見出し画像

「会社は誰のものか?Ver2.0」

2000年代前半に「会社は誰のものか?」という議論があったのを覚えていて、大学生ということで時間があったので、何冊か本を読んでいた。

当時はライブドアによるニッポン放送株式取得や村上ファンドなどの存在から、出てきた時代背景があって、資本力、つまりはお金の力で会社を買う、儲けるといったある種の忌避感や政治的駆け引きなどの要素があったと思う。バブル崩壊でお金に対するトラウマもあり、少々共感を得ていたのではないかと推察される。

「いや、株主のものでしょ?」「従業員のものであるんじゃ?」「社会のものでしょ?」。まあ、こんな調子で議論が起こっていたものである。

私は当時20歳ほどの小僧であり、「会社は誰のものか?」というのは実感を伴って分からなかった、否分かるはずはない。これは仕方がない。

約20年後。2024年、今いわゆるアクティビスト(モノ言う株主)の活発化や「同意なき買収提案」という言葉も出てきた。

改めて、「会社とは誰のものか?」という問いが社会の片隅に滲み出てきているのではないかと考える。

今は、当時ほどの忌避感はなく、時代は変わってきたなと感慨深い。むしろ、好意的に見られたりすることもある。パラダイムシフトである。

今、「会社とは誰のものか?」を考えてみるいい機会なのではないかと思っている。

そこで、私の考える「会社とは誰のものか?」を書いてみようと思う。

私は今40歳手前。カリスマ創業経営者のもとで働いた社会人経験を経て、今は企業の取締役であり、株主でもある。

当事者として、考えなければいけない立場にもいる。今こそ、社会的にはもちろん、「私の履歴書」としても考えるのに最適な時であろう。

まず、一義的には「会社とは株主のもの」であると理解している。後々、書いていくが、あくまで、一義的に。土台は株主の意思によるわけで、取締役を選任し、経営を託す。これが会社法から見ても、原則論であるだろうし、ある種の秩序を形成している。

一見すると、ドライな印象を受けるかもしれない。これは分からないわけではない。ただ私は「一義的」と書いた。

経営の現場に行くと、資本では割り切れない要素は山ほどあるわけで、お金の力ではどうにできないこともある。感情も絡む。

そもそも、会社は利潤を追求する目的がある。

2000年代前半は非常に誤解が多かったのでは。短期的な「金儲け」を利潤の追求のイメージとしたように思われる。「強欲こそ善」。これが来るリーマンショック、世界金融危機の時に言われていたのを覚えている。

今は、進化という言葉がいいのか、中長期的目線での利潤追求が強くなってきているように思える。

時間軸を変えると、短期思考とは全く違う「会社は誰のもの?」像が広がる。

ESGという言葉は非常に面白い。
「E=環境、S=社会、G=(企業)統治」。この考えのコンセプトは、EとSとGがなければ、会社が存続することも出来ず、むしろ利潤も追求できないという考え方である。
資本市場において、ESG投資がなぜここまで脚光を浴びるかというと、それらを担保できていないと評判や信用の致命的毀損などにより、会社が存続できない、利益が生まれない、リスクが高いということになるというのがロジックだろう。(もっとも、ESG投資に関しては測定方法の適合性、政治的動きなど色々と議論がある。)

私はこれは正しいと考えているし、利益の源泉は公共財である広義の意味での「環境」の下、会社を真っ当に経営(「ガバナンス」)し、アウトプットとして社会に貢献することによって、初めて利益が生まれると信じている。

「綺麗事を並べて、何言ってんだ!」という意見もあるだろうし、心情の理解もできるし、目の前の現実的に向き合っていかなければならないのは当然である。しかし、だからと言って、考えなくていいという理由には全くならない。決してトレードオフではない。パーパス経営というのも同様である。

従業員にも言及しなくてはならない。これは当たり前の話だが、利益の源泉は言うまでもなく、従業員である。従業員こそがフロントに立っていく。

ここでも利潤追求における短期と中長期視点では違う。短期であれば、極限まで使い倒して、人件費を下げ、利益を出していくことが善である。
一方で、中長期視点では景色は変わる。従業員に人的投資をし、健康で長く働いてもらい、エンゲージメントを高める方がいい訳である。

言っておくが、これは日本的終身雇用とは同義ではない。こんなに慢性的な人手不足な中で、「どうせ、辞めることはないだろう」というタカを括るほど甘くはないし、同じなわけはない。時代は変化しているのだ。
「投資余力がない」。そんな企業もあるだろう。分かる、もちろん分かる。ここはお金ではない要素もあるということに着目するべきだと思う。人間は常に経済合理的かというとそうではない。心がある。要は最低限、お金では換算できない「大事にしているぞ」「ここで夢を叶えよう」という態度こそ、重要なのである。まず綺麗事ではない。むしろ戦略的態度だ。

「会社は誰のもの?」。私の答えは「株主」、「社会」、「従業員」すべてのものである。「会社は誰のものか?」Ver2.0。

従業員であれば、個人レベルで会社を使って自己実現なりができる。そう言う意味でも、広義的には企業は従業員のものでもある。

決して、三者は利益相反し、トレードオフでもない。むしろ、利害は一致している。ただし、中長期的視点に立った時のみ有効である。短期的視点に立った時はその限りではない。トレードオフになってしまうのだ。

最後に。ずっとついて回るのが、理想と現実。しかし、理想と現実はトレードオフではない。理想なくして、現実もない。中長期的ビジョンなき経営者は淘汰されるだろう。もちろん、私もその限りではない。

ある意味、私は「失われた30年」と共に生きてきた世代である。生き残りをかけた「リストラ」(変な用語である)、短期的貪欲さが招いた金融危機、失業、潰される人などなど。少なくとも私はそういった姿は見たくない。

個人や一企業ができることはたかだかが知れている。それでも私を含め、そう思う人が増えてくることが希望になるのではないかと信じている。




この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?