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短文

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#回想

男泣き

男泣き 男泣きも安くなった。よく、テレビで男が泣いている。泣くことに関して言えば、男が泣くのは親が死んだときだけだ、と教育されてきたので、基本的に泣かない。泣きたいことがあっても。ただ、年とともに涙腺は緩くなり、テレビドラマなどで思わず泣いてしまいそうになることもあるが泣かない。我慢する。 泣くことはストレス解消にいいと聞く。泣くためのイベントなども聞いたことがある。しかし、泣きイコールみっともないと価値観に深く刻まれている。それでも、何人かに泣くところを見られたことがあ

巨鯉の池

巨鯉の池 おそらく、元々は稲作の水をためておくための人工的な池ではないかと思うが、自転車にてしばし行くところ、小学生からして最長行動範囲の端にその池があり、葦かどうか、背の高い緑の鋭い葉が切り立つ合間に、ところどころ岸辺の、それは多分、誰かが釣り場と踏み固めたところではあるのだが、そこから短い竿を出すのだった。 その池には雷魚が住み着いていると言う、全長優に一メートルを越えると、付近の同級生の曰く、しかしそれを狙うではなく、口細や手長蝦などを釣り上げ、自宅にて飼う目的で、

城崎鳥取

城崎鳥取 その昔、バブルがはじけるかはじけないかという頃の話しだ。勤め先のいろいろなつきあいの関係で、毎年数人が動員される会合があった。二泊三日のシンポジウムなのだが、その年は城崎温泉での開催だった。京都のタワーホテルに前泊し、翌日会場に向かったが、基調講演と最後の総括の時に居ればいい、という暗黙の決まりがあり、実質、旅行なのだった。 まずはじめの夜は派遣されたいろいろな支社の要員揃っての宴会があり、その後は丸一日と半分、実質自由時間だ。 翌日は申し訳程度に最初のワーク

デニッシュマン

デニッシュマン 時折、房総半島一周の業務回りをした。私よりずっと年上の、専任担当の人とともに、いろいろな話をしながら二日ほどかけて。 年末の挨拶を兼ねて挨拶するときが一番気楽だった。年末の挨拶をすると今年あったいろいろなことがリセットされ、今年は今年、来年は仕切り直し、と勝手に様々な出来事を脇へ追いやる。 その人はいろいろな職業を経験してきた人だった。農業高校からM大に進学し、農業の勉強をしていた。トマトを新規に扱う会社として当時まだメジャーな調味料ではなかったトマトケ

外の田村

外の田村 アマゾンとブックオフができて、また年を重ねて、めっきり古本巡りをすることがなくなった。 お茶の水あたりをうろつくと、お茶の水の楽器店街から坂をおりて右に曲がり、書泉ブックマート(古本ではないがマンガなど充実していた。あと、買ったときにもらえるやや強い素材のビニール手提げがよかった。あれはいったい何種類あったのか、買う値段によって微妙に素材とサイズが違う気がする。よく、バッグのなかに荷物が増えたときのサブとして入れておいた)から三省堂、そして古本の各店を流していき

豪雨

豪雨 バケツをひっくり返したような豪雨をとあるデパートの集配場で学生時代に経験した。集配場はトラックが入ってくるため大きくシャッターが開いている。大雨の映画を見ているようだった。しばらく雨宿りするとすぐにやんで、濡れそぼった町を帰った。ここ近年、ゲリラ豪雨と、すさまじい雨が局地的に降ることがよくあり、房総半島の真ん中あたりに居るときに一番すごいのを経験した。 その日はその地域を集中して訪問する業務に就いていたが、天気予報の言うとおりまもなく雨が降り始め、あっという間にワイ

無職と自転車

無職と自転車 遙か昔、一度勤めを辞めた。仕事にも慣れて、新しい上司が来たとき、格段に仕事が楽になった。知識でこちらが主導権を握れたからだ。それで辞めた。三十になったときのその職場での自分が想像できなかった。若気の至り。しかし、いまでも存続している企業であり、今後もまず倒産することはなさそうだ。就職時の着眼はよかったのだが。 そして、若くして無職になった。当時はニートも非正規もひきこもりと言う言葉もない。若い無職。職安、今はハローワークと言うのか、古い建屋のすすけた窓口に職

学校の怖かった話

学校の怖かった話 小学校一年の一学期で校舎が移転した。入学式は当然、旧校舎で行われたが、木造で、全体的に薄暗く、体育館に目が丸い、椅子に腰掛けた女の絵が飾ってあってそれが薄暗い壁に不気味に溶け込んでいるのだった。 桜の木の下に回転遊具があって、遊んでいると毛虫がポトポト落ちてきた。それを踏むと絵の具のような原色の中身が出てきた。黄色、黄緑色。階段の手すりは小学生にとっては滑るものだ。滑ったあげくに局部を打って、それを見ていた先生にげんこつを食らうというのがお決まりのパター

木いちごの家

木いちごの家 幼少時の家には物干し台があった。その物干し台から隣の家の繁みが見える、というより手が届いた。その中に木いちごがなっていた。黄色い粒々。米粒半分ほどの。それがすこしずつかたまってなっている。最初は少しの粒ずつとって口にする。ぷちっと皮が破れ中から酸っぱく甘いそして少し土臭い汁が飛び出す。殆ど汁。はじめはすこしずつ口に入れるのだが、取る固まりがだんだん大きくなっていく。白い花も咲いている。黄色い蝶が行き戻りしている。甘い木いちごだった。ほんのひとときだけ食べられる

美術館

美術館 美術館はどうなっているのだろう。 竹橋の国立近代美術館ぐらいしか行ったことがない。しかも、数回行っただけだがいつも雨が降っていたり、夜だったりした。小倉遊亀の「浴女(その1)」という日本画が確か所蔵されていた。エメラルドグリーンの湯が浴槽のタイルを歪ませて妙に印象に残った。ほかには萬鉄五郎という人の赤黒い絵(なんと乱暴なものいいだろうか)や戦争画などをみた記憶がある。 私の見た戦争画は南方戦線のもので、素晴らしく晴れた空と青く透き通った海のさなかで戦闘が行われて

香港

香港 私が香港に行ったのは中国への返還前のことだった。まだ九龍城もあった。やたらビルから横に看板が木の枝のように延びていたのを覚えている。その当時、香港では道行く人がみんな手に大きなトランシーバーの様な携帯電話を持って歩いているのが目に付いた。まだ、日本では誰もが携帯を持っている時代ではなかった。それから、煙草を町中で吸っている人が全くいなかった。屋外での喫煙が今の日本のように厳しかったのだろうか。当時私は煙草を吸っていたが、ここで吸っていいのだろうかという場所でおっかなび

富士五湖線

富士五湖線 月曜日早朝、長いトンネルをぬけて富士五湖へと高速が分岐する。上りも下りも、時に全く車が走っていない。私の車一台だけ。家を出てきたときにはまだ夜の終わりだったのだが、このあたりを走るときはもう朝がはじまっている。車線に沿ってずっと続いている稜線とまばらな集落。刺激がなく、睡魔がぴったりと目の回りに貼りつく。膜のように隙あらば目をふさごうとする。サービスエリアもパーキングもしばらくない。曲がりくねった下りの坂道より、単調な直線の方がよほど難所だとそのとき知った。一度

遠くに手を振っている

遠くに手を振っている 風光明媚な、といえば聞こえのいい田舎に、高校の三年間を通った。窓からの景色がとてもよかったので、いつも窓の外ばかり見ていた。窓際の席が好きだった。不思議と、いつも窓側の席に居たような気がする。窓からは、沼沢の水面と、空と、森林が見えた。森林の中にコンクリートの、四角張った建物が建っていた。病院か、何かの施設か。水辺に沿って、一本の細い道が通っていて、車通りはそれほど無かったが、通り過ぎる車を目で追ったりしていた。その年頃そのときの気候が、自分の中の快、