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ナイル川船長、そしてオマー・シャリフに会う(1/2)

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その年-

ラマダーン開始ちょっと前に、私は観光ガイドの仕事で、南エジプトまでツアーグループと飛び、クルーズ船に乗った。 これが私の初めてのナイルクルーズ船だった、仕事だったけれど。

その頃、前にもちょこっと書いたが、チェコ人グループがナイル川船上で、テロリストに襲撃されたことがあり、西洋人グループはほとんどクルーズ船を利用していなかった。本来ならば、彼らが最も好む旅のスタイルのはずだが。

そもそも、西洋人はテロの影響でエジプト観光そのものになるべく敬遠していた時代だった。しかしかたや、日本では空前のエジプトツアーブームで、日本人のナイル川クルーズの旅人気にも火がつきだしていた。

船にしてみると、いきなり突然日本人客が増えたはいいが、はて困った、英語が通じない..


私が初めて連れてきた日本人グループのチェックイン手続きをしているとき、この船の船長が挨拶に近づいてきてくれた。

いろいろ雑談をしていると、

「ここ最近、クルーズ船のお客さんの大半が日本人になってきた。だから日本語の日常会話を教えて欲しい。カクテルパーティーで日本語の挨拶をしたいし、ちょっとしたやり取りが直接できるようになりたいんだ」

と突然頼みこまれた。ずいぶん唐突だな、と思ったけれども、船長に恩を売っておいても損はない。

「別に構いませんよ」とすんなり承諾。


ちなみ船旅ブームは、ガイドをしていた私にも大歓迎だった。

なぜなら、陸路(バス)移動は危ない(テロ)、空路(エジプト航空)移動は、タイムスケジュールがめちゃくちゃ(特にラマダーン期間中)で、8,9時間の遅延もざらにあった。

その点、クルーズ船は時間の遅れもないし次の観光地(神殿)に到着するまで、自分の部屋で寝ていられたので最高だった!

ただラマダーン期間中は、各観光地(神殿)も門が閉まるのが早まる。が川で船のスピードを上げるわけにいかない。

そのあたりの兼ね合いの難しさや、またラマダーンの時はナイル川クルーズ船でもベリーダンスショーは法律で禁止だったので、

「ベリーダンスが見られないのか!」

と怒るお客様をなだめるのが大変だった。(とりあえず、「帰国したら、事前にその旨を通知していなかった、日本の旅行会社に苦情を出してください」と逃げていました。笑)

ベリーダンスショーがないので、だからラマダーンに当たったツアー客は、妖艶で華やかなダンスの代わりに「オッサンたちによる農民のダンス」を見させられていた。気の毒だったなあ。笑

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アスワンールクソール間を往来するクルーズ船は80隻ぐらいあると聞いた。(実際カウントしていないので分からないけど)。

クルーズ船でも松竹梅とランクがあって、どこか岸につくと一斉に横並びで停泊するのだが、一番高級な船が岸に直接つけることが許された。

他の船は、最高級船の裏に、値段順に停泊させる。だから、ずらりとびっしり横並びになったクルーズ船を奥から手前の船に向かい、歩いて通っていくと、どんどん内装や雰囲気が豪華になっていく。笑

岸の最寄りに停泊した、最高級のクルーズ船の乗客は真っ先に下船できるため、いつだってまだガラガラで空いている神殿に真っ先に見学に向かえた。(=いい写真も撮れる)

また水門を通る時も、宿泊料金の高いクルーズ船順にそこを通り抜けることができた。

最安値の船に乗ると、降りるのも最後、水門を抜けるのも一番びり。なんでも待たされる。露骨だ!


様々な"質"もクルーズ船によって全然違った。

やはり安い船だとまずデッキにプールがない、食事はまずくスタッフも全然キビキビしていない上、船長の英語が下手だとか怠慢で全然姿を見せないだとか、ひどい船長になると、女性乗客にセクハラをするなど、まあめちゃめちゃだった。

その点、「日本語を学びたい」と私にお願いをしてきた船長の船は、ヨーロッパの会社が所有する最も高いクルーズ船の一つで、衛生面でもサービス面でも全てが行き届いていた。船長自身も品格もそなえた温厚な人物だった。

「日本語学びたい船長」は初めての乗船客が次々に現れると、入口のところでひとりひとりに「ウェルカム、ウェルカム」と挨拶をし、

なるべく船のフロントに自分も立ち、スタッフの仕事ぶりを見張り、お客から何か苦情が入ると船長の彼が率先して動いて対処した。

また、彼は自分で様々な船上パーティーの内容を企画し、己で司会もやり、誰もが知るワールドワイドで有名な歌(ビートルズやプレスリー)をマイクを持って歌って、皆を愉しませた。

ディナーの時は、全く英語がしゃべれない日本人のおじいちゃんおばあちゃんのテーブルにも、ニコニコ笑顔で回って挨拶をし、

船長というトップの地位についているのに、全く偉ぶることもない。後で分かったのだが、もともと彼は資産家の息子だった。

この船長の職もほぼ暇つぶしや趣味でやっているだけだった。だからこそ余裕の態度で、いかなるときもどんなお客様にも、穏やかに対応ができるようだった。


そういえば、この頃『マカレナ』が流行っていて、クルーズ船の夜のパーティーでも必ずマカレナがかかり、全ての人種の乗客(ほとんど日本人だったけれども)全員が一緒にマカレナダンスをした。

ただ日本は遠いから?日本に『マカレナ』の歌が入ってきたのは、だいぶん遅かったようで、日本人だけはマカレナダンスができなかった。

なので、パーティー前にデッキで『マカレナ』のダンスの練習をした!  農協ツアーのおじいさんおばあさんも一生懸命、楽しくマカレナダンス、練習をやってくれた!!!

ちなみに、『マカレナ』の後はケチャップ娘とかいう、スペイン人の四姉妹のグループによる、『ケチャップソング(アセレヘ)』が流行った。だけどもマカレナほど盛り上がらなかった。マカレナはなんだか特別だった...

ふと、なにげに気になるのはピコ太郎の『PPAP』。『PPAP』はどうだったんだろうか...ナイル川クルーズ船パーティーでかかったかな、盛り上がったかな...


船長との日本語のワンツーマンレッスンはロビーのソファーや、デッキの椅子、または閉まっている時間帯のレストラン(コックやウェイターたちは必ずそこにいました)で行った。

彼は本当に真剣に日本語に向き合い、次週また私がカイロから飛んで来るまでに、ちゃんと出した課題こなしており、本気だった。

実際、カクテルパーティーで日本語の挨拶をし、日本人グループから拍手喝采を浴びた時は、心底嬉しそうだった。


私がカイロに戻ると、なんとその船長は遠距離電話をくれた。船の各停泊所の公衆電話からだったので、なかなか大変だったはずだ。

寒い夜空に船を降りて、公衆電話の長い行列に並んでダイヤルを回し、雑音の多い電話をかける..

用事もないのに、何度も遠距離電話(しかも前述通り、苦労する電話)をくれる...

おや?と思った。「こっちに気があるのかな」とちょっとドキドキ(笑)。

というのは、"船長'というと老人をイメージするが、実のところ、なかなかステキな男性だった。40代だったので、当時の私(20代)とはずいぶん年が離れていたが、とても若く見える人だった。

見た目も爽やかで色白でサラサラの金髪で緑色の目だった。

別に白人の風貌がいい、というわけではないが、クドい濃厚な顔(しかも天然パンチパーマだとかみんな眉毛がくっついているとか)ばかりの国にいると、白人だけでなく東洋人の顔もとても爽やかでキラキラして見えてしまうものだった..

この船長がもし一重まぶたののべっとした顔でも、とても素敵に見えただろう。日本人ツアーグループの男性客のほとんどは(特に農協ツアーの)、いつだっておじいちゃんたちしかいなかったしなぁ..


船長の風貌がエジプト人とは掛け離れていたので、カイロに戻ってもどこでもいつも外国人に間違えられていた。

同じエジプト人からも必ず英語で話しかけられ、法律でエジプト人は入れないカジノにも、彼はあっさり入れてもらえていた。

そして、船長が話す英語もアメリカの西海岸のアクセントだった。実際、アメリカ国籍も持っているが、カイロで生まれてすぐにロサンジェルスに移ったという。


さて、そうこうするうちに、この年のラマダーンに入った。ラマダーン中は普通は家族そろってイフタール(日没後、断食明けの最初の食事)を食べる。

が、船長は、アメリカ人の女性と離婚して、娘とも別れてたったひとりで、懐かしい祖国に戻ってきたバツイチの人だった。

なので、休暇の度に定期的にカイロにも戻っていたけれど、カイロのアパートではひとり暮らしだった。

よって、長期休暇のラマダーン期間中、彼は毎日お兄さんやいとこ、親戚、友達の家にイフタールの招待を受けていた。

孤独な身内や友人を食事に呼ぶのは、ラマダーン中じゃなくてもエジプトではとても当たり前のことだった。必ず強引でも声をかけ招待をする。

船長は私にも毎回声をかけ、自分と一緒にいろいろな夫婦/家族の家に行こうと誘ってくれた。

多分、ひとりで各家庭の団欒にお邪魔するよりも、体裁のためにも誰かパートナーを連れて行きたかった、また私には(無料で)日本語を教えてもらったという恩もあった、

さらにこの年は私も断食にチャレンジしていた、でもラマダーン期間中をひとりで過ごしていた。船長はそれを気にかけてくれた、そしてやはり多少、私に気があったんじゃないかと思う。

そうでなければ、あれこれ聞かれるのを分かっているのに、身内や親しい友人の家に私を同伴させなかったんじゃないかな、男女の友情という概念もない国だし。


なんにせよ、イスラム教はもともと旅人や客人に親切にしろ、自宅に招きなさいというような教えもある。

よって、実際船長と一緒に現れると、どこの家でも非常に感じがよく、大いにもてなしてくれた。

(もちろん、必ずそれなりの手土産は持っていき、あまりご馳走にがつかないよう、日本人らしい最低限の遠慮はしていました。)


船長のお兄さんのファミリーは、高級住宅街にある、高級マンションだった。

ものすごく感じのよいご夫婦で、特にご主人(船長の兄)なんぞ、日本の歴史に非常に精通しており、戦国時代のことをふってきたのには驚愕した。第一、エジプト人に”おしん”以外のことを話されたのは、初めてだった。

また忘れられないのが、マルチーズの犬がいたことだ。

当時のエジプト人家庭で愛玩犬どころか、犬自体飼っているなんて、他には聞いたことがなかった。

なぜなら犬=不浄、かつ「カルブ(=犬)」は相手を罵るときにも使う単語だったぐらいだったので、イスラム教において犬は好ましくない生き物だったからだ。

だから、居間のど真ん中で踏ん反り返っているこのマルチーズを見て、

「船長一族はずいぶん先進的なんだなあ」と心底驚いた!!

(話はそれるが、マルタ島にも私はしばらく滞在したことがあるが、マルタの犬(マルチーズ)はほとんど見かけなかった。マルタは完全に"猫の国"だった!)


船長のお兄さん  夫婦には二人のハイティーンの年頃の娘たちがいた。どちらの娘も超がつく美少女で、やはり色が白く欧米人にしか見えない容姿だった。

そして二人ともスリムだった。メイクも薄いしゴールドをじゃらじゃら身につけてない。本当の上流階級の女子はシンプルでシック、そして太っていないものだな、と改めて感心した。

印象的なのは、この二人の娘さんが

「イギリスの大学に行きたいけど、そしたら縁談が不利になるから悩んでいる」

とこぼしたことだった。本気で悩んでいるようだった。

日本でもまだ帰国子女イコール生意気だとか気が強い、すれている、のようなイメージを持たれていた時代だったので、彼女たちの悩みが分からないでもなかった。



船長お兄さん家庭でもイフタールのご馳走は豪華絢爛だった。

食器はすべてフランス製の陶器で、テーブルには新聞紙ではなくちゃんとした美しい布のテーブルカバーがかけられているのにも驚いた。(一般家庭は、食卓のテーブルカバーは新聞紙を代用していた)

また誰も手掴みではなく、ちゃんとフォークとナイフで食べているのにもたまげた。むしろ外国人の私がいつもの癖で、うっかりお肉を手で食べそうになったぐらいだ! 

(エジプトで肉も魚も手で食べるのが当たり前になり帰国後、うっかり焼き魚を素手で食べたら、母親に悲鳴を上げられました)


食後、紅茶と甘いお菓子(エジプトのお菓子はマックスに激甘)をいただきながら、船長のお兄さん妻は昔の写真アルバムをいろいろ私に見せてくれた。

夫婦は世界中を家族旅行していた。まだ社会主義だった時代(80年代)のブルガリアやソ連にも旅行しており、とても驚いた。

というのも90年代当時ですら、エジプト人はアメリカ/ヨーロッパの観光ビザがなかなか下りないのを私も知っていたからだ。

日本人の奥さんがいても、エジプト人には日本のビザが下りない、日本人の妻の親が保証人になってもビザが下りない、という話もたくさんたくさん聞いていた。

それなのに、この夫婦(家族)は相当な数の国々に渡航している。よほど特権階級なんだろうな、と察しがついた。

(エジプト人にとって日本、イギリス、アメリカのビザ取得が一番難しく、逆にいえばこれら三カ国のうちのどれかのビザが取れたらその後、他の国々のビザも発給してもらいやすくなる、と聞きました。

日本大使館勤めの友人に「なんで日本もそんなにエジプト人にビザを出さないの?」と聞くと、不法滞在のエジプト人が増えており、外務省から「やすやすとエジプト人にビザを与えるな」と命令されていたからだそうな...)



何冊目かのアルバムをめくった時、ある写真に目がとまった。

おや?

「なぜユーセフ・シャヒーンの写真が貼られているのですか?」


ユーセフ・シャヒーンとは、日本でも映画通なら皆さんご存知の名前だと思う。

40本ぐらいの映画(ドキュメンタリー含む)を撮り、海外でも何度も大きな賞を受賞している、エジプトを代表する映画監督で、日本でいうところの黒澤明だ。

ユーセフ・シャヒーンの「アレキサンドリアwhy?(イルイスカンデリーヤ・レー?)」は、私もエジプト留学の前に、日本でレンタルビデオ屋で借りて見ていた。フランス映画のようなテイストで、なかなか難解だったけど…

ユーセフ・シャヒーンはいわずとしれた巨匠なので、この監督の名前を知らないエジプト人は皆無だろう。

エジプトの様々なメディアでもよく取り上げられており、だから私ですらも、シャヒーン監督の顔をよく知っていた。

「なぜあなたたちファミリーの写真アルバムに、こんな大物映画監督の写真が?なぜあなた(船長)と監督が肩を組んでいる写真が?」。

「伯父なんだよ」。

!!!!

「えっ?」

「僕はユーセフ・シャヒーンの甥っ子なんだ」。

(つづく)

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↑ユーセフ・シャヒーン 現在Netflixジャパンで、シャヒーン監督の「アレキサンドリアwhy?」(1979年)が配信中のようです。


続き↓


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↑どのクルーズ船にもたいてい置いてあった『ナイル殺人事件』の小説 笑

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↑ミア・ファローがイカれた女役を怪演した、1978年版の『ナイル殺人事件』の映画が最高。観光地も一流ホテルもいろいろ登場。最も見ごたえがあって映像も楽しめると思います。

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↑ナイル川クルーズ船 (三枚目は可愛かったお客さんの女の子。私の着ているガラベーヤはシリアで買ったもの)

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↑カイロのディナークルーズ船の入口



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