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映画評「となりのトトロ」2/「火垂るの墓」と対になる物語

あんまり「嫌いなもの」は書かないようにしている(はず)のですが・・・。

私は、「大学教授の映画評」が嫌いである。

映画そっちのけで、自分の専門領域のことに話をすり替えるからであります。

「アベンジャーズ」を観ては、これは米軍のメタファーであり排除の論理がなんのかんの
「ジョーカー」を観ては、現代のアメリカ及び世界が抱える分断=「壁」が云々
「愛の不時着」を観ては、ジェンダー論がどうのこうの

ひどいときには、作品が面白かったのかどうか、そこにも言及がされなかったりする。

中には見事な評論もあるので、一概には言えないことですし、これは偏見というか、自分の知らない角度からしたり顔されることに対して、嫉妬もしくは劣等感を覚えているだけかもしれないし、というかほぼ完全にそうなのですが、嫌いなものは嫌いである。

映画を観らんかい、映画を。

星の数ほど作品がある中で、「愛の不時着」と「半沢直樹」だけ取り出して、「嗚呼、日本は〜」とか言わずに、どっちも楽しまんかい。

さて、自戒も込めつつ、昨日の続きです。
**
昨日までのあらすじ)
自分が気付いたからといって、人類初の発見かのように、「となりのトトロ」を語った。**

「となりのトトロ」は、「火垂るの墓」と2本立て同時上映をされていました。

一見アンバランスに見えますが、「火垂る」に負けず劣らず、「トトロ」も生死を扱った物語であり、「対」になっているのではないか、そう感じています。

「トトロ」が、ユートピア的な環境下なのに、死が身近にあるのに対し、
「火垂る」は、死が身近にある環境で、一瞬のユートピアが現れる。

「トトロ」は、空想的世界での現実。
「火垂る」は、現実世界での空想的救い。

「となりのトトロ」のことを、空想的世界と表現しているのには理由があります。

①劇中、時代設定への説明がない
例えば、直近の一大事件である戦争には全く触れられず、あの一帯だけ時代から孤立しているように感じられる。
どこかで、「戦争のときには〜」みたいな台詞(陳腐ですが)があってもおかしくないのですが、全く言及されない。
もしくは、「母の療養のため田舎に引っ越す」ことから物語は始まるが、どう「水が合わない」から引っ越すことになった等、それとなく説明ができるはずなのだけれど。

②追って調べても、そもそも、時代設定が曖昧
これは少々調べたのですが。
「となりのトトロ」は昭和30年代前半を舞台にしていると言われています。
ただ、これは公式には説明されておらず、そう「類推」される、という程度らしい。
病院のカレンダーや、学校の黒板の日付と曜日に合致する年代を、自分でも調べてみたのですが、どうにも合致していかない。
※これは詳しくは考察サイトがあるので、省略します。
あれだけリアリティをもった舞台を、「アニメ」という手法でイチから創り出す以上、基本的な時代設定を、怠ったとはどうしても思えない。

③結果、作品の舞台は、あまりにも純化された、理想の田舎となる。

「となりのトトロ」の公開は、1988年の4月。
宮崎駿は、わざわざ1988年に、昭和30年(1955年)代前半の日本のどこかにありそうで、実際どこにもない世界を創り、そこで「トトロ」を出現させた。

「となりのトトロ」を表面だけなぞるのであれば、これって別に昭和30年を舞台にする必要って、実はそんなにない。
現代の日本でさえ、「トトロ的な世界」を表現できる田舎は、山ほどあるし。

「火垂るの墓」のように、戦時下を舞台にした物語であれば、設定年代の必然性もあるのですが、「となりのトトロ」の作中では、説明は意図的に排除されている。

大人になって感じてしまっている、「となりのトトロ」へのホラー的感情は、こういうところに起因していると思います。

簡単に言えば、観客は、
1988年(以降)にわざわざ、いつどこなのかイマイチ不明な舞台で
ぶっちゃけ存在しない、「妖精」との出会いがありつつ
そこだけは現実味たっぷりに、身近にある「死」

を、見せつけられるのですから。

これが作家性というやつなのかもしれませんが、宮崎駿作品は、たいてい同じ形式です。
いつの時代、どこのお話なのかはいまいちわからないけれども、圧倒的に構築された世界観で、現実的な課題に立ち向かう話。
つまり、ファンタジーの中の現実。
これって何気にすごいことで、映像一発で、世界観を表現できているということになる。

高畑勲作品は、現実の中でのファンタジーを描いている。
「ぽんぽこ」も「かぐや姫」もそうだった。
「火垂るの墓」も、家出してからの「二人暮し」は特に、結構ファンタジックな余裕がある。オープニングから主人公が死んでおり、死人の回想形式なので、幸せそうであればあるほど悲しく、それが気にならないだけだ。

「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の二本立て。
1988年当時は、映画館は入れ替え制ではなく、その気になれば一日居座ることもできる。「トトロ」→「火垂る」の順番で観ようと、「火垂る」→「トトロ」にしようと、観客のスケジュール次第。
どっちの順番だろうと、「火垂るの墓」の攻撃力に圧倒されるので、「トトロ」は随分と平和的な受け止められ方をしたのだろう。
私も、「火垂るの墓」を観てしまえば、細かい不幸なんか気にならないほど、日常に幸せを感じる、アンテナ敏感モードに入ってしまうし。

でも、「トトロ」も、十分狂いまくってる話だと思います。
まだ若い母親は病で入院、メイちゃんは失踪、そんな中おばあちゃんはピンピンしてるってのも、なんか示唆に富んでいる。

さて、明日は・・・。

そんな「となりのトトロ」と実は同じテーマなんじゃない?という、最近の映画「未来のミライ」について語ります。

いやぁ、映画ってホントいいもんですね。


追伸

私がちゃんと大学の講義をサボらず勉強していれば、
「なんで架空の昭和30年代前半らしき日本の話にしたか、その必然性は」
とか、真正面から論じれるんでしょうけど、無理です。

そのへんは、大学教授の評論で勉強することにします。

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