あたまのなか2 気仙沼は、愛したいひとがいるから好きな街です。
▪️私は、地球の裏側で悲しんでいる子どもに、いま、愛を持って接することができない。
街で募金活動をしている方がいます。
コンビニに募金箱が設置されています。
国連大学前でデモを行う人々がいます。
色んな理由でそこに関わる人がいます。
見たら、必ずお金を入れようと思う人
足を止め、書類を見てお金を入れる人
お釣りを入れる人
正解はありません。どの行動も、その人にとっては正解ですし、尊い行動だと素直にいうことができるし、結果的に何かの助けになるのであれば正解になり得ると思います。
ただ、21歳の今の私は、おそらく何もできないと思います。
例えを出すのであれば、今地球の裏側で苦しんでいる子供がいるとする。数秒に一度人が亡くなっているとする。そんな説明をされたとする。
きっと、今の私は何もできない。そして、何もしない。
そう、思うんです。
このnoteは…
ふつーの女子大生、ゆずが日常でちょっと引っかかったことを書くというブログです。
女子大生の頭の中って、こんなことかんがえてるんやで。
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先日、渋谷スクランブルスクエアで開催されていた「震災と未来展」のサテライト展示へと足を運びました。
東日本大震災の時の記録、写真と手紙で綴られる個人への言葉、震災の起こった瞬間から今までを記録し続けていた定点カメラの映像。それに併せた三人の人の「今」の語り合い。
口頭では伝えにくいので、実際に足を運んでいただければと思います。私はお台場の方の展示が行けていないので今月中に時間を作ろうとおもっている。
ドラムセットがアルコールという、元吹奏楽部の私にはツボな部分もありました。
さて、本展示の最後に、「あの時」の自分のしていたこと、そしてこの展示を踏まえて何を感じたのか、を記載するコーナーがありました。
少し迷いましたが、私はそれを書くことにしました。おそらく、半年前の私であれば何も書かずに出て行ってしまったでしょう。いや、そもそもこの展示に足を運んでいたかどうかが微妙、というか、足を運んでいなかったと思います。
・
情が厚い、薄い、という言葉がありますが、私は自分をその二つに当て嵌めることはできません。
私と関わったひとに、優しくしたい。そしてそうでないひとには全く興味を沸くことができない。
遠浅の海のような、それが私です。ものすごく顕著なのです。
私は昨年、日本一周を行いました。
「ゲストハウスのひとを伝える日本一周」としてクラウドファンディングでお金を集め、毎日ブログをアップし、多くの方に関わっていただき達成できたと思います。
↑最終的にブログは108本書きました。
この日本一周を実際に行う前、コロナ禍のゲストハウスをインスタグラム配信で「オンライン宿泊」として発信しようという企画、「おうちで日本一周」していた時に、私はご縁をいただき長崎のゲストハウスと一緒に配信を行いました。昨年の8月でした。
その日はいくつかのゲストハウスのオーナーさんが集まり、長崎のレストランから中継をしてくれました。
何事もなく、楽しく「オンライン宿泊」できたと思っていました。
しかしその後、オーナーの野田さんから
「ゆずちゃんは、今日がなんの日だったのかを知らなかった。インタビュアーとして企画を行うのであればもう少し、配慮をして欲しいと思った」
というご指摘を頂きました。
その日は、8月9日でした。
ひたすら謝っている時も、自己嫌悪に苛まれていました。自分は視野が狭い、とこの世界から言い放たれたような気がしていて。
関わった人には優しくしたい、そうでない人には難しい、胸をはって言っているように聞こえるかもしれませんが、私はそんな自分がコンプレックスでした。
ほんとは、自分と関わっていない人にだって、優しくなれる心を持ちたい。現に、そうでないことから人を傷つけてしまったから。
▪️気仙沼に、行った。
日本一周中、宮城県気仙沼のゲストハウスに足を運ぶことがありました。確か、LittleJapanという東京のゲストハウスを運営されている柚木さんからのご紹介だったと思います。
気仙沼のゲストハウス、「架け橋」
それが私の日本一周の経路に入ってきました。
私にとって「旅のとちゅう」に足を運ぶ気仙沼は、人生で2回目に足を運ぶ「被災地」でした。
一度めは大学二年生の春、私の所属するボランティアサークルの活動の一環で、石巻に「東北派遣」としての訪問を行いました。
石巻を盛り上げる活動をしている団体の方のお話を伺い、復興のシンボル的な公園の手伝いをし、語り部さんのお話を聞きました。
その時はすごく震災とは、ということを考え、自分の無力さを嘆きました。
私はただ、足を運んで話を聞くことしかできない。ただの「お客様」でしかない。
そうして色々考えて、でも暫くしたら私は日常の生活に飲み込まれ、戻って行きました。おそらく、忘れて行ってしまったんだと思います。
だから次の訪問ゲストハウスは気仙沼にある、となった時、少し肩の力を入れたことを覚えています。
仙台に住む友人の元を訪ね、一緒に震災の資料館へといきました。きっと、付け焼き刃だとしてもこの現実を知ってから足を運ばないと、と感じたのだと思います。
その時、「震災のときに何をしていたのか」を記載する短冊があり、一緒に書くことになりました。
書いて、私はこれを書いてもいいのだろうか、と思いました。何も知らない、お客様状態の私が簡単においそれと書いていいものなのだろうか。隣のあの子はこんなに鮮明にあの時を覚えているというのに、私はなんなのだろうか。
でもそんな事を聞くことすら失礼なのかもしれないと思い、なんとも言えない気持ちで気仙沼に入って行きました。
三日間、時を過ごして。
簡単にまとめると
とても、この街を楽しみました。
詳しくあれをしたこれをしたはブログに載せたのですが、とにかく色んな事をしました。
この辺↑
海まで行って半島を散策したり、朝市でお魚を見たり、近所のおじいさんと晩酌してたら仲良くなって、翌日におうちに行かせてもらったり。
素敵な雑貨屋さんやお菓子屋さんを物色したり商店街でコーヒー飲んだり。
ゲストハウスに集まる学生たちととても仲良くなって話し込んで、翌朝には面白かった事をいそいそブログにまとめたりして。
初めて流れ星を見たのも、この気仙沼でした。
私は今まで本当に流れ星運がないのです。キャンプに行っても船上で40日過ごしても(世界青年の船)、隣の子が見ても私は見れない事ばかりでした。はあ…
ここは被災地なのだ、というよりも、この街は面白い、と思う瞬間の方が多かったと思います。それがいいのか不謹慎なのか、わかりませんが感情はそのように動いていました。
たまたま、私が訪問したときには真っ白なパズルをただひたすら完成させよう!という謎企画が行われていました。
「とりあえず協力して!」と言われ、訳もわからず白いパズルをはめては失敗し、はめては失敗し・・・を繰り返していました。
これ、見た目の100倍は難しいんですよ!やってみてください!
恐らく1時間半は白パズルと向き合ったとき、一つだけ、ぴったりはまるパズルがあったのです。
「あ・・あったよ!あいました!」
「よっしゃー!ゆずちゃん、はめたところに名前書いていいよ!」
真っ白なパズルのほんの1ピース。なんてことのない場所。そこに自分の名前が入っている。
恐らく、企画した側は私に感動してもらおうとか居場所感を与えようとか、もう微塵も思っていないと思うのです。
しかし、私はこの1ピースに、すごくすごくあったかい、よくわからない感情を覚えたのです。
人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。という、私の一番好きな「容疑者Xの献身」という小説の言葉がありますが、それを体現した旅の1ページでした。
▪️もう一度、気仙沼に行く。
旅を終えた日、今後自分が何をしたいのかを考えていました。
私は今年の9月からイギリスに留学します。それまでの半年、私は何をして過ごしたいのか。旅が終わるにつれて移動時間などで考えるようになりました。
そうして一つ、いってみようと思った場所。
それが気仙沼でした。
私は、この旅を通して「一番好きな県」「一番好きなゲストハウス」というものは一切決まりませんでした。
しかし、この時はここに行きたい、この悩みを抱えたらこのひとに会いたい、そういうひとや場所はたくさん出来ました。
例えるなら、友達です。
この中でいちばんの親友、は決められませんが、こういうときにこの人に会いたい、この時にはこの人を誘いたい、というものは決まると思うのです。
たったひとつ決めないといけない、「恋愛」とはまた違う位置づけなのです。
そして今、私がどこかで求めていたのは気仙沼だったのです。
高速バスに乗り込み、スタッフをする友人に仙台から送ってもらった私を待っていたのは
雀荘と化したゲストハウスでした。
・・・まあ、とにかくとてもふつーに楽しいとき、が流れていたのです。
こないだは行かなかった海
初めて行く場所
不思議なカフェのマスター。
安くて美味しい、と話題のケーキ屋さん
私は謎にドン引かれながらも誕生日ファンディングの宣伝をし
謎に作業服を着て
ひたすら
家を
DIYしてました。
当たり前の日常の中に、私が溶け込んだのです。きっと。
二度の訪問で、私のことをお客様として扱ってこないでくれた。それが本当に私の心に引っかかり、今まで自分の中でどこかにあった偏見を崩してくれたのです。
二度目の気仙沼から帰ってきて、初めに私がとった行動は、自動車免許学校への登録でした。
次に行く時は、もっと私を一般人にしてほしい。迷惑にならない程度のことができる力を得たい。私は夜行バスから戻った足で免許を依頼していました。
何かをするわけではなく、期待もされず、迷惑もかけず、ただただあの街の中で息をしてみたいと思っています。
そして、自動車学校での休み時間、ふとSNSで見かけた「震災と未来展」。私はそこに足を運ぶことにしました。
興味心でした。私と関わったあのひとたちと街は、どんな過去があるのか。元々の街のほうが好きだったという喫茶店のおじいさんは。新しい場を作りたいと言っていたひとたちは。
私と関わってくれた、私が愛したいと思う人たちは、何を経験してきたんだろう。
▪️ 私は、地球の裏側で悲しんでいる子どもに、いま、愛を持って接することはできないけど。
ふと思うと、私は何も昔から変わっていないのです。
大学2年生の頃、ボランティアサークルに所属していた私は、タイのクラビとインドネシアのジョグジャカルタという、「いや、どこだよ!」的な地区へと二週間のボランティアに行きました。
翌年には世界青年の船に参加しました。11ヶ国の青年が40日間一つの船に集う、グローバルリーダー育成プログラムです。
そして今年は、ひとを訪ねて日本一周したのです。
当時留学を考えていなかった私が世界船に参加した理由は、11ヶ国のひとのことを愛したかったからです。
いわゆる貧困地域と呼ばれる所でボランティアしていた時、たくさんのことを迷いました。私には無力すぎる。ボランティアしたところで世界は変わらない。どうして村の人は私たちに優しくしてくれるのだろうか。
未だにそこに答えは出せませんが、一つ確実な変化はクラビとジョグジャカルタという2つの街に生きる人を、私は愛することができた、ということです。
彼らのことを今でも鮮明に覚えていますし、好きな国は?と言われるとタイのクラビとインドネシアのジョグジャは絶対に挙げるようになっています。
きっと、村の人が私をボランティアのひと、としてではなく、対等のひと、として愛してくれたから。
愛する人がいる国は、好きです。
それは世界の同世代でも通用するのか。じゃあ日本中の見ず知らずの人は。どんどん枠を大きくしていって、今に至ります。
長くなってしまうので割愛しますが、世界船の仲間は、英語ができない私を対等に愛してくれたし、日本一周の時に出会った人たちは、私の興味の何倍もの愛を私にくれました。
世界の中で11ヶ国、愛したい国ができたし、日本に47ヶ所、愛したい場所ができました。
私は、関わったことのない人に対して愛を注ぐことができません。
クラウドファンディングで不特定多数の知らない人に助けてもらっておいて、矛盾がすぎるのかもしれないです。ごめんなさい。私はあまりにも未熟で弱いです。でもこうして人生の軸を交わらせようとしてくれる人たちを私は尊いと思うし、もし誰かに笑顔を与えることができていたのであれば、少しは自分を認めてやることができます。
私が未熟だからなのか、そもそも人間として私には不向きなのか、わかりませんが21歳まで変わらず生きています。
そんな愛のかたちを持つ私なら、
だったら、せめて。
愛を注ぎたい、つまり関わるひとを世界中に増やすことができれば、本気で悩めることも、想えるひとも増やすことができる。
そして、
一度でも愛したひとを、絶やすことなく愛していきたい
そう、考えることにしています。
できないことは、背伸びしない。できることは、限界ギリギリまでやれるような、そんな大人になりたいです。
・
今日、3月11日は、私は自動車学校にいました。
もう一度足を運ぶ時は、自分の足で立つことができるように。
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あの日、の記憶。
学校。駅。割れた窓ガラス。
あの街、の記憶。
ひと。星。ごはん。橋。海。
いちごの季節が終わるまでに食べに行きたい、パンナコッタ。
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