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黄金ルートを捨てた、私らしさを求めて。「決断の裏にある大切な考え方」

どこの大学・大学院でも修士課程は、その卒業条件として「研究論文」を提出することが必須であり、学部4年生〜修士2年生までの3年間かけて研究を続けて論文を発表するという学生もいますが、あと1年後に卒業する私に、研究テーマはありません。

そんな私に教授は、

'' あなたの将来は「ゴールデンルート」が用意されている。''

と言うのです。就職活動もしていない* 私の不安ばかりの将来に、このような言葉をかけられてしまえば、ウハウハです。それでも私は1年以上、教授のお誘いをお断りしています。

その結果、『研究テーマを持たない研究者』という新たな私の呼び名が生まれました。果たして、このまま「修士学生」であり続けることの意味はあるのか。大学院を中退するべきか悩んだ末に、辿り着いた考え方をご紹介します。

今日のお話は、

’’ 与えられたものに、すがらない。
「私らしさ」を見失わないために今できること ’’

仕事や人間関係、暮らしの環境のほとんどが「与えられた」ものです。その与えられたものは、みなさんにとって正解でしょうか。

例えば、職場の同僚はかんたんに選べません。仕事で任された案件もかんたんには断れません。これらの「与えられた」ものに不自由していませんか。

「与えられた」ものよりも、「自分で苦労して手に入れた」ものの方が愛着が湧き手放しにくく、長い時間を共にしても飽きることはないはずです。
だからこそ、

何を、手に入れるべきか。

このことを一生懸命に考えてみませんか。

ここで勘違いをしてはいけないのが『社会に溢れた情報を何でもかんでも、すべて手に入れること大切である』と考えてしまうことです。社会に溢れた情報は、まさに「与えられた」ものであることに注意しましょう。

そう、そこには「私らしさ」が欠けていることに、みなさんはもうお気づきでしょうか。

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少しだけ、「何でも手に入ること」と「私らしさを見失う」ことの関係を説明します。

SNSやYoutube、テレビなどで目にする情報のすべてに、それを発信する誰か存在します。世の中に溢れる情報の中から自分に必要な情報だけを見つけるために、人は自分のフィルターを通して精査します。そのときに誰かが生み出した情報は「自分の情報」に変化するのです。

ただそれが勘違いであることも、まれにあります。つまり、巧みな言葉に「洗脳されている」だけで、本当に自分にとって適切かどうか判断せずに「与えられた」情報をそのまま「自分の情報」として主張してしまい、

気がついたときには、私らしさを見失っているのです。

「誰かがあのように言ったから絶対に正しいはずだ」と、思い込んでいませんか。何でも手に入ることは、裏を返せば私らしくないものを「自分の情報」として受け取ってしまうリスクが大きいということです。

だからこそ、

’’ 与えられたものに、すがらない。
「私らしさ」を見失わないために今できること ’’

をいつも意識することが、大切であると考えています。

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冒頭に私と教授のエピソードをご紹介したように、

'' あなたの将来は「ゴールデンルート」が用意されている。''

と教授は言うのです。その理由は、
・研究してほしいテーマが決まっている。
・国際的に評価を得られる可能性が大きい。
・女性で研究者になることは、価値がある。
とのこと。この教授の思いに対して1年以上、私は「YES」と返事をしたことが未だありません。

「与えられた」もの、であることへの違和感が消えないのです。

教授の提案したテーマが興味がないのかと聞かれると「興味はあります」。
ゴールデンルートを歩む自信がないのかと聞かれると「自信はあります」。
その研究テーマが私らしいか、と聞かれると「私らしくない」のです。

だからこそ、「ゴールデンルートを捨てる」という思い切った決断に至りました。その結果に残されたのが『研究テーマを持たない研究者』の道です。そこに後悔はありません。

何よりも、これからが楽しみで仕方がないのです。

修士課程を卒業するまでの、たったの1年間です。自分が何を手に入れたいのか、はっきりと答えを出すための期間であり、その時間を無駄にしないために「学生であることを辞めない」と決めました。大学は貴重な機会に溢れていて、学生だからこそ享受できるものが多くあります。

私らしい道を、これからも探索し続けます。

*博士課程に進む話は、こちらの記事で一度触れています。
興味がある方はご覧ください。

※上の記事では、「仮に私が博士課程に進んだら、どう思う?」と聞いたときの彼の返事を記載しています。

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