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20070129 遺構探訪(8)

 戦争遺跡調査の二日目$${^{*1}}$$。戦争遺跡はもう望めないので、別の遺跡を探訪することにした。「清正の枕石」を見に行った。これは名古屋城$${^{*2}}$$築城の際、徳川家康$${^{*3}}$$から助役を命ぜられた加藤清正$${^{*4}}$$が天守閣の石垣の石を篠島から切り出して海路を使って運んだ。ある日、清正は恰好の巨石を見つけ、それを運び出そうとしたが、万策尽きてその場所に放置してしまった$${^{*5}}$$と伝えられている。

 その放置された石には、それを浮かして移動させるための枕石が現在もかわれた$${^{*6}}$$ままになっているらしい。篠島の観光案内$${^{*7}}$$には必ず載っている。怪異・妖怪伝承データベース$${^{*8}}$$にもこの「清正の枕石$${^{*9}}$$」が掲載されている。

 五年程前にも見に行った$${^{*10}}$$ことがある。ところがどれがその「清正の枕石」なのかさっぱり分からなかった$${^{*11}}$$。この時はあまり時間がなかったので、適当に写真を撮って帰ってきた。今回はそれがどれなのかをはっきりさせたかった。これは戦争遺跡と違って名所にもなっている物なので、じっくり見れば判る筈だ。

 ところがそれらしき石$${^{*12}}$$が沢山あってやはりよく判らない。切り出し途中の石$${^{*13}}$$もあったが、伝説にある様な巨石でもなんでもない。少し離れた波打ち際にかなり大きな岩がありそこには切り出しのためのノミの穴が開けられている$${^{*14}}$$。これが「清正の枕石」と呼ばれる石なのか。だが、枕石そのものがどこにあるのか見当たらない。石の底面に「枕石」があるはずだが、それがどこなのかわからない。本当にあるのかどうか疑わしくなってきた。「知多半島 篠島」という篠島観光協会が作成した冊子によると「長サ五・二メートル。幅二メートル。厚ミ一・八メートル」とあるので恐らく波打ち際の大きな石のことだと思われる。あやふやなのがまさに「怪異」である。

 清正の次に行ったのは、島の中央付近に位置する小学校跡地$${^{*15}}$$である。たまたまその小学校に自動車を駐車したら廃校になっている様子なので構内を少しうろついた$${^{*16}}$$。正確には小学校は去年に清正の枕石近くにある中学校の敷地に移転しただけらしいので廃校ではない。

 教材用のポスト$${^{*17}}$$が校庭の片隅にあった。投函口が丁寧に封印されていた$${^{*18}}$$。島の人が本物の郵便ポストと間違えるといけないので移転後に塗り込められたのか、最初は教材用で使っていたがいたずらが酷くなって教材としての利用を小学校がまだここにあった時に廃止したための措置なのか。封印まで赤く塗る必要はなかろう。

*1 20070128 遺構探訪(7)
*2 20011210 名古屋城と金閣寺との焼失
*3 徳川家康 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
*4 加藤神社公式ホームページ 加藤清正公を熊本城本丸にお祀りしています
*5 加藤清正の枕石
*6 かう【支う】の意味 国語辞典 - goo辞書
*7 篠島観光ガイド
*8 20021021 怪異・妖怪伝承データベース
*9 清正の枕石 | キヨマサノマクライシ | 怪異・妖怪伝承データベース
*10 20020429 篠島
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*15 愛知県知多郡南知多町大字篠島の地図
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