中国の封建制度は秦王朝で終わった?
「封建」すなわち「封邦建国」とは君主(国王)が諸侯達に土地を与え、土地の人民を統治する制度です。「封邦建国」そのまま訳すると邦(土地)を封(与えて)国を建設させることです。
これは古代においていわゆる生産力が低いため、王が全ての土地を自ら管理することができないからです。その代わり自分の子供や功臣に土地を与えて一緒に管理してもらいます。
この制度の一番の問題が中央政権と地方政権の力関係が崩れやすいです。秦王朝前の春秋戦国時代に色んな覇主が登場し、国をリードしていましたが、彼らはあくまでも諸侯であり、その上にまだ周王朝の天子(王)が存在していました。しかし、周天子(中央政権)の力が弱くなり、やがて誰も命令を聞かなくなりました。欧州を見ればもっと分かりやすい、歴史上しばしば出てきた「公国」がまさに諸侯(公爵など)が作った国です。
秦王朝が天下統一を果たし、秦王が「皇帝」と名乗り、これからの統治制度をどうすべきかについて御前会議が開かれました。
諸子百家の儒家が今まで封建制度を推奨したが、法相である「李斯」(法家)が反対の意見を述べました。
「李斯」が封建制の問題点を指摘し、さらに今まで秦が行った統一戦争の相手が全て昔の周王朝の貴族が作った国、最初互いに兄弟国かもしれませんが、何代も過ぎると他人と同然な存在になります。せっかく諸侯国を潰して統一を果たしたのにまた同じ諸侯国を作ってどうするの?
そこでいわゆる郡県制度を推奨しました、国を数十個の郡に分け、郡の下に県を置き、皇帝が直接官吏を任命する制度です。この制度の良いところは地方政権を作らせないことによって、地方長官が直接皇帝に責任を負います。封建制のように地方が中央の命令を無視できなくなります。つまり中央集権の始まりです。
「始皇帝」が「李斯」の主張を受け入れ、封建制度を終わらせました。後世から見ても当時「李斯」の主張が正しい、しかし、儒家の人が反発して余計な言葉を話した。「郡県制が初めてのものであり、昔に存在しない制度、昔のことを学ばずにうまく行った例がいない」と論点を逸らして反対しました。
国のために違う意見を話し合うのは元々いいことです、郡県制度ももちろん完璧なものではなく、欠点を指摘して議論すれば良いのに、昔のことを学ばずにうまく行った例がないと屁理屈で反論された「李斯」が激怒し、彼らがバカな本を読みすぎて頭がおかしくなったといい、法家と理系(農業医学水利など)の本以外全部燃やすと「始皇帝」に進言しました。
「始皇帝」も儒家のバカ達に呆れたためそのまま実行し、結果、大切な本を燃やされた諸子百家の知識人から批判が殺到しました。じゃ黙らせろうと「始皇帝」にあっさり処刑されました。
これは有名な「焚書坑儒」事件の発端です。
ともかく、秦王朝が中国の封建制度を終わらせ、長く長く中央集権制度を始めました。