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「書くこと」を通して人や思いをつなぐ物語。三浦しをん著『墨のゆらめき』

歳を重ねるにつれ、「もっと知りたい」と思える相手に出会えた時ほど、近づくことを躊躇してしまう人は多い。人によって理由は異なるが、その根底にあるものは、傷つくことへの恐怖心ではないだろうか。さまざまな人と出会うなかで、自分の過去や気持ちを理由に相手が離れていったり、表向きは受け入れてくれたように振る舞っていたが、本音は違うことに気づいたり。このような傷ついた経験が、人を臆病にするのかもしれない。

しかし、怖がりながらも少しずつ距離を縮めていき、お互いを受け入れ合うことができたなら、無言の時間すら心地よいと思える仲になれるだろう。上辺だけの薄っぺらい付き合いで感じていた、息苦しさや居心地の悪さからも解放されるはずだ。三浦しをん氏の『墨のゆらめき』(新潮社)では、そういった人とのつながりによる心情の変化を、真っすぐに描いている。

三浦しをん著『墨のゆらめき』 (新潮社刊)

本書は、三日月ホテルでホテルマンとして働く続力(つづき ちから)と、そのホテルで「筆耕士」をしている書家の遠田 薫(とおだ かおる)が、「書くこと」を通して心をかよわせていく様子を綴った長編小説である。

物語の序章、続は仕事の依頼のため初めて「遠田書道教室」を訪れたが、なかば無理やり「手紙の代筆」を手伝うことになる。帰り際、代筆の手伝いはこれきりだと遠田に伝え、書道教室を後にする続であったが、その後も理由をつけては遠田に呼びだされ巻き込まれていく。

はじめは渋々手伝っていた続も、遠田の書を間近で見るうちに魅せられ、次第に自ら遠田のもとを訪れるようになっていった。そして、遠田も当然のように続を迎え入れる。しかし、神保町で老紳士「中村」に出会った日を境に、2人の関係は大きく揺らいでいくのであったーー。

代筆の手伝いをする時、続は依頼者の心に寄り添い、相手になりきり「こう書くであろう」という文案を練る。そして遠田は、続が練った文案を、まるで依頼者に憑依して書いたかのような筆跡でしたためる。この、2人で1通の手紙を完成させる作業を通して抱いた感覚を、続はこのように語っている。

ともに手紙の代筆をするあいだは、たとえるなら俺がパソコンで遠田がプリンター。両者は無線でつながっていて、性能フル稼働でひとつの作業に取り組んでいる。そんな、一心同体になったかのような不思議な感覚がある。

『墨のゆらめき』p.113引用

感覚が強くなるにつれて、遠田に気を許しはじめていることを自覚する続。しかし、お互いの距離が近づくほど、続は遠田が隠している「何か」を感じるようになる。この「何か」のヒントは、本書のいたるところにちりばめられているため、探しながら読み進めてほしい。


そして、手紙の代筆をお願いする依頼者達の存在にも注目したい。本書では、年齢や性別の異なる依頼者から手紙の代筆を頼まれている。人によって依頼内容はさまざまだが、共通しているのは、全員が「真剣さを最大限に伝えるための方法」として、手紙を選んだことだ。

手紙は、筆致から書いた人を感じられ、揺れや崩れなど文字に表れる些細な変化から、その人の心情まで拾うことができる。相手の内側から溢れ出た思いが、筆致を通してじんわりと伝わってくるような感覚。これは、デジタル文字には到底真似できない、手紙のなせる業であり、魅力だと筆者は思っている。そして、この現象は手紙に限らず、人の手によって書かれた文字すべてに対して言えるだろう。

『墨のゆらめき』は、メールやLINEが主流となった現代において、大事な場面では未だに手書きの文字が必要とされていることや、手書きの文字がもつ「伝える力」の強さを思い出させてくれた。依頼者達が、手紙を通して真剣に伝えたかった思いとは何か、伝えたいと思った背景には何があったのか。もしかすると、依頼の中には、あなたの過去と重なる思いもあるかもしれない。その部分も含めて、楽しめる一冊となっている。

真面目で誠実な続と、豪放でいい加減に見える遠田。一見、馬があわなそうに感じるが、2人の関係が「書くこと」を通してどのように変化していくのか、その行く末をあなたにも見届けてほしい。






最後まで読んでいただきありがとうございました。