ユビキタスの響きに見た未来
小学生くらいのとき、社会の授業でぼんやり眺めていた資料集(便覧だったかな)に載っていた言葉で「ユビキタス」というのがあった。
ちょうどその頃、イーモバイルのCMで松下奈緒がユビキタスというワードを言っていて、なんのことかわからないなりにも、「あぁ、なんか近未来的な響きだな」と思っていた記憶がある。ちなみにこのCMが放送されたのは2007年冬のことらしい。今から17年前だ。
ユビキタスとはなんだろう。何もわからないけれど、幼かった私は「近い未来、このユビキタスとやらが日本のテクノロジー分野に革命を起こし、日本が未来都市へと発展していくための足がかりにでもなるのだろう…」と思っていた。
「ユビキタス」、カタカナ英語のはずなのに「ユビ(指)」という日本語の響きが入っていてなんだか不思議。それに「キタス(来たす)」ってなんだ、これも日本語の響きではないか。それとも湯引き…? とにかく、ユビキタスというワードは、幼かった私に一抹の好奇心を植え付けた。それ程に、妙に魅力的な響きを持っていたのだ。
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鱧の湯引きの美味しさがわかる年頃になった今も、ユビキタスが何かよくわかっていない。そもそもユビキタスというワードを日常生活で耳にすることがない。私自身がIT分野やテクノロジーの話題に疎いのは百も承知だが、それにしてもユビキタスとやらはナリを潜めすぎているのではないか。
いや待て、むしろ日常生活に広く普及して至極当たり前になった結果、逆に目にすることがなくなったパターンかもしれない。当初は斬新かつ前衛的だったものも、広く一般化すればそれは空気と同じだ。松本人志が一般化させたとされる「スベる」や「イタい」という言葉も、最初は皆抵抗があったと思う。
想像していたよりもずっと未来は現実的なわけで、ユビキタスに憧れてから20年近く経つというのに、世の中はまるで近未来的な様相を呈さない。むしろ子どもの頃は見えていなかったいろんな現実が浮き彫りになって、理想なんてのはやはり理想郷にしかないのだと知った。これが大人になるということの解ならば実にクソッタレである。ブルショットを飲ませてくれ。
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結局のところ、ユビキタスとは何なのか調べてみると、元はラテン語由来の単語で、宗教的な文脈における神の「偏在」(いつでもどこでも存在する)を意味する単語らしい。
それが転じて、IT分野では「どこからでもアクセスできる」というような意味になるらしいが、何分疎いので実情はよくわからない。現に手元にある端末を使えば指一本でどこからでもインターネットにアクセスできるのだから、これはもうユビキタスが到来していると言っても差し支えないのだろう。
今でも私は、「何か近未来的なワードを1つ挙げてください」と言われたら迷わず「ユビキタス」と答える。
ユビキタス到来おめでとう。東の国から覗く、いつもの世界。僕にとって新鮮みがないことが、成功の証だと思う。
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