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【.*幸せって何だろう*.】

よく幸せって何?ならないといけないの?
幸せそうにしてたら周りは奪おうとするのに?
そんな風に思って生きてきました。

幸せって怖いものだと思っていました。

そんな時に
脳に埋め込んだ電極で「喜びの回路」を刺激する事で喜びの感情を起こすことに成功したというニュースを耳にしました。

【幸せは作られたものも多いのかもしれない】

その仮説を基に、
『幸福の怖さ』の正体と、『本当の幸せ』について
極端なマイノリティに生きる私の独自解釈を述べようと思います。
同じような境遇の人の力に少しでもなれますように。

.*幸せと不幸って何?

生まれた時からこの世は
『幸せ』に向かって全てが回り
『幸せ』にたどり着かない物語は悲劇
それを前提に進んでいたように思う。

物語の幸せとは、生きること、暖色や笑顔、賞賛、たくさんの人、明るい音調の曲、などで描かれる事が多い。
それが『幸せ』だと誰もが疑わなくなった。

反対に死や暗い色、孤独などは『不幸』と描かれて
それを人は避けるようになった。

「幸せになってほしい」と本気で願い
「不幸は悲劇だ」と必死に守る。

しかしそれらは一般向けに作られた概念であり
冒頭に記した神経回路を刺激して感じた喜びと同じことではないのだろうか?
と、私は思うのだ。

.*幸せという言葉が怖い

自分を想う周りの人は
自分が思う幸せが全てだと思い与えようとする。
そして、不幸から守ろうとする。

それは即ち幸せや不幸の定義の刷り込みであり
本人の想いとは関係なく進んでいくものである。

子供の頃の私は褒められるのがよしと育てられた。
それは育手が褒められるのが嬉しくて幸せだったからだ。
私にとっての幸せも社会から認められる事だと本気で信じた育手は、全力で私の人生を悲観し何かをしようとしてくれた。
その想いが本物であったことは、よくわかる。

それがいつからか育手にとっては褒められない私は不幸、かわいそう、出来損ないという感覚にすり変わり、私にとっては自分は他人の肩書のために生きているという感覚になっていった。

私が褒められると育手は本当に嬉しそうだった。
安心する反面、それがなければ自分は存在する価値がないと思った。
自分の想いとは関係なく「幸せ」だけが進んでいく。
それを目指さないと周りが悲しむ不幸になる。
だから私は幸せが怖かったのだ。

私の育手は『承認欲求』の世界に生き、それが全てだった。

.*既存の幸せに応え続けた人生

勉強も運動も芸術も音楽も人付き合いもそつなくこなした。
今思えばそこでつまづいていればこんな人生にならなかったのかもしれない、
ただ、幸か不幸か普通に何でもそつなくこなせてしまった。
要領が良かったのでテスト勉強は前日で良いし、それでも成績は良かった。それは社会に出るまで変わらなかった。
国家試験もその先も、既存のものを丸暗記するのに時間をかけるくらいでそれほど苦労はしなかった。
外側から見える私はコミュ力も高かったので老若男女関係なく好意を持ってもらえた。
ニコッと笑えば愛されて、隣の席になったカッコいい子ともすぐに仲良くなれた。

ここで多くの人は抱くかもしれない。
「調子に乗るな」「嫌味だ」「なんかむかつく」

そうなるでしょうね。
まさにそんな感情を受け続けた人生だった。
「寝ちゃって全然勉強できなかったー」
と言いながら点数を争ってくる人も多いし
「私があの人のことを好きなの知ってて!」
ってよくいじめられた。
クラスでモテる子と仲良くなると決まって言われた。
人気のある人はやっぱり理由があって、見た目も中身も素敵だった。だから苦手。人気がある人であればあるほど仲良くなればいじめられる可能性が高いから。そんな風に人をひと括りにする自分ももっと嫌いになった。

私はこだわりがないから全てを譲って生きてきた。
本当に人を上回るような勉強はしなくなったし異性とも話さないでひたすらサポートに回った。

それでも嫌がらせはされたし
一生褒められることもなかった。
今でも何かしているのを見るたびに育手には怒られ続けている。

今思えば、サポートに回れた時点で私は全てを持ってた。
卑屈になる必要はなかったのに
遠慮する必要はなかったのに
もっと才能を大切にしていればよかったのに
そしたら今もっとたくさんを形にできていたかもしれない。

そう気付いてももう時間は戻ってこない。
心の枷を解いていくので私の人生はもういっぱいいっぱいだ。

だから同じ境遇の人には少しでも早く気付いてほしい。

既存の幸せや他人の幸せではなく
自分を適切に知り評価し、自分だけの幸せを求めていいんだよ。

.*作られた幸せでも幸せ?

疑問に持たず毎日が楽しめるならそれが1番幸せ。

でもおそらく少数ではあると思うが、
褒められても何しても違和感が拭えない人も居ると思う。
そんな人はおそらくこちら側の人間なのだろう。
是非、じっくりお話がしてみたい。

私は未だに幸せが怖い。
また奪われるのが怖いのだと思う。
またなくなるのが怖いのだと思う。
その先の想像がつくから、せめて無でいたいと葛藤している。

「もう譲らなくてもいい」

そう言い聞かせる自分と
譲る前提でものをいう傲慢な自分に対する嫌悪感と
今まで受けてきた嫉妬の言葉の激流が
幸せと一緒に流れ込んで来るんだ。

.*それでも幸せって

描かれるように、生きること、暖色や笑顔、賞賛、たくさんの人、明るい音調の曲で表現される世界なんだろう。

私は幸せを垣間見てからずっと怖くてたまらない。
あんなにあったかい世界、依存しない自信がない。
でも期待して良いことはない。保証なんてない。
だから強くいれないなら絶対に踏み入れてはいけないと思っている。

私の思い描く幸せだって本当はあったかくてふんわりした世界で、穏やかに時には豪快に笑ってて怒ったり泣いたりもできる。

自分一人の世界でそれができないのに
誰かと一緒にそれが実現できるのだろうか。
そんなことを考えながら息をしている。

自分だけの幸せの形がきっとあるから。
私もみんなも、見つけて行けたら良いな。
できれば手に入れて、幸せに生きて行けたら良いな。