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私は宝塚歌劇の”ファン”なのか?

私は小学3年生の頃から宝塚歌劇が好きだ。
20歳の今日まで、ずっと自分は宝塚歌劇の”ファン”だと思ってきたが、11年目に入った最近、自分が本当に”ファン”なのか疑わしくなってきている。
というものの、自分の宝塚歌劇に対する見方が大多数の(私の周りの大多数の、ではあるが)ファンの人達と違い過ぎるのをしょっちゅう実感するのだ。そんな経験を繰り返し、自分が本当に”ファン”であるのか自分の中で疑わしくなってきてしまったのである。

宝塚歌劇に私が向けるまなざし

先ほども書いたように、そして別の記事でも書いているように、私は小学3
年生の頃から宝塚歌劇が大好きだ。
最初は「めちゃくちゃ赤い口紅を塗って、デカい羽根を背負って、男性の役を女性がやっている、よく分からないやつ」程度にしか思っていなかった。しかし小3の秋に、ある宝塚歌劇の動画を見たことをきっかけに、世界がひっくり返ったように好きになってしまった。
それからというものの、多くの素敵なタカラジェンヌを好きになり、宝塚歌劇を通して多くの人たちと巡り会ってきた。
特に宝塚歌劇を通して出会った人達は、本当に私を支えてくれるような人達ばかりだった。宝塚歌劇が無かったとしたら…、あったとしても、あの小3の秋に宝塚歌劇を好きになっていなければ、この人たちと巡り会うことが無かったと思うと、特に取柄も才能もない私はどうやって生きていたんだろうと心配になるほどだ。
その上、宝塚歌劇は幼い私の視野を広げさせてくれたものでもあった。
古今東西を舞台としたミュージカル作品を観ていると、世界にはこんな歴史があったのかと思っては興味深くて面白かった。
人間9年目でそろそろ自分の世界に飽きを感じていた小3の私にとって、宝塚歌劇は「世界ってこんなに面白んだ!」と思わせてくれるものでもあった。
自分が”ファン”なのか疑わしくなってきてしまっている今でも、本当に本当に宝塚歌劇には感謝の気持ちでいっぱいである。

宝塚歌劇にとって私は”楽しませてもらうだけの人”

ただ、ここまで書いていて絶対に忘れてはならないのが、いくら長いあいだ宝塚歌劇が好きとはいえ、この11年間私はずっと単なる”楽しませてもらうだけの人”であったということである。
宝塚歌劇を好きになって約2年後の小5の夏、あるポスターのタイトルの下に「作・演出」という文字を見つけて「宝塚歌劇の演出家」という職業を知った私は、なんとなく「宝塚歌劇の演出家になりたいなー」と思っていた。
それからというものの、数々のご縁に巡り合い、今では「宝塚歌劇の演出家になりたいなー」ではなく、「宝塚歌劇の演出家になるぞ!」と思っている。
そのためにも(あとは社会学が好きなのもあって)、大学院に行こうとしているほどでもある。
しかしだからと言って(歌劇団の演出家になりたいと思ったからと言って)
私がこの11年のあいだ、宝塚歌劇にとってはただの”楽しませてもらうだけの人”という単純な存在であったのには変わりがない。
言い換えるとこの11年間、私は”宝塚歌劇の楽しいところだけを見ている人”だった。お金を払って、舞台を観たりグッズを買ったりして、宝塚歌劇にとにかく癒される、ただそれだけの人だった。
しかし、この”楽しませてもらうだけの人”だった私を踏みとどまらせたのは昨年9月30日に起きた、宙組の娘役さんが飛び降り自殺をした事件だった。

宝塚歌劇のファンダム内部は大混乱

あの事件が起こってからというものの、宝塚歌劇のファンダム内部は揺れに揺れまくれ、今も揺れている。
(ファンダムとは、趣味の分野の熱心なファンたち、また熱心なファンによって形成された文化、世界のことを示す"fan"と”kingdom"を掛け合わせた造語である)
Instagram、Twitter(X)、その他のネット上では、意見や憶測なのかも分からない様々なものが顔も分からない人たちによって山ほど発信された。
私も何が何だか分からなくなり、歌劇団が初めて公の場で会見を開いてファンダム内部だけでなく外部まで混乱が広がっていた頃には、考え過ぎて頭痛がして、吐き気がしていたくらいだった。

”楽しませてもらうだけの人”の危機

考え過ぎて頭痛がして吐き気がするという症状は、ネット断ちをすれば少しは収まったものの、次は宝塚歌劇の映像を観るたびに「この人たちもパワハラとかいじめ、多少なりしてきたんだろうか」と思うようになってしまった。
事件後も相変わらず宝塚歌劇に対しては”楽しませてもらうだけの人”だった私は、宝塚歌劇とタカラジェンヌに大きな不信感を覚えては重い喪失感を味わっていた。今まで楽しいばかりだったものに、急に影が入り始めたのである。

科目不足な模試の合格判定を信用するようなもの

しかし、いくら宝塚歌劇とタカラジェンヌに不信感を覚えたからと言って、その感情をどうにかするために私が出来ることは特に無かった。
とにかく批判的なネットの情報や週刊誌の情報を信用することも出来ず、だからと言って宝塚歌劇とタカラジェンヌを信用できるわけでもなかった。
そんな時、私はこれまでの自分が宝塚歌劇にとって、ただの”楽しませてもらうだけの人”であることをもう一度思い返した。
私は”宝塚歌劇の楽しいところだけを見ている人”であるということを、もう一度思い返して、そのうえでよくよく考えてみたのである。
その結果、私は宝塚歌劇やタカラジェンヌを信じることもしなければ、疑うこともしないということに決めた。
そもそも楽しいところだけしか見えていないんだから、信じるとか疑うとかの判断をつけることがまず不可能なのである。
もし私の立場(楽しいところだけを見ているという立場)から「信じる」「疑う」の判断ができたとしても、それはあまりにも偏った見方からの判断であると考えざるおえない。
言ってみれば、私のような立場から宝塚歌劇やタカラジェンヌを信じる、疑うを判断するなんて、科目不足な模試の判定結果を信用するようなものだ。
不足している情報から、もしくは偏っている情報から、その学校に合格できるかどうか判断することなんて出来ない。
一部の情報から何かを総合的に判断するのは不可能であり、万が一判断を行ったとしても、それが信用できるとは言い難い。
つまり”楽しいところだけを見ている人”の立場から、宝塚歌劇やタカラジェンヌを信じるか疑うか判断するのは、一部の不足している・偏っている情報から何かを総合的に判断するのとまず同じであって、判断できたとしてもそれはかなり自分勝手に、都合よく行われたものであることが多い…と私は考えている。

信じることもしなければ疑いもしないのは”ファン”なのか

ここまで書いてきたように、私は宝塚歌劇やタカラジェンヌを信じることもしなければ疑うこともしていない。
ただ、私の周りには自分と似たような考え方をするファンが中々いない。
宝塚歌劇に夢を見ている以上、タカラジェンヌ(贔屓に対しては特に)を信じているのがファンであるのかもしれない。
”楽しませてもらうだけの人””楽しいところだけを見ている人”の立場から、信じることや疑うことを判断するのは、一部の不足している・偏っている情報から何らかを総合的に判断するのとまず同じで、判断できてもそれは自分勝手に都合よく行われたものであることが多い…と考える私は、いったい何なのだろうか?
宝塚歌劇の”ファン”なのか?
それとも、宝塚歌劇を冷静に見つめるただの”傍観者”なのか?
将来は演出家になりたいと思っている身なら、これくらいの考え方がちょうど良いのかもしれない…と感じつつも、自分が約11年間思っていた「自分は宝塚歌劇のファン」という絶対的なものが揺らいでいる、今日のこの頃である。









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