#日記
教える技術入門ワークショップを開催しました
先日受講した早稲田大学エクステンションセンターの「教える技術」で設計したコースを組み立て90分のワークショップを開催しました。弊社のクライアントさんで全国で子供向け雑貨の店長さんを中心に13名の方に参加していただきました。
マイクロフォーマットに基づいてセミナー形式ではなくワークショップ形式でおこないました。事前にクライアントさんにお願いして、できるだけ知らない人どうしで班を作成してもらいました
本棚にならぶ紙について、いわゆるシニフィアンについての一考察
noteを書くときにはタイトル書くか、本文から書くかといわれれば、本文の構想をもってからタイトルをつけて本文を流れるように書くようにしている。自分の文章について結構コンプレックスをもっていて、それはいわゆる中二的な時に、文章を書くぞ!と書いてはみた。ところが、状況説明に文章をつかってしまい、なにをかいてるのかわからず400字詰め原稿用紙を数枚つかってやっと冬の駅の描写をするという、10年後にHDD
もっとみる問題の解決は必要か?
我が家ではテレビをつけると気がつくとNetflixになっているので、ほとんどテレビをみません。時たま朝早い時間で一人の時にニュースをみていると児童虐待とか辟易とするものが流れています。その後Twitterなどをみていると原因はだれだ、犯人はだれだ、世間が悪いんだとか話になります。
こういうのをみて一つだけ言えることは「問題を解決しようとする限り問題は解決しない」ということです。問題の解決された状
子供の学びについて考えない勇気
ここ1年ほど、いやここ数ヶ月子供にとって学びとはなんなのか、散々家族で話をしてみた。結局のところ、子供にとっての学びとはなにか、という問いは日本語としては成立するが、実態として存在しない問題であるというのが結論だった。
親は「子供の学び」について「◎◎というところにはいって良い学びをして欲しい」と考える。でもこれはどこまでいっても親の課題であって、子供の課題ではない。子供がどんな学びをしようとも
自分いなければ世界が上手く回ると思うこと
だいたい自分が調子が悪くのは「自分は世界から排除されている」と勝手に思うことじゃないかとおもう。アドラーの用語でいう共同体感覚について積極的に否定しているのだろう。
たとえば、家族からも自分が排除されているとおもうことで「自分がいないほうがうまくいく」と思い込むことがあるし、それを破壊する行動をとりつづけてしまう。破壊された瞬間に最大限の所属を感じるというリワードのためにそのような行動をしている
焦れば焦るほどなにも出ない
なんか焦ってる。理解できないこと、いや言語化できないことがなんでできないかという自分に対して焦ってしまい、なにも出てこない。でも入れることはできる。もしかしたらセルフハンディキャップ、いや親によるレッテル貼りの一種かも知れない。ともかく正解がない問いに対してどうしたらいいのかまったくわからなくなっている。
焦ってからパセージプラスが始まるのになぜかアドラーに対してもの凄く興味を失っている。半年間
スキーマー療法について外在化してみる#2
火曜日はスキーマ療法や治療経過について書いていきます。
近いうちに有料noteに移行します。
安全なイメージの重要性 前回は、安全なイメージの話をしました。各セッションの最初と最後で安全なイメージを確実に感じること大事になってきます。安全なイメージを持たないと、セッション中でおきた過去の死にそうなレベルの辛い体験に耐えられなくなります。
スキーマ療法中は、日常で突然に、過去の辛い体験を思い出し