海に眠る(2)【短編小説】
海に眠る(1)
◇ ◇ ◇
いつものように私と彼女は手をつないで小さな岬で海を見ていた。
私たちはこの海が大好きだ。なんだかあたたかい気がする。今は冬だけれど、海の底の方はきっとあたたかい気がする。
あたたかい海の底で暮らしたいね。あっちの岬の底には温泉も湧いているかもしれないね。泳げなくても海の底をきっと歩けるから問題ないね。海底でもアイスクリームは食べたいね。結婚式にはこの岬に上がってあたたかい風に祝福されようね。
私たちはいつもそんなことを話す。そんな冗談や夢のようなことばかり話すのは楽しくて、哀しい。絵空事ばかりだったけれど、私たちにはそれが必要だった。
彼女の白く細い手をつなぐ。今にも消えて失くなりそうで、私は縋るようにつないだ手に力を込める。
彼女はこんなに細かったっけ。もとから華奢な彼女であったが、気がつけば去年の冬に新調したお揃いの白いコートもゆるく体が泳いでいる。
海を眺める彼女の美しい横顔を見つめる。
いつも冗談を言って、いたずらな彼女。小さな鼻先が可愛い彼女。優しくあたたかい春の陽射しのように、美しいひと。
私は彼女のことが大好きだ。たとえ世間が許さなくったって、どうかずっと一緒に生きていたい。死ぬまで一緒に生きていたい。私がそう言うと彼女はいつも寂しそうに笑うけれど。
「今日は私たちが出会った日よ、覚えてる?」
彼女は、そう言ってつないだ指先を口元に寄せた。
もちろん覚えてる。あの日の、三年前の今日、この岬で人生を閉じようとした私を引き止めてくれたのは彼女だ。彼女が真剣な顔で言うおかしな冗談は、次第に私の冷えた心を溶かしてくれた。
あれから私は死ぬのが怖くなった。今では彼女の隣にいられなくなるのが怖くなるほど、彼女を愛している。
彼女がなにか意を決したようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「ねぇ、このまま、ここから私たち一緒に」
ざぁぁっ、と勢いよく風が吹いて、私は飛ばされそうになる帽子を押さえる。
風の音が強くて彼女の言葉がうまく聞き取れない。
「え?なあに?」
風に混じり始めた雪が睫毛をかすめて舞う。
彼女はつないだ私の薬指に小さく口付けた。
私と目を合わせて、しっかりと言い聞かせるようにつぶやく。
「ねぇ、わたし、幸せだったよ」
なんで急にそんなこと言うの、そう言おうとして、口に雪が舞い込む。
どうしてそんな泣きそうな声で言うの。そんな寂しい目をするの。
途端に、嫌な予感に胸がざわめく。冗談はやめてよ。
とっさに彼女を引き留めるように手に力を込めるが、かじかんだ手ではうまく力が込められなかった。
彼女はまるで遊ぶようにするりと私の手を解くと、ふわりと岸壁に駆け出す。
やめて!
声にならない。彼女を掴もうとして手を伸ばす。
岸壁の下では、ざざざんっと波が砕ける音が一段と大きく響く。
すると彼女は踊るようにくるりと私の方を振り返って、海を背にして立ち止まった。
彼女はらこちらに両手を広げて、
「すきよ、あいしてる」
と、微笑んだ。
なんだ、と安堵して彼女を抱きしめようと歩み寄る。
きつくきつく抱きしめてから彼女に抗議しよう。彼女はいつも冗談ばっかりだ。悪い冗談はもうやめてよ。
彼女は春の陽射しのようにやわらかくいたずらに笑って、ふんわりと灰色の寒い空に溶けるようにして海に倒れ込んで、
ごめんね、
と、目の前から消えた。
彼女が私たちの大好きな海に落ちる音は、ここまで届かなかった。
うそだ、うそだ、うそだ、うそだ、どうして!
膝が崩れて、彼女が消えた岸壁に駆け寄ろうにもほとんど歩けない。どうしよう。助けないと。喉奥が締まって声にならない。どうしよう。いやよ。強い風が髪を乱す。お揃いの白いコートに土がつく。息がうまく出来ない。這いつくばって、ごうごうと鳴る海を覗き込む。涙は出ない。白い雪と白い波の中に白いコートを探す。見つからない。いやだ。息が出来ない。どうしよう。どうして、どうして、どうして。冗談だと言って。いや。どうして、ひとりで行ってしまうの。どうして、ひとりにするの。息が。
目が覚めたときには、病院のベッドに力なく横たわっていた。
ああ! 彼女は助かったの!
彼女の愛しい名前を何度も何度も呼んで泣き叫んだら、口に酸素マスクをつけられて上手く名前が呼べなくなった。
ふわふわと混乱する私の脳裏に彼女の、すきよ、あいしてる。
◇ ◇ ◇
海に眠る(3)に続く