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なぜ私が37キロ散歩という奇行に走ったか

みなさんこんにちは!
ホリードAです。
きちんとした形での記事投稿は久しぶりになります。

概要

 私は何を考えたのか昨日、自宅(世田谷区)から青梅駅までのおよそ37キロにわたる散歩を行ってきました。おかげで全身が激しい筋肉痛に襲われています。途中まではnoteに画像を投稿しながら実況中継を行っていたのですが、途中でスマホの充電が切れてしまい、拝島駅到着時の画像を最後に投稿が途切れてしまいました。しかしあの後、福生市、羽村市を抜けてなんとか青梅駅までたどり着くことが出来ました。到着したのは17時半近くでした。自宅を出発したのが午前11時半ごろだったので、計6時間にわたってひたすら歩き続けたということになります。信号待ちや途中一回のトイレ休憩を除いては、一度も立ち止まらずに歩き続けました。一度でも一息ついてしまえば、もう歩き続けられないと感じていたからです。さて、この記事では、私がなぜ急にこのような「奇行」に走ったのか、そしてこの「奇行」から何を得たのかについてお話していきます。

なぜ「奇行」に走ったのか

 note内ではよくお話させていただいていますが、私は現在大学4年であり今年度中に大学院に進学することを目指しています。しかしながら、いざ受験日が近づくにつれて不安が大きくなると同時に、本当に大学院に行く意味があるのだろうかと自分の決断に対する猜疑心が深まっていき、やるべきことに手がつかなくなってしまっていました。そんな自分に喝を入れるためにも、また、自分に「やると決めたことを本当に成し遂げる力」のある人間であるのかを確かめるためにも、自分自身に何かしらの試練を課す必要性があると感じるようになりました。幸い昨日はアルバイト先である塾も休みであり、天気も良かったということもあり、外に出かけて長い時間をかけて自分の限界を試してみようと考えました。山登りに行くにもGW中はどこも混んでいます。ならば歩道を延々と歩き続けてみるのはどうかと考え、長距離散歩に出かけることを決意しました。目的地は当初檜原村を想定していましたが、日帰りで帰ってくることを考えると、少し難しそうでした。日帰りで帰れるギリギリのラインを考えると青梅駅が候補に挙がったので、少なくとも青梅駅まではたどり着くということを目標に自宅を出ました。


「奇行」から何を得たか

 歩き始めておよそ一時間、ちょうど調布駅近くを歩いていたころまでは問題なく歩けていました。しかし、府中付近を通過した頃になると、照り付ける太陽にどんどんと体力が奪われていることを実感し、立川に着いた頃には足も痛み始めてきました。そうした中、数分間おきに何度もこの言葉が頭に思い浮かびました。

「これに何の意味があるのだろう」

 近くの駅で折り返して帰ってしまおうかと思いながらも、必死にその考えを押し殺しながら歩き続けました。私はこうした葛藤の中で自分自身の一つの価値観に触れることが出来ました。

意味のあることを行えるか以前に、自分でやると決めたことから逃げない人間になりたい。

 実際、私が青梅駅まで歩いたところで、社会の何の役にも立たないわけです。受験生としての貴重な時間を使い、体力も無駄遣いしていると考えれば、私自身の役にも立たないわけです。客観的に見ればただの「バカ」です。しかしながら、私は「バカ」と思われることよりも、自分でやると決めたことから逃げることの方がずっと嫌でした。思い返せば、私はずっと逃げてきました。自分の学力が低いことを家族のせいにしたり、アルバイト先では、労働環境に不満をもつ従業員が多数いることを認識しながらも、改善に向けて具体的な行動を起こすことが出来ませんでした。ずっと逃げてきたんです。それっぽい理屈ばかり並べて、逃げてきたんです。私はずっとそんな自分を変えたかったんです。大学院に行き、専門的な知識を身に付けたいと考えたのは、自分が逃げずに努力してきたという証明が欲しかったというのが理由の一つだったのかもしれません。このことに、私は昨日初めて気づくことが出来ました。私は「意味」やら「意義」よりも「逃げない力」が欲しかったのです。

まとめ

 青梅駅の駅舎を目の前にしたとき、私は不思議と「なんだこんなもんか」と思いました。道半ばの時はあれほど無謀だと思っていたことも、達成してみれば大したことのないことに感じられてきました。「やればできるのに、言い訳をして院試から逃げてようとしていた自分」は、「自宅から青梅まで歩いてきた自分」よりもよっぽどバカでした。自分を見失い欠けた私は、6時間にわたる散歩を通じて、再び自分を取り戻すことができただけでなく、それ以上のものを得ることができたのでした。

 


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