でいつも通っているとはいえ、この駅で降りるのは神原たちにとっては初めてだったので、北口を出た瞬間の光景が神原にはとても新鮮に映る。
駅から一〇分ほど歩いたところにあるライブハウスは二階建ての建物の一階部分が、フロア及びステージになっていた。
神原たちがフロアに足を踏み入れると、既に一組目のバンドがリハーサルをしている最中だった。少しファンクな音楽性を志向しているこのバンドも、神原たちはやはり知らない。
リハーサルの光景を横目で眺めながら、神原たちはオーナーに挨拶をすると、スタッフに吉間が車で運んできた段ボールを手渡す。中にはCDだけでなく、今日初めて販売するTシャツやリストバンドが入っていて、どちらも今日神原が着用するものと同じものだった。
今日はライブ後に物販が予定されている。神原たちも実際に、売り場に立ってCDやグッズを販売する予定だ。
現時点でのCDの売り上げは赤字で、とてもデビューにかかった費用を回収できていない。だから、こうして物販をすることで、少しでも赤字を補填する必要があるのだ。
一組目のバンドは、神原たちがライブハウスに入ってきて間もなく、リハーサルを終えていた。
となると、次は神原たちがリハーサルをする番だ。ステージに上がると、今までライブをしてきたライブハウスよりも、少しだけ狭いフロアが神原の視界に入る。一組目のバンドの三人が誰一人として外に出ずに自分たちのリハーサルを見ようとしていたから、神原は緊張を感じてしまう。
それでも楽器を準備し、音量のバランスを確認すると、神原たちは軽く曲を演奏し始める。無難に『日暮れのイミテーション』に収録されている二曲を、神原たちは演奏した。
やはり自分と同じように与木たちも緊張していることを、神原は演奏される音から感じる。歯車が噛み合っていないわけではないが、どこかすっきりとしない。
自分たちを取り巻く状況に変化はないとはいえ、神原たちの肩書きはただのアマチュアバンドから、インディーズバンドに変わっている。その肩書きを通して自分たちが見られることが初めてだっただけに、今までとはまた違った種類の緊張を、神原は覚えていた。
それでも、神原たちが二曲目を演奏しているとライブハウスのドアは開き、佐川たちが入ってきた。今日、佐川たちのバンド・モントリオールは神原たちの次の出番だから、このタイミングで来るのは当然のことだ。
だけれど、神原は入ってきてオーナーと何やら話している佐川たちを、気にせずにはいられない。自分たちのリハーサルも佐川たちは見ていて、本人たちにその気はないと分かっていても、どこか審査されているような感覚が神原には拭えなかった。
十数分に及ぶリハーサルを終えて、神原たちはステージから降りる。
楽器を楽屋に置くと、神原たちには手持ち無沙汰な時間が訪れた。今日は平日ということもあって、開演時間は夜の七時だ。だから集合時間も遅く、神原たちは集まる前に昼食を済ませていた。
まだ夕食の時間にも早いし、どのみち夕食は打ち上げの席で賄えばいいだろう。
だけれど、神原は少し小腹が空いてきていたので、近くのコンビニエンスストアで適当に何か買って食べようと、楽屋を後にしていた。与木たちを残して、フロアに出る。
そのまま外に出ようとすると、佐川が神原を呼び止めた。急ぐような用事でもなかったので、神原は佐川の呼びかけに応じる。
佐川は優しい表情をしていて、神原も初めて会った時ほどは緊張しないでいられた。
「インディーズデビューおめでとう。どう? 今の気分は」
去年のライブ以来、神原と佐川は会っていなかったから、佐川がそうやって話を始めることは、ごく自然なことだった。
でも、神原はその当たり障りのない質問にも、胸を突かれる感覚がしてしまう。神原たちのCDは発売二週目に入って少し売り上げを伸ばしてはいたものの、まだ三〇枚も販売できていなかった。
「凄く嬉しいです。目に見える形で自分たちの曲が売られてるのを見て、ここまでバンドやってきてよかったって素直に思えました」
感じているネガティブな気持ちを押し込めるように、神原は答える。実際そう思ったのは確かだったから、言っていることに嘘はなかった。
「そっか。俺も『日暮れのイミテーション』買って聴いたよ」
「えっ、ありがとうございます! どうでしたか?」
「うん。なんかこう嫉妬しちゃうくらいよかった。まだ粗削りなところはあるけれど、でもこの曲の感じや空気感って、一〇代の頃にしか出せないよなぁって。そのフレッシュさは俺がもう失っちゃったものだから、そういう意味では羨ましかったよ」
「ありがとうございます! そこまで言っていただけるの、本当に嬉しいです!」
「うん。俺ももっと神原君たちの曲聴きたくなった。ねぇ、気は早いんだけどさ、次のアルバムがいつ出るのかって、もう話は出てたりするの?」
「いえ、すいません。まだ全然何も決まってないんです」
「まあ、そりゃそうだよね。そんなにすぐ次のアルバム出せたら、みんな苦労しないし。まずはコツコツライブを積み重ねて、ファンやリスナーを一人でも増やしていかなきゃね」
「はい。おっしゃる通りです」神原は頷く。
今の自分たちには、まだ全然ファンが足りていない。今日のライブに来る人も、きっとほとんど自分たちを知らないだろう。その人たちに、少しでも関心を持ってもらえるようなライブをしなければ。プレッシャーが、神原の肩にのしかかる。
(続く)
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