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本棚にならぶ紙について、いわゆるシニフィアンについての一考察

noteを書くときにはタイトル書くか、本文から書くかといわれれば、本文の構想をもってからタイトルをつけて本文を流れるように書くようにしている。自分の文章について結構コンプレックスをもっていて、それはいわゆる中二的な時に、文章を書くぞ!と書いてはみた。ところが、状況説明に文章をつかってしまい、なにをかいてるのかわからず400字詰め原稿用紙を数枚つかってやっと冬の駅の描写をするという、10年後にHDDのバックアップをとったCD-Rから見つけて悶絶死するぐらい文章が書けなかった。

そもそも文章を書くということは、なにかを相手に伝えたいはずだ。ところが、巷に溢れる小説とかラノベの書き方という本を散々よんで、いろいろ書いてみた結論は「小説の体裁をとって伝えたいことがない」ということであった。つまり主人公とかどうでもいいし、こうやって自分の思考をnoteにかければいいということである。

noteとかで文章を書くと何故か単語をこねくり回して、別な意味を与えて書くようなことをしてしまうというクセがあるらしい。らしいとかいてるのは伝聞でもなくて、後から読み返してみると、この文章を書いた人はなんでこんな単語一つをこねくり回す必要があるのだろうかと書いた本人が悩んでしまうからである。

いままで文章を書くと死ぬほどといっていいほど誤字脱字変換ミスなどが多かったんだけど、精神状態がよくなるにつれてそれがもの凄く減った。いやむしろほぼないレベルになっている。きっと文章を書く行為は他者に何かをつたえたいと考えてるのではなく、"大文字の他者"への無限ともいえる接続を試みる自己の思索の延長上の行為でしかないからだ。

昨年精神状態がたぶん一番悪い状態で、文章を死ぬほどかくということにわざわざ大枚を払って一時期参加したことがあった。けれども結局そこでなにがおきてるのか最後までわからなかった。いまもなにをそこで求められているのかということはわからなったけど、文章で他人の価値を決めるというのは一つの閉じた世界観のみで成立するのであって、そこの枠に入って戦うといった時点ですでに共同体感覚から外れた行為だから、自分はいまだなにあれがなにかわからないし、きっとこれからも分からないのだとおもう。

そのような経験を経ることでレヴィナスやラカンの本を読めば読むほど、この人達はは理解しやすのではないかとおもってしまう。一見すると、二人とも確かにわかりにくい文章で書いているが、それが理解をしにくい文章ではかならずしも無い。

レヴィナスの「観念に到来する神について」やラカンの「精神分析の4基本概念」とかを読むと、難しいが受け止められる文章である。彼らのテクスト構築を"大文字の他者"への接続にいたる行為だと考えている。平易な文章をかける人間が書いた難読な文章は、どのような受け手に対しても、理解を求めるという行為を読み手に要求している。だから、文章が難しく感じるだけであって理解ができないということはない(はず)。

(どうもラカン"大文字の他者"という概念が自分の中に何故か突き刺さってしまい、アドラーのことを考えていてもラカンがちらついて最近仕方が無い。これが恋なのだろうか。)

先日自分が一番いいなとおもう文章を書くすきピから「あなたの文章はいいね」といわれたのでこんなことを日帰り出張の東海道新幹線の中で考えていたのである。


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