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「社会人」という言葉に違和感

 学校を卒業し、いわゆる「就活」を経験し、正社員として採用された人たちのことを、どういうわけか「社会人」と呼びます。また、就職して働き始めることを「社会に出る」などと表現します。私は、こうした表現に大きな違和感を持っています。

 まず「社会に出る」とはどういうことでしょうか。
 自分の手でお金を稼げるようになることでしょうか。それなら、バイトをしている高校生だって立派な「社会人」です。しかしながら、彼らは「社会人」とは言われません。学業の傍らで、どれだけ真面目に仕事に向き合ったとしても、彼らは「社会に出た」ということにはならないようです。
 
 アルバイトをする高校生が「社会人」と呼ばれないのは、彼らが「学生」だからかもしれません。ならば、高校を卒業しさえすれば、「社会に出た」ということになるのでしょうか。いや、必ずしもそうは言えません。就職をせずに、バイト生活を続ている限り「社会人」という称号は与えられないのです。いくら懸命に働き、私たちに生きる「社会」に貢献したとしてしても、彼らは「社会に出た」ということにはならないようです。

 世の中には様々な手段で生計を立てている人がいます。例えば芸術家は「社会人」でしょうか。研究者は「社会人」でしょうか。

 「社会」は企業の正社員たちだけで成り立っているわけではありません。個人が選択する働き方が違うだけで、正社員であろうと、バイトであろうと、社会に貢献していることは間違いありません。会社によっては、社員よりもバイトの方が優秀といったケースだってあります。

 もっと言えば、「社会」はお金を稼ぐ人たちだけで成り立っているわけでもありません。例えば、生まれたての赤ん坊はビジネススキルこそ持ち合わせていませんが、周囲を明るく笑顔にする力を持っています。親にとっては毎日を生き抜くための原動力にもなるでしょう。彼らだって立派な「社会人」と言えるのではないでしょうか。

 「多様性」という考え方が受け入れてきたとはいえ、日本における「働き方」や「生き方」の選択肢は依然として狭いと感じています。近年では「就職」「結婚」「出産・子育て」といった選択をしない個人も増加している実感があります。しかしながら、そんな選択を望ましく思わない人々もいます。例えば「就職"しない"のではなく、就職"できない"だけでしょ」などといった厳しい意見もあります。

 少なからずの人が感じる「生きづらさ」の正体は、こうした固定化された価値観の蔓延が原因だと感じています。

 もっと柔軟な価値観が広がることはできないものでしょうか。私たちは、産まれた時点で「社会人」です。社会の一員です。この世に生を受けるということが「社会に出る」ということなのではないでしょうか。

 

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