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太宰治の生地、金木町を歩く。


これは、『太宰との出会い』の続編である。

朝食を終え、宿主が斜陽館に送ってくれた。
生憎、斜陽館はまだ開館してなかったので、太宰の作品で出てくる場所を巡ってみた。
まず、芦花公園に行ってみたのだが、春は、満開の桜で有名なところだが、時期は師走。桜は蕾を孕んでいる頃だろうか。桜のさの字もない。太宰の石像があるとのことで探してみた。どこにもない...ない....これ以上はいけない、足元を見ると積雪が膝くらいの高さまであるのだ。確かここら辺だなと思っていたのだが、全くないと思って周囲を見回したら、あった。太宰が雪に埋れて、顔のみが出ている。こちらをみているようだ。流石に噴き出してしまった。
とりあえず、写真を撮って、母親に送ってみた。すぐに返信がきた
「なにこれ」
「太宰治の石像」
「ふーん、雪玉みたいね。」
案の定、こんなものが太宰治の石像だとわかる人はいないだろう。ちょっとしょげた気持ちで、太宰が幼少期に見た地獄絵があるお寺に行くことにした。
雪道を歩いているとどこからか「お兄さん!」と呼び声がした。
俺のことじゃねえだろと思い、歩いているとまた「お兄さん!お兄さん!タスケテタスケテ..」と叫び声が。なんだか嫌な予感がしたので辺りを見回すと反対側に老婆がスーパーの袋を重そうに抱えていた。目が合うと会釈をしてきた。「これ!持って!重いから!」
なんだそんなことか。と思い、荷物を持ってやる。
「あんた、どこに行ってきたの?」
「芦野公園です。」
「あすこね。今の時期に行ってなんかあるの?」
「太宰治の石碑見に行ったんですよ。生憎、積雪でなにも見えなかったですけどね。」
と莞爾と笑った。暫く老婆と並んで歩いていたら見知らぬ八百屋に着いた。
「じゃあお兄さんありがとう。ここでいいよ。お酒とか飲む?」
「いやあ俺は、未成年なんでね。無理なんですわ。」
「じゃあこれならどうだ?はいりんごジュース。」もう片手にはカップ酒が握られている。
「ありがとうございます。雲祥寺ってのはどこにありますかね?」(太宰が幼少期に見た地獄絵である)
「アァここから近いよ。」と口頭で道案内をしてくれる。

そこは、特徴もなく普通のお寺だった。是非、地獄絵を拝見しようじゃないか。中に入ると、住職さんが出迎えてくれた。
「地獄絵が見たいんですけど。」と開口一番に伝えると奥座敷に地獄絵が飾られていた。屏風のようなもので、飾られていた。オォスバラシイと驚嘆すると所々色が剥げている。もしかしてこれは太宰が見たものと同じものでは?と興奮気味に凝視する。罪人が焼かれたり、刺殺されたり、閻魔様に赦しを乞うている場面だったりで予備知識がなくても、楽しめる。太宰は幼少期の頃これを見て戦々恐々としたらしい。酷い描写が多いので子供
に見せたら、太宰と同じ反応するだろうな。
そして、寺院を出て斜陽館を目指す。とりあえず、斜陽館の近くに疎開した家があったことを思い出し急遽行ってみることにした。中に入ると、なかなか綺麗な状態のまま残されている。そして庭がとても綺麗なのである。作家太宰治が疎開中に執筆した部屋があったので色々と見入っていると、案内人が話しかけてきた。
「どうでしょう?素晴らしいでしょう。」
「そうですね。流石太宰先生様様ですよ。ここで一泊したいくらい」
館内を案内してくれるとのことで、いろいろと説明を聞いた。ここの案内人は、なかなかの博識である。純粋に太宰治が好きなのだなと感心してしまったくらいである。
外に出ると道路の反対側に津軽三味線会館があった。入ってみようかと思い中を覗いてみると『休館日』との文字が、仕方ないと思い斜陽館に向かう。あとで調べてみたのだが、今や全国的に有名な津軽三味線の発祥の地は、ここ金木町が発祥とされている。生演奏が聞ける機会だったのに!と東京の地で公開したのであった。
斜陽館に到着。この旅で2回目である。
昨日は一階しか見れなかったので、二階に上がってみる。階段がなかなか立派だ。太宰の肉筆やこの斜陽館の歴史とされるものが展示されていた。
そして外へ出ると既に夕陽が沈みかけていた。
宿へ帰ると夕餉が用意されていた。昼飯を食うのを忘れていた。白米3、4杯をおかわりし平らげる。宿主がたまたま居たので、気になっていたことを聞いてみた。
「なんでビジネスホテル太宰って言うんですか?」
「よく聞かれるんですよ。実はね。私、斜陽館の管理人をしていたんです。前まではあすこは宿で、観光客が寝泊りしていたのですが、老朽化が進んで、今や金木町の持ち物なんですわ。貴方の履いているスリッパも元々斜陽館で使われていたものなんですよ。」
こう言う民宿は長く続いて欲しいなと思いながら眠りにつくのであった。

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