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皇帝のライバル:宰相

「丞相」、「相国」、「尚書」、「内閣大学士」、「殿閣大学士」など呼び名が色々ありましたが、いわゆる「宰相」が古代中国の皇権を抑制できる唯一の力です。

漢高祖(建国者)「劉邦」は「項羽」を破り漢王朝を作った時、一番の功労者である「蕭何」に宰相の地位を与えた上、三つの特権を付与しました。

「見君不趋」:皇帝に会う時小走りする必要がありません。

「剣履上殿」:剣を持って靴が履いたまま宮殿に上がれます。

「称臣不名」:皇帝に第一人称は「臣」だけでいい、名前を名乗る必要がありません

最後の「称臣不名」について、古代の人は互いに名前を呼ばないのは基本礼儀です、名前を呼んでいいのは親か君主のみ、普段の呼び方は基本字名か「号」という敬称です。

例えば、諸葛亮、苗字は諸葛、名前は亮、字孔明、号卧龍。劉備なら直接諸葛亮と呼んでいいが(すごく失礼なので、基本呼ばないでしょう)、他の同僚達基本孔明や臥龍先生(もしくは官職)で呼びます。(打線:ゲームやアニメによく出る諸葛亮孔明という名前と字名連呼の呼び方はあり得ない。)

話を戻します、この三つの特権は大した意味がないと思われるかもしれません、どれも名誉的なものにすぎませんが、実はこれ以上与えられる権利もはやないからこそこのような特権にたどり着きました。

宰相という地位は宋王朝までに皇帝とほぼ同等な権力を持っています、官僚の人事から軍隊の統率まで全て握っており、二人の性格次第で立場が逆転するケースもよくあります。

宰相と言えば曹操です

漢武帝、唐太宗など強い皇帝の時代なら宰相はただの雇われ社長にすぎない、皇帝が弱くなると政権を乗っ取られるのもよくあります。前漢の王莽、後漢の曹操、隋の楊堅、どれも宰相から政権を奪い取った例です。

唐の時代になって、これはまずいと気づいた皇帝は組織再編を行い、いわゆる三省六部制を導入しました。宰相の権力を三分割し、立派な「三権分立」を行いました。

そう、古代中国もちゃんと権力分散の歴史がありましたが、ただあくまでも宰相の権力であり、皇帝の権力ではありません。逆にこの三権分立によって皇帝の力がますます強くなってしまいました。

宋の時代に入り、宰相の権力を三分割どころか、さらに細分化され、いわゆる宰相に当たる人が数多くいます。これで皇帝に対抗できるNO.2の脅威が消えました。

宋になると官職が多すぎて訳分からなくなる

しかし、元の時代になると、モンゴル人は明らかにこのややこしい組織構造の意図を理解できず、再び宰相制を復活させました。案の定、元王朝において数多くのワンマン社長が誕生しました。

明になると、創立者である朱元璋が前代の教訓を生かして、なんと宰相を自ら兼任してしまい、完全のオーナー社長となりました。

かつて馬を乗ればで軍隊を率いて、筆を取れば国を治める、一人の下万人の上の存在が完全に消えました。


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