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ことばの形をした彫刻|『起きられない朝のための短歌入門』を読む

はやぶささんの感想文で俄然読んでみたくなった『起きられない朝のための短歌入門』、とても面白かった!

入門と名がついてはいるけれど、用語や技法について直接的に説明されるというものではない。本の中ではふたりの歌人が「短歌」と、それを作るということについてひたすら話し込んでいる。もちろんその対話は読者の目を想定してはいるのだろうけれど、そうとは思えないほど自然に、例えば酒場のカウンターや喫茶店で話し込んでいるかのごとく、同志と「好きなもの、せずにはいられない営み」について語っているとき特有の、リラックスして幸福な空気が立ち込めている。
それを傍らで聞いているだけなのになぜかすうっと短歌についての知識、それを楽しむ方法が感覚的に身について、結果として入門書になっている、という感覚が不思議。

短歌というものについて実は、今まで距離を測りかねていた。
SNSにはときどき誰かが作った短歌が流れてきて、それが目に入ると確かに、なんだか「エモい」感じがする。昨年初めて行った文フリでは、エッセイや小説などと並んで歌集がひとつのジャンルとなっていて、それだけ魅力を感じている人が多いのだなあ、と思った。
でもたとえば評判のいい歌集を探してみるとか、そういう行動に出るにしては、短歌は私にとってなんだか「ふわふわ」したものに思えていた。なんとなく素敵に見えるけれど、追いかけたくなるような魅力を感じるかというと、そこまでではないもの。

この本を読んでいくうちに、私がそう思っていた理由がわかった。私はおそらく、短歌を自分が多く読み書きしている長い文章と同じやり方で楽しもうとしていたのだと思う。同じやり方というのはつまり、文意を正しく読み取った結果想起される情景や人の感情を、その文章から与えられたものとみなす、というやり方のこと。

そして短歌というものに相対したとき、それはなかなか難しい場合もあった。文字数が少ないことで文脈が無限に生まれてしまうのに、現代短歌は脈絡のない単語が並べられていることも多くて、そういうものにぶつかると楽しむ前に「この歌は一体なにを言いたいんだ……?」と首をひねってしまう。文脈や文意を正しく読み取れないストレスが、短歌というものの魅力に勝ってしまっていたのだと思う。

そういうマインドで読み始めたから、我妻さんがある歌を評しておっしゃった「誤読の可能性があることで得られる楽しさ」がある、という発言には本当におどろいた。普段私はなるべく正しく伝わるように意識しながら文章を書いているし、人の文章を読むときも、誤読しないことが読者である私の義務だ、くらいに考えていたから。

そうか、誤読してもよいのか。誤読したりしなかったり、そのあいまいさが作品の魅力を高める、という世界があるのか。

おどろきながらなおも読み進めていくと、ある歌や歌人への誉め言葉として、パワーワードがどんどん出てくる。『センスのいい幻聴』とか、『生首』とか、『うわごと』とか、『さまざまな長さの異様にかっこいい文字列』とか。どれも、その歌が何を表しているのか、作者がその歌で何を伝えたかったのか、ということには着目していない。ただ、ことばとことばが並ぶ様子の美しさや面白さ、おどろきを愛でている。

そのうち、頁のなかで短歌が出てくるたびに、ことばに触れているというよりはなんだか彫刻を鑑賞しているみたいな気分になってきた。読むというより眺めるという表現がぴったりくる、ただ一行のうつくしかったり奇妙だったりする言葉。

『2021年宇宙の旅』の冒頭で出てくるモノリスってあるじゃないですか。文明も何もまだうまれていない地球のなかで、空中にぽっかり浮かんでいる謎の石板。私が短歌に対して今持っているイメージって、あんな感じだ。

あの人は右と左を糊代で繋げたようで声が好きだわ

我妻 俊樹

とか、

心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ

平岡 直子

とか、「わかるようでわからない」短歌が目に入ると、その瞬間だだっぴろくて見晴らしのいい空間が目に浮かぶ。茫漠とした荒野とか、晴天の下の原っぱとか、凪いだ海原とか。

わかるようでわからない短歌は、その広い広い空間の中で、フォントサイズ23,000くらいのMSゴシック体(太字)になって屹立している。奥行きもちゃんとあって、石のような金属のような、不思議な素材でできていて、人間が作ったものという手触りではない、もっと異質で計り知れない印象がある。私はその足元をぐるぐる回って、前から後ろから横から、それを鑑賞しては、ほうと息をつく。

短歌のデフォルトの形が縦書きだというのも、そう考えるとぴったりだなと思う。横書きだったら荒野に屹立するというよりは寝そべる感じになって唐突さが失われるし、周りをぐるぐる回るにも苦労するもの。

そういう妄想をしてしまっているから、感情や情景がきちんと思い浮かぶような端正な歌よりも、意味が読み取れそうなのに読み取ろうとすると歌と自分の間に霧がたちこめてしまうような、不思議な歌のほうに断然惹かれる。

そういえば前から、ある種の小説に時々出てくる、わけのわからない文字列のことがすきだった。いしいしんじの『白の鳥と黒の鳥』で出てくる鳥の言葉とか、川上弘美の『惜夜記』でキウイが出してくるなぞなぞとか。あれを抽出して煮詰めて台座の上に乗せたような短歌がもっと読みたい。次に本屋に立ち寄ったら、あのだだっ広い、さみしい、自由な空間に連れ去ってくれそうな歌集を、自分の手で探してみようと思う。


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