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20090601 生物多様性

 地球環境問題の一つに「生物多様性$${^{*1}}$$の保全」というのがある。これは、地球上には様々な生物が存在し、それらが相互に関係し合って生存しているので、その均衡が大きく崩れると何かと人類にとって不都合になるだろうからそれらを守っていこう、と言う概念$${^{*2}}$$である。人間中心主義$${^{*3}}$$と言うかご都合主義と言うか。

 様々な地球上の生物が絶滅したり、新しい生物種が出現したりするのが地球上の一生物である人類の活動の所為というのであれば、それこそその営みは生物多様性の一部であるので、保全も糞もない。アフリカのライオンに「そんなにトムソンガゼル$${^{*4}}$$を獲って食べると絶滅するから止めなさい」と注意しないだろう。それと同じである。否、トムソンガゼルが絶滅するのは人類が乱獲したり環境破壊をするからだ、ライオンが獲って食べる分には絶滅の心配はない、何故なら現に今まで絶滅していないではないか、と言うかもしれない。そんなのは誰も判らない。人類がいなかったら生物多様性がどうなっていたのも判らないし、有史以前に絶滅した種はいくらでもいるだろう。その速度が過去の何千倍とも何万倍とも$${^{*5}}$$言うが、それも人類がつい最近、勝手に測った検証の不可能な尺度である。

 以前に「『蚊はどうして存在するのでしょう』と質問する真の間抜け$${^{*6}}$$」について書いたことがある。「自然は人間のために在る」という思想が根底にあるのだ。生物多様性も同じだろう。だが日本人にとってこの考え方は受け入れがたい筈だ。自然は自分も含めて渾然一体となっているのであり、神が魚や果物を与えてくれるから食べることができるのではなく、自然の中に魚が泳いでいるからそれを獲り、畑に種をまくと自然に野菜ができるから穫って食べているのである。なくなれば別の物を探して食べる。穫れなくなったのは仕方がない。自分たちが自然をどうにかしていると言うつもりは毛頭ない。

 人類の活動によって環境問題が発生してそれが自分たちの生活を脅かすのであれば、対策しなければならない。自分たちが一番重要なので当たり前だ。環境問題は人類の活動が起因なので、活動を抑えることが一番確実で手っ取り早い解決であることは自明の理である。活動を縮小すれば人類以外の生物の生息環境の破壊は抑えられる。生物多様性の保全と言う概念など全く必要ない。つまり「生物多様性の保全」は現在の生活水準を維持するための言い訳に過ぎない。

 そういった事情をよく判らずに、二酸化炭素による温暖化$${^{*7}}$$や資源枯渇と同様な地球環境問題の一つとしてにわかに取り上げて、鬼の首を獲ったかのようにその重要性を喧伝している人々が日本にもいる。自然や草木や生き物を慈しむのは当たり前なのに、温暖化や資源枯渇などの地球環境問題と同列にして子供などに教えている。本当に愚かしい。

 まず、子供に教えるのは自然の大切さ素晴らしさである。そして自分達もその一員として生きていることである。次に自分たちの生活を維持するのにどれだけの資源を使ったり、自然破壊をしているかを理解し、大切な自然を守るためには自分たちの生活をどのようにしていかなければならないかを知るのである。

 しかしこんな教育は大昔からやられている筈だ。どうも日本人は踊らされているのではないか。

*1 環境省 生物多様性センター
*2 EICネット[環境用語集:「生物多様性」]
*3 20070701 環境問題の本質
*4 トムソンガゼル/オルネット子ども動物園
*5 生物の多様性:その由来と重要性、および保全について
*6 20060611 蚊の存在理由
*7 20050605 地球温暖化

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