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太宰治小考――『人間失格』などについて

 何年か前に、三鷹駅の近くにある太宰治文学サロンに行った。三鷹駅から歩いて少しの下連雀にあり、写真などが展示されていたので見てみると、太宰治の写真があった。その時に思ったことは、大柄な身体と知っていたけれど、想像よりも「背が高い」のだな、ということであった。
 この大きな体で、ユーモアのある作品を書いたり、人間失格のような苦悶や煩悶に満ちた作品を書いたと思うと、少し意外な気もしたのだった。
 私にとって太宰治とは、理解が難しい作家である。
 太宰の作品は、「ポップ」であると言われる事があるが、私にとっては、坂口安吾の作品の方がずっと分り易い。例えば、『風と光と二十の私と』での光芒であったり、「堕ちよ」と説く『堕落論』のことであったりする。
 安吾は筋を追えば云わんとする事の意味はよく分かるのだが、太宰は一見の文章と違って、底の知れぬ深みのある様な気がして、再読を求められる様な気がする。

 また例えば、『人間失格』という作品がある。太宰の代表作であるという。
 主人公の語り手である、葉蔵は酒や薬物に溺れているが、また自身を自嘲している。
 悲劇的な展開を迎えるが、所々読んでいて、読者として不満が残る。葉蔵は画家を志望していたが、漫画家としての生活を営んでいる。
 登場人物に、要求を求めるのは土台無理な話しだが、試みとして、葉蔵という登場人物には生を堪えて欲しかった。
 また、安吾の云う如く、「堕ちて」「生きて」欲しいと思わされる。
 堕落の底を叩いてみると、きっと哀しい音がするのだから。

 安吾の文章の中で、太宰の『人間失格』のことを「フツカヨイ」と表現していたが、酔いから冷めた後の無為な生を――どう生きるかが問題なのである。
 ある例を出せば、三島由紀夫の『金閣寺』を評して、小林秀雄が、「(金閣寺に)火を放ってからを書くのが文学」という様の意味の事を言っていた事を知った。
 事後と事前、その合間のなかで、「やってしまったこと」「以前に起きたこと」「今なおの苦しみ」の間隙で、地獄を受けるのではなく、弁証法的に生を揚棄して、「堕落しつつ」も「堕ちつつ」も、なお生きるということ選ぶ――敢えて言えば、そう望むのだ。

 しかし、それは欲張りなのだろう。太宰治の文学サロンを見たり、太宰治の作品を紐解く度に、何故かそう思う。青春の恥じらいとともに、生を人一倍早く駆け抜けたのだろうか。
 極めて感傷的で甘いが、そう思ってしまう。

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