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十九の夏、スーパーマーケットの衣料品売場で紫の鼻緒が付いた畳の雪駄を見付けた。それが随分格好良く見えたので、買って帰って早速履き始めた。 畳敷きだから履き心地が良い。おまけに鼻緒が紫で凄味がある。これはいいものを買ったと大いに満足し、毎日履いた。 その時分には学生寮住まいで、寮内(屋内)ではスリッパを履いていた。 スリッパは実家から持って来たものだった。家から持って来たものをいつまでも身に着けるのは、何だか弱い気がするから、じきに寮内でもこの雪駄を履くことにした。
まだ幼稚園に上がる前、海辺の雇用促進住宅に住んでいた頃に、母に連れられて何度か医者に通ったのを覚えている。何かの病気にかかったのか、怪我をしたのか、或いは予防接種だったのかも知れない。さすがにそれは覚えていない。 帰りにショッピングセンターへ寄ったら、おもちゃ売り場に大きなミクロマンが展示されていた。 ミクロマンは当時随分流行った玩具で、関節が可動式になった十センチほどの人形である。その店に飾られていたのは通常のミクロマンの倍ぐらいあったように思う。 「あ、大きいミク
横浜のパスタ屋で働いていた頃、時折、店を閉めた後でバイトのメンバーと食事に行った。 パスタ屋は午前二時閉店だったので、出かけるには随分遅い時間だけれど、街は割りに明るく、人通りもあったように思う。 そういう時代だったのか、あるいは横浜だからそうだったのか、今ではもう判然しない。 一緒に行くメンバーはいつも樋口と岩戸と小沢で、行き先は大体ラーメン屋か、近くのデニーズだった。 ある時デニーズで、樋口がコーヒーゼリーを注文した。じきにそれは出てきたが、樋口は皿を見ながら
怖い話というか不思議な話が好きで、移動中などはよくYouTubeで怪談を聴いている。近頃は実話怪談のあんまり生々しいのは避けて、朗読系を聴くことが多い。 先日もその流れで適当に選んだ朗読チャンネルを聴き出したら、イントネーションが名古屋弁だった。それがどうも気になって、そっちへ気が行ってしまう。 これはきっと、当人が訛に気付いていないパターンだろうと考えたら、愈々気になって、話が一向入って来ない。 その内に段々、同僚の愚痴を聞かされているような心持ちになったから、とう
小学生の時、隣に先生が住んでいたことがある。 女性の先生で、石田ゆり子に似ていたように思うが、随分昔のことだからあんまり判然しない。担任ではなく、受け持ちの学年も違っていたから、関わることはなかった。ただ隣に住んでいただけである。 隣は元々別の人の家で、暫く貸家にしていたらしい。先生は一年か二年ぐらいでよそへ引っ越したようだった。 やっぱり近所に、高校の世界史の先生が住んでいた。この先生は年輩の男性で、昔からそこに住んでいた人である。 三年生の時、この先生から教わ
新井の見舞いで、呉市の総合病院へ行った。彼には高校時代に随分世話になった。まさかこの年で病を得るとは思いもしなかったから、土居から聞いた時には驚いた。 驚いたと云えば、高校時代の新井は見るからに悪そうな面構えだったのに、土居から見せられた写真は何だか真っ当な男前になっていた。新井だと云われたからそんなふうに見えたので、黙って見せられたら知らない人だと思ったろう。事によると土居のやつが別人の写真を使って担ごうとしているのではないか知らとも思われたが、そんな事をしたって何の得
コロナの騒動が始まる前、学生時代のバンドメンバーだったナベから急に連絡が来て、四半世紀ぶりにライブをやることになった。 自分は大名古屋在住だけれど、他の者はみんな大阪近辺だったから、練習は難波でやった。難波は大名古屋から近鉄で行けて、新幹線を使うより安かったのである。 ある時、帰りにナベが売店の『面白い恋人』を指して、「ご家族にお土産でどうです?」と言った。面白い恋人は随分前から知っていたが、買ったことはない。 「そうだな、まぁ、買って行こうか」 小さい箱を買ったら、
娘を連れて帰省した際、山陽道のサービスエリアに立ち寄ったらアンデルセンの店があった。 アンデルセンは広島の大きなパン屋で、子供の頃に何度か連れて行ってもらったことがある。クリームパンが大いに美味かったように思う。 ちょうど昼時だったから、そこでパンを買うことにした。 「アンデルセンはね、クリームパンが美味しいのだよ」と娘に教えてやったけれど、娘はあんまり興味もない様子で、別のパンを指差す。 「サンライズって、何?」 「今風に云うとメロンパンだよ」 「じゃあこれにする」
二十年ばかり前、仕事の合間にホームセンターを覗いたら、青い文字盤の腕時計が目についた。サービスカウンターのガラスケースの中で、随分キラキラ光って見えた。それまで赤い文字盤のを使っていて、青いのもほしいと思っていたから余計に心を惹かれたのである。 一万円とちょっとで、別段高い時計ではない。ちょうど前日にパチンコで買っていたこともあって、その場で買った。 ストップウォッチの機能が付いたクロノグラフだった。その時分には工場向けの人材派遣会社に勤めていて、面接の際に簡単な作業の
二十代の頃、あるブランドの腕時計を使っていた。特に高価なものではなかったけれど、大いに気に入っていつも身に着けた。職場でも、「百裕の時計」として周りから覚えられていた。 仕事を辞めて川崎から引き上げる際、時計屋へ電池交換を依頼したら竜頭が折れた。 店主が微妙な顔をしながら「ボンドでくっつけときました」と言うのを聞いて、眼玉を抉り出してやるべきかちょっと迷ったが、こちらも微妙な顔で「そうですか」と言って済ませた。 竜頭はきっと、汗で劣化したものだったろう。 幼い頃、
近頃は髪を切るのを千円カットで済ませてしまうけれど、若かった時分には美容室へ行っていた。 ある時、近所に新しい美容室ができていた。マンション一階のこじんまりとした店で、いつの間にオープンしたものか気付かずにいたのである。 店に入るとスタッフが三人おり、それぞれがいらっしゃいませと云ってきた。三人とも割と年輩の女性である。自分の他にお客はいなかった。 店主らしき人が椅子を指して「どうぞ」と云った。 切り始めて少し経ったところで、スタッフの一人が紅茶を持って来た。
元々高校の国語先生になるつもりでいたから、大学三年の夏休みに教育実習の申込みで卒業校へ行った。 受付で呼び鈴を鳴らすと事務員さんが出て来て、今は教頭がいないから出直すようにと云った。教頭がいないなら他の先生でもいいだろうと思うけれど、それはこちらの都合である。先方には是非教頭でなければならない事情があるのに違いない。 その日は引き上げて、翌日出直すことにした。 帰った後で、事によると自分の格好があんまり不真面目だったから門前払いを食わされたのか知らと思えて来た。そ
前に電車通勤をしていた時、通勤ルートに気になる建物が二つあった。 一つは何かの商売をしている家らしく、看板が掲げてある。随分こじんまりした看板で、「YAMATO」(仮)と書いてあるきりだから、これでは何の商売だかわからない。何かの機械と応接セットがあるのは窓から見えたが、一向わからなかった。 元の建物に後から何度か増築したようで、素人目にもバランスの悪い外観で、それが妙に興味を唆る。 この家の前を通ると何かのセンサーが反応して、電子音の音楽が流れていた。どこかで聴い
飲食チェーンの店長だった時、首都圏エリアの店長全員で鬼怒川温泉へ行ったことがある。一泊旅行だった。 云い出したのはエリアマネージャーだった。会社は一応週休二日制だったけれど、休みが取れない店長が多かったから強制的に休ませる狙いだったろうと思う。 現場サイドとしてはあんまり嬉しい話ではなかった。休めない者には無茶振りだし、休めている者には休みを行きたくもない旅行に奪われる。自分は後者の方で、後輩の井上に、思い出す度「行きたくない、まじ鬱陶しい」とぼやいた。 せっかくの休