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きれいなものを消したがるこの世界

どうしようもないくらい、愛してみたかった。

ありきたりな言葉を呟きながら1人歩く夜道が好き。エモい、はこういうことだと、勝手に思っている。流行りの言葉を愛せない時があった。たぶん、SNSに染まる前。小学生の頃かな。本から得ることのできる言葉や感情がこの世の全てだと思っていた。決してそれは間違いではなかったし、正解でもなかった。本を読んでいる間、別世界へと吸い込まれるように、わたしが本に触れていない時間は、現実世界というもう一つの世界に吸い込まれている。それだけなのだ。

それにしても、依存というものは怖い。飽きというものも怖い。生憎、わたしはこの両方を大切にしてしまっている。好きになるとものすごくのめり込む。一方で、飽きた途端、愛した日々がなかったかのようにきれいさっぱり忘れてしまう。やめるのではなく、忘れる。わたしはこれを、記憶消去能力が発達している、と表現している。あるモノが興味の対象から外れた途端、それに関する記憶が全て抜け落ちてしまう。女の子の恋愛は上書き保存、とよく言うが、上書きされるどころか、上書きできないはずの記憶まで消えている。

なにかに依存しているわたしを抱きしめる日々は苦しい。でも、そんなに大切にしていたものがただのガラクタになった時の虚無感はもっと苦しい。本当は、ちょうどよく生きたい。感情が高ぶりすぎることも、冷めすぎることもなく。なんとなく好きで、その理由を追求することなく、なんとなくのままで置いていて、その気持ちを継続させることができたら、と思うけど、思ってみているだけなのよ、結局わたしは。

感情にもう少し落ち着きがあれば、わたしはどんなに幸せだっただろうか、と思うたび、そんな幸せが欲しくないことは明確なのに、どこまでも悲劇のヒロインになりたいのね、あなた、とわたしの中の黒い部分から声がする。

色んな人と話すことが好きだ。色んな価値観に触れることが好きだ。偏見のない人が好きだ。偏見のないわたしが好きだ。人からなにかを吸収することは楽しい。どんなに分かり合えない人であっても、その人の世界の見方を知りたいという気持ちは変わらない。そんなことを口に出すと、「きれいごと」という言葉がわたしの周りを飛び交う。「もっと素を見せてほしい。」包み隠さず全てを話した面接官に言われた一言が、わたしの心を切り刻んだ。わたしの「素」が、あなたの考える「素」とは違っていただけなのに。まるでわたしの素を否定されたようで、悲しかった。どうしてこんなにもこの世界は、きれいでいようとすればするほど、生きづらくなってしまうのか。

父がいなくなり、田舎の祖父母の家で暮らしていた数年間。庭で何度も嘔吐物を見た。庭で飼っていたネコによるものだった。高校生になって市内に出た時、街のあちこちで嘔吐物を見かけた。このあたりには、たくさんネコが住んでいるんだなあ。そんなことしか考えていなかった。現在わたし、大阪、21歳。嘔吐物を上手くかわして歩く。嘔吐物を目にするたび、祖父母の庭を思い出す。そして、先週行ったバーのお手洗いを思い出す。汚いものに慣れていく。きれいな気持ちも記憶も生活も、忘れていく。汚さを知ることが大人であると実感している自分自身に、また吐き気がする。

子どもの頃の感情を忘れたくないと必死になっていた過去のわたしはどこに行ってしまったんだろう。日々感じたこと、見たもの、その色をとにかく書き残していた、小学生、中学生。それぐらいの時のわたしの方がよっぽど大人だった。汚い世界に飲み込まれてしまう前に、自分が消えてしまう前に、いつか来る心の分岐点を迎える前に、とにかく必死になっていた。ある意味、わたしが一番大人だったのは、幼いながらに感情を押し殺して生きていた日々なのかもしれない。今の、反応的に生きる日々は、悪くないけど空っぽ。

大人になってからできたことの大半は、子どもの頃にできなかったこと。愛してほしいと言葉に出すことも、誰かに依存することも、現実に絶望することも、わたしにはできなかった。許されないと思っていた。箱に入ったお人形のように、わたしはきれいなわたしを生きていないといけない、と思い込みすぎていた。

人の期待も興味も一瞬で儚い。そんな簡単なことさえ、わたしは知らなかった。難しい言葉は知っている、数式も解ける、頭のいい高校にも行ける。それなのに、世界の大半の人は自分の利益のために生きていること、人の優しさは一時的なものであること、人の気持ちは自分の気持ち次第で踏みにじってもいいこと、そんな世界の当たり前は一つも理解できなかった。不器用な人間、と世界がわたしを笑う。そんな世界を嫌いになれないのも、わたしの悪いところだった。とりあえず絶望しておいて、たまに頑張ってみる。それぐらいの方が上手く生きられる。そんな考えをどうしても好きになれなかった。

頑張っているわたしを見て人は笑う。どうせこんな世界で、と人は言う。どうせこんな世界で、わたしはどう生きたかったのか分からなくなった。分からなくなるたび、過去の必死だったわたしがわたしを救ってくれる。きれいな世界は、わたしの心の中に在る。

どうせ。でも。結局。世界はそんなことばかり。幸せになるには、そんな世界を上手く生きるか、そんな世界に歯向かって自分を貫くか。わたしは後者になりたい。

わたしの弟は、普通ではないらしい。人の話を聞くことが苦手で、他の子よりも理解するのが遅くて、興味あるものを見つけるとそればかり見えてしまうらしい。

わたしは、弟によく似ていると思う。ただ、そんな自分を隠すのが上手くて、大人の顔色を伺う力もほんの少し持ち合わせていた、というだけで。

弟に好きなゲームの話を聞くと、弟は物知り博士になる。弟が行きたいと言っていた場所に弟を連れていくと、弟は誰よりも熱心に、その場その時を楽しんでくれる。弟は、興味のないものをはっきりと興味がないと言ってくれるので、外出先の飲食店を選ぶときに迷ったことがない。

たったほんの少し弟のことを書くだけで泣いているわたしが嫌になる。この世界に立ち向かうと言いながら、この世界に上手く馴染みたいと思うわたしを捨てきれずにいる証拠が両目から止め処なく溢れてきて、悔しい。

体があるだけで。心があるだけで。話せるだけで。聞こえるだけで。誰かと比べることでしか自分自身を肯定できない自分を殺したい。そんな思考を植え付けた世界を憎みたい。紛れもなくここにある嫌いなわたしを、誰かのせいにして消したい。記憶と思考の後戻りはできない。歳を重ね、わたしが変化するたび、着実な成長と共に、自分自身の悪いところがどんどん見えてくる。

わたしの中に在るきれいな世界は、いつまで在り続けてくれるだろうか。消えた時、わたしの生が終わる。どうか、末永く。

色んなことを考えていると、論旨が一貫しなくなる。今日は、わたしの頭の中をそのまま書いてみた。元気な気持ちで書き始めたはずが、今は泣きながら書いている。ちょうどいい感情で生きることが、本当に苦手。

きれいなものを抱えて歩く人が好きだ。

どうか、あなたのきれいな世界が、光を失いませんように。

いつか青い鳥になって、あなたの下へ幸せを届けます。