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聴けば聴くほど「猫」の歌詞は面白い

今更感満載なんですけど、名曲過ぎてこの記事を書かざるを得なかった。

ご存知の通りあいみょんが作詞作曲してるんですが、この曲の歌詞がめちゃくちゃ面白い。

まず、文法とかガン無視で文章になっていない部分もあるんですよ。
勿論それがダメとかでは全くなくて。むしろ本当に素晴らしいんですよね。

あと、最初に書いておきますが僕はこの曲を「死別」を歌ったものだと思っていません。

あいみょん本人が映画「君の膵臓をたべたい」を観てインスピレーションを受けた曲と話しているそうですが、僕にはなんとなく死別を歌った曲に思えなくて。

多分、あいみょんは「キミスイ」というよりは出演していた北村匠海自身の存在感に対してインスピレーションを受けてこの曲を作ったんじゃないだろうか、と思うのです。

僕がそう感じた部分も含めて、歌詞を詳しく見ていきましょう。

夕焼が燃えてこの街ごと
飲み込んでしまいそうな今日に
僕は君を手放してしまった

この曲は主人公の恋人に対する未練を歌ったもので、歌い出しのAメロでは別れの場面を描写しているわけですが。

面白いのは"手放してしまった"という表現。
普通、相手に未練が残っている人は"手放された"側であることの方が多いはず。
けど、この曲の主人公は相手を"手放してしまった"側なんです。

本当は引き留めることができたはずなのに引き留めなかった、というようなことなんでしょうか。

明日が不安だとても嫌だ
だからこの僕も一緒に
飲み込んでしまえよ夕焼
だけどもそうはいかないよな
明日ってウザいほど来るよな
眠たい夜になんだか笑っちゃう

離れていく恋人を引き留めなかったクセに、不安でしょうがないから明日が来ないでほしいと願う。
でも、ウザいほど明日はやってきてしまう。
ここのワードセンスも面白い。
"ウザい"という言葉が歌詞に使われることはもう珍しくもないけど、"明日"に対して"ウザい"を使った人は多分あいみょんが初では。

家まで帰ろう1人で帰ろう
昨日のことなど幻だと思おう
君の顔なんて忘れてやるさ
馬鹿馬鹿しいだろ、そうだろ

この曲を聴いた人なら誰でも引っかかるフックになっているのが、一番下の「馬鹿馬鹿しい」の言葉の載せ方。

"馬鹿"で区切ることで、まるで離れていった恋人に対して、そして恋人を引き止めなかった自分に対してその言葉を言い聞かせるような響きになっている。

で、僕がこの曲を死別の曲だと思えない理由その1がこの歌詞にあります。

好きな人が亡くなった時、”馬鹿馬鹿しいだろ、そうだろ”とは普通思えないでしょう。

君がいなくなった日々も
このどうしようもない気だるさも
心と体が喧嘩して
頼りない僕は寝転んで

キャッチーなメロディと共に紡がれるサビの歌詞ですが。

これ、よくよく聴くと最初の二行のことは投げっぱなしなんですよね。
"君がいなくなった日々""このどうしようもない気だるさ"を主人公がどう思っているのか、ということが一切明言されていないんです。

にも関わらず、多分このサビを聴いて「ここの歌詞の意味がわからない」とか「文章になっていない」ってツッコむ人ってほとんどいないはず。
これがこの曲の本当にすごいところで。

とにかく、曲に力があって感情に訴えてくるんですよね。
思ったことをそのままに言葉にして曲に載っけているような力強さがある。
だから、文章が成立していなくてもここに込められた感情って大体の人が理解できるんですよね。
北村匠海くんの圧倒的に説得力のある歌いっぷりも含めて、世界観が完成しています。

猫になったんだよな君は
いつかフラッと現れてくれ
何気ない毎日を君色に染めておくれよ

初めて"猫"という単語が登場。
あいみょんって、割とわかりやすくてキャッチーなタイトルをつけるアーティストですよね。ある意味B'zやミスチルに近いというか。
ほとんどの楽曲がサビの中で目立っているワードをタイトルにしている気がする。

"何気ない毎日を君色に染めておくれよ"という締め部分のベタさといい、この辺りのバランス感がさすが。
一つ間違えるとツッコミどころ満載になりそうなところを、この辺りをわかりやすく仕上げることでうまく中和しています。

夕焼が燃えてこの街ごと
飲み込んでしまいそうな今日に
僕は君を手放してしまった
若すぎる僕らはまた1から
出会うことは可能なのかな
願うだけ無駄ならもうダメだ

2番の冒頭は1番のリフレイン。
その後、"若すぎる僕らはまた1から〜"と願いながら直後に全力で否定。

サビの歌詞といい、元恋人に未練たっぷりの主人公は自己嫌悪のど真ん中にいるようだ。

家までつくのがこんなにも嫌だ
歩くスピードは
君が隣にいる時のまんま

2番Bメロ頭の歌詞。
“家まで着くのがこんなにも嫌だ”ということは、主人公は別れた相手と同棲、もしくはそれに近い関係性であったんだろうか。
単に家に帰ると色々考えてしまう、という話と考えるには重い感じがする。

いずれにせよ、付き合っていた期間はそう短くなかったのだろう。

想い出巡らせ
がんじがらめのため息ばっか
馬鹿にしろよ、笑えよ

1番では"馬鹿馬鹿しいだろ"と歌っていたメロディで"(ため息)ばっか 馬鹿にしろよ"と韻を踏む。
あいみょんからすればこれぐらいはお茶の子さいさいなのかもしれないけど、かなりハイセンス。

君がいなくなった日々は
面白いくらいにつまらない
全力で忘れようとするけど
全身で君を求めてる

2番のサビは相反する言葉・似たワードを並列させる、という流れで全体を統一。
"面白い"くらいに"つまらない"とか、"全力"と"全身"とか。

特に、”面白いくらいにつまらない”という表現はすごい。日本語の不文律を破っている感がある。

でも失恋した時って、こういうめちゃくちゃな心情になりますよね。
相手のことを忘れようとすればするほど考えてしまったり、他の楽しいことに目を向けようとすればするほど虚しくなっていったり。

この複雑な心情を”面白いくらいにつまらない”という一行にまとめ切るセンス

君がもし捨て猫だったら
この腕の中で抱きしめるよ
ケガしてるならその傷拭うし
精一杯の温もりをあげる

最後のサビなんて結構無茶苦茶なこと言ってるんですよ。

“捨て猫”というのは、おそらく恋人がいない状態や傷ついた状態の比喩ですよね。

でも”君”を”手放してしまった””僕”も、一度は
”君”を”捨て猫”にした張本人
なわけです。

そのくせ、”ケガしてるならその傷拭うし”やら
“精一杯の温もりをあげる”やら善人ぶる。

けど、この無様さと自分勝手さこそが人間なんだと思うんですよね。
別れてしまうといいことばかり思い出してしまったりするし、自分勝手な言い訳を並び立ててヨリを戻そうとしてしまう。
メロディの盛り上がりとともに、このエモーショナルさが胸を締め付ける。

また、この部分が僕がこの曲が死別を歌っているとは思えない理由その2になります。
亡くなった人のことを”捨て猫だったら“なんて言わないかな、という。まあ主観ではありますが。

会いたいんだ忘れられない
猫になってでも現れてほしい
いつか君がフラッと現れて
僕はまた、幸せで

曲のラストもサビと同じく、ラスト2行が投げっぱなしです。
でも、ここのどうなってるかわからない感じが後を引くんですよね。

おそらく、主人公の前に猫になった恋人が現れることは絶対ないでしょう。
最後の2行は主人公のこうなれば幸せな気持ちになれる(かもしれない)という思い。

すごい自分勝手なやつだけど、共感できてしまう。
この間巷で流行った「うっせえわ」しかり、今は歌詞の世界に自分を投影できる共感力が高い曲が受ける時代なんだなーとつくづく思います。

死別とも男女の別れともとれる聴く人にとって解釈の分かれる一曲ですが、とにかく素晴らしい作品です。

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