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『「世間」の現象学』から再考する、SNSの意味

マーケティングを社会科学的文脈から再考するnote、パート2。笑
(もう、やり始めたら止まらなくなってきた。笑)
前回は言語学の観点から考察していますが、今回は『「世間」の現象学』という本を借りて、現象学の観点から考察します。
よしっ!いくぞ〜!!

ざっくり「世間」とは?

いやぁ〜、今回の本もめちゃくちゃ面白かった。

面白かった最大のポイントは、「世間」が考察の対象になっていること。
そもそも「世間」って、わかっているようでよくわかっていない、あたりまえにある概念だけど、なかなか学問の対象として扱われてこなかった。
けれど一方でビジネスの文脈では、10年ほど前に本田哲也さんが「戦略PR」という本を出して、広告とは異なる、PRという概念が世に広まったように、「世間」なのか「世の中の空気」なのかを対象として扱う必要があることは、認識されつつある。

この本では、「世間」が学問の考察対象とされてこなかった理由を、フッサールの現象学の立場から、次のように説明していた。

つまり、「世間」が学問の対象として扱われてこなかった理由は、学問が主観と客観の二元論を前提に存在しているのに対して、「世間」は主観と客観の統合的世界として存在しているからだ、と。

つまり、学問的世界では、主観・客観、と物事には二方向の捉え方があるとしたことによって、「世間」は主観的世界に成り下がり、考察の対象とされなくなってしまったと説明している。(いや〜めちゃくちゃわかる。ある意味、学問的世界が日常生活と解離してしまっている理由はまさにここだし、でも学問と日常あるいはビジネスってつながっているよねって言える人って、この解離を理解しつつも、結局現実世界は統合的世界なんだから、やっぱり学問で学んだことって現実世界でも生きるよねって思える人なんだと思う。)

だから、「世間」を考察の対象とするためには、世界の認識を次のように考える必要がある。
つまり、そもそも世界は主観・客観の二項対立で存在しているのではない。なぜなら、私たちが見えていると感じている世界は、あくまで自己の認識枠組みから捉えた世界でしかないから。一般的に客観的と言われている事柄も、自己の認識枠組みから見て「客観的」なのであって、客観は複数の主観を集めた間主観的に過ぎないのであって、どこまでいっても客観的世界は存在しない。

だから結局、「世間」を考察の対象とするためには、主観・客観という二元論から離れ、いずれも自分の側にある世界として再認識する必要がある、と。

う〜ん、いろいろ省略して超ざっくりいうと笑、「世間」を考察の対象とするためには、鋼の錬金術師の「全と一」の考え方が必要なのかもしれない。笑

全と一

引用

もうちょっと丁寧にこれまでの議論を図式化すると、下記のようなイメージかなと理解した。

一般的には

現象学では

詳細はこんな感じ。ちょっと長いけど引用。

「世間」をフッサールの現象学の立場から考えてみれば、当然それは<生活世界>の探究という課題になる。フッサールによれば、主観/客観の分割という近代哲学に端を発する近代の学的世界は、「客観的真理」の探究が主題となり、学問はたんなる事実学となってしまったという。この学的世界では、「もの」と「こころ」を完全に分割する科学的・合理的世界観が普遍的な世界であり、私たちがそこで日常生活をいとなむ具体的な<生活世界>は「『単に主観的-相対的』という刻印を捺され、」「この『主観的-相対的なもの』は『克服』されなければならない」と考えられることになった。<生活世界>は「学に先だって、人類にとってつねにすでに存在していた」にもかかわらず、である。
(引用:「世間」の現象学 p29)

そして、著者の佐藤さんは、次のように続けている。

私なりに考えると、<生活世界>は一方で日常的な現実世界そのものでありながら、同時に、理論的認識、すなわち思想や理論そのものだと主張しているように思える。(中略)つまり現象学の「世界とは自分のことなのだ」ということを承認するとすれば、生活も思想もひとしく「自分」の側に属する問題であることは自明のことだからだ。
(引用:「世間」の現象学 p37,38)

上記の<生活世界>≒「世間」だが、それは日常の現実世界であり、かつ、思想や頭の中で考えていることそのものでもある、と。(そしてやっぱり、上記の「世界とは自分のことなのだ」が、まさに、鋼の錬金術師の「全と一」の考え方と近しいのではないか、と。笑)


そして、本書で取り上げられていた「世間」の特徴のうち、中でも面白かったのは、①共時間意識 と、②排他性 でした。

学校生活で育まれた共時間意識があるから、身分や所属が自己の語りの1つになっている

「世間」の特徴1つである、共時間意識。
ここでは、欧米の時間意識を引用しながら、日本の共時間意識の特徴を述べています。

まず、欧米では、キリスト教の「告解」という社会的手続きの中で、自己の行為を他者に語らなければならなかったという。そのため、キリスト教の普及とともに、個人は個人の時間意識の中で生きるようになり、同時に、自己を他者に語る行為を通して、個人としての人格形成が促されたとしている。

一方で私たち日本人は、他の人と共通の時間意識を持っていると感じているとしている。ビジネスシーンでも「今後ともよろしくお願いいたします」「先日はありがとうございました」という言葉が使われているのはそのためだ、と。

この議論、気付きを以下2点得られて、すごく面白いなと思った。

気付きの1つ目は、本書では語られていなかったが、日本人に共時間意識が育まれている大きな要因のひとつに、学校生活があると考えられる点。日本の学校は、学級制度、学校行事、部活動などに代表されるように、集団で共通の時間意識を育むような設計になっている。日本国内の学校であれば、4月に入学式をやって春か秋に運動会をやって、文化祭をやって、夏にはインターハイがあって、、、と概ね共通の時間意識があるように思う。それはこうした、学校生活の中で育まれているのではないか、と。

そして気づきの2つ目として、欧米ように自己を語るということを日常的に実践してこなかったから、かつ、他者との共時間意識があるからこそ、他者との絆や所属している集団あるいは身分を語り、自分がどういう「世間」に所属しているかを説明することが、自分自身について語るということにすり替わっていると考えられる点。まさにそれが、「○○学校の」「○○会社の」が自己紹介の枕詞になっている理由のような気がする。

このように考えると、昨今の働き改革の中で普及しつつある副業や、個人の力で仕事をしていくという働き方は、もしかしたら日本人の時間意識の観点からすると、あまり合っていないのかもしれない。
いや、もしかすると、副業や個人で仕事をやっているとしても、そのやっていること「それ自体」によって自己を語るのではなく、副業や個人での事業をやっている人と同じ「所属」になるということによって、自己語り、自己を認識をしているのかもしれない。

世間の排他性があるからこそ、個人活動やビジネスが生まれる

また別の世間の特徴として、排他性について触れられていた。
つまり、世間にはウチとソトがあって、世間のウチで起きていることは興味の対象、行動の源泉になりうるが、世間のソトで起きていることには無関心になってしまうということ。

たしかにこの点はそうだなと共感しつつも、個人的には、人間ならば仕方ないことのようにも感じた。
そもそも、興味というのは相対的なものだと思う。興味のないものがあるからこそ興味のあるものがあるわけだし、全てのことに興味を持とうとすると、脳がキャパオーバーになってしまいそう。
であれば、世間のソトをなくすのは、原理的に難しい。

でも一方で、この排他性がエスカレートすると、それはそれで問題になる。
自分には関係のないことに興味を持てないとすると、他の誰かが困ってるときに協力することができないし、自分が困っているときに誰も助けてくれなくなってしまう。そうなってしまっては、社会が成り立たないじゃないか、と。

このように考えると、人間の脳のキャパ的に、「世間」のウチとソトができてしまうのは仕方がないが、ソトの存在を容認し続けてしまうのも良くない。だからこそ、人々が世間の排他性に負けず、健全な人間社会を維持し続けるためには、世間のウチからソトに向けて、興味が広がるようなアプローチをする必要があるのではないかと感じた。

それは、個人のスタンスとしては、例えば、いろいろなコミュニティの人と積極的に関わることであり、あるいは、普段読まない新聞の紙面を読んでみることであり、あるいは、仕事の帰り道にいつもと違う道から帰ることなのかもしれない。

さらに、ビジネス的文脈で考えた時に、私はここに、SNSやインフルエンサーマーケティングの意義を見いだせたような気がした。


インフルエンサーマーケティングって、世間のウチからソトへの拡張促進活動では?

日々、インフルエンサーマーケティング業務に従事している私が、この「世間」の現象学を読んで思ったのは、インフルエンサーマーケティングって、生活者の世間を、世間のウチからソトに拡張させる営みなのでは?ということだった。

まず、インフルエンサーマーケティングって一方的な情報伝達ではなく、どちらかというとインフルエンサーとフォロワーからなるコミュニティにアプローチするマーケティングだと思う。

インフルエンサーコミュニティ

そう考えると、インフルエンサーマーケティングって、インフルエンサーと生活者のコミュニティ(=世間のウチ)に対してマーケティングしていく手法なのではないか、と思った。

なるほど、つまり、SNSやインフルエンサーを活用したマーケティングって、ある意味、生活者の世間をウチから拡大させていく、「世間」的アプローチのマーケティング手法なのか、と。


だからこそ、インフルエンサーマーケティングってむちゃくちゃ難しいと思う。

マーケター自身がそのインフルエンサーのファンではない場合、そのインフルエンサーコミュニティ、つまり、世間のウチで語られている言葉がどういう意味なのかを、世間のソトからではなく、ウチから、丁寧に汲み取る必要があるからだ。変に商品のPR内容を押し付けすぎると、世間のウチ感がなく、PR色が強くなってしまうし、世間の言葉に合わせようとすると、PRしたいことができなくなる。

この微妙なバランスの中で、インフルエンサーマーケティングは日夜行われ、生活者の世間をウチからソトに拡張させるように、行われているような気がする。


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