百瀬雄太

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連載小説 歩行遊歩道をゆく④

 足早に、歩く、男の、背中が見えるようだ。彼は、どこに向かって、歩いてゆくのだろう。沈黙のままだ。風が、ひとつ、吹く。歩いていれば、楽になれる、と、思って、歩くのかもしれない。どこまでも、歩いてみるけれども、行き先は、今も、わからないでいるようだった。  風が、ひとつ、問いかけたようだった。おまえは、どこに行くのかと、訊いたのだった。男は黙ったままだった。男には、口がついていないのかもしれなかった。夕暮時、烏が鳴いた。烏の黒光りする羽根が、太陽の光を散らした。私はどこへゆくの

    • 連載小説 歩行遊歩道をゆく③

       足早に、歩く、男の、背中が見えるようだ。彼は、どこに向かって、歩いてゆくのだろう。沈黙のままだ。風が、ひとつ、吹く。歩いていれば、楽になれる、と、思って、歩くのかもしれない。どこまでも、歩いてみるけれども、行き先は、今も、わからないでいるようだった。  風が、ひとつ、問いかけたようだった。おまえは、どこに行くのかと、訊いたのだった。男は黙ったままだった。男には、口がついていないのかもしれなかった。夕暮時、烏が鳴いた。烏の黒光りする羽根が、太陽の光を散らした。私はどこへゆくの

      • 連載小説 歩行遊歩道をゆく②

         足早に、歩く、男の、背中が見えるようだ。彼は、どこに向かって、歩いてゆくのだろう。沈黙のままだ。風が、ひとつ、吹く。歩いていれば、楽になれる、と、思って、歩くのかもしれない。どこまでも、歩いてみるけれども、行き先は、今も、わからないでいるようだった。  風が、ひとつ、問いかけたようだった。おまえは、どこに行くのかと、訊いたのだった。男は黙ったままだった。男には、口がついていないのかもしれなかった。夕暮時、烏が鳴いた。烏の黒光りする羽根が、太陽の光を散らした。私はどこへゆくの

        • 連載小説 歩行遊歩道をゆく

           足早に、歩く、男の、背中が見えるようだ。彼は、どこに向かって、歩いてゆくのだろう。沈黙のままだ。風が、ひとつ、吹く。歩いていれば、楽になれる、と、思って、歩くのかもしれない。どこまでも、歩いてみるけれども、行き先は、今も、わからないでいるようだった。

          恋うことを思うこと。

           みんな、かつての恋心って、消え失せるのか。私の中では、消えたものもあれば、消えずに仄かに残っているものもある。どうしたらいいのか、まるでわからないものも残っているようだ。それらは、私が忘れるまで、いつまでも残っている、のだろうか。会いたい。そう思う気持ちは、いったい、なんなのか。乞うこと。乞食。ものをねだるということは。恋い恋うこと。ここにはいないものを、願うこと。半分こになること。私ではなくなってしまうことだ。恋しいと思う時には、そうだろう。会いたい。そう、思われてしまう

          恋うことを思うこと。

          話し言葉というものについて

           細野さんの本を読んでる時に感じるのは、彼の話し言葉から、彼の人格のようなものが素直に伝わってくることだったりする。話し言葉というものには、その人の自然さのようなものが滲み出るものなのかもしれない。

          話し言葉というものについて

          恋しいことやら。おもいやら。

          もっと、素直に、言葉に出せるように、なりたい。自分の想いを、私は、あまりにも抑圧してきてしまったのだと、思っているこの頃だから。  言葉と、もっと、なかよくなりたいと思う。感情を、もっと、大事にしてやりたい。と、思う。  何かや、誰かのことを、好きだ、と、おもう気持ちなども。大事にしてやりたい。そう。思う。  大事にしてやれなかったおもいは、残る。遺るんだ。と。心にある、そういうおもいと共に、暮らすものだからだ。  恋しい、という気持ちも、大切に。

          恋しいことやら。おもいやら。

          展示空間の制作過程、その変容。

          呼吸が整わなくてはできないのだな。息と息とが続く時には続く。生命だからだ。途切れ途切れのものはひとつには生まれない。拡散してしまうとひとつではなくなる。私はひとつになりたいのだなと思う。拡散するような配置の仕方もあるのだとは思う。それは、星屑たちの散乱する飛び方のような配置の仕方である。それとは違う配置の仕方もある。それは、あるひとつの星を形成する仕方である。あるひとつの星が生まれるためには、その星の核となるものが必要となる。それはひとつの呼吸の流れのようなものである。それが

          展示空間の制作過程、その変容。

          他者の目前における生の肯定

           生に密接なものをほど、歪める時には、生は澱む。その澱みは、かなりの力でその人を包み込んでしまうものである。作品とは生の痕跡だから、その痕跡を蔑ろにされることで、またそれを作ったこの身体を否定する/されることで人は、その生の否定へと進んでしまうことになる。他者に作品を提示することでもどうにかこの生を殺すことがないように。そうするためには、他者が目前にいようとも、自身の生を肯定する力量を持つことである。おまえはそれを今手に入れようとしているのである。大丈夫。おまえ自身のことを信

          他者の目前における生の肯定

          傷の回帰と作品の提示

           自分が魂を込めたものを他人に手渡す時のあの時間の記憶が幾らも返ってくる。私自身は良いものと感じるものを手渡しても、それがなんとも言えない表情の元に受け容れることを拒否される時のあのなんとも言い難い苦痛。何度も何度も感じることがあったのだった。その度に私は自分のことを責めた。そういうものをしか作ることのできない自分がいけないのだと責めたのだ。そうして次こそは相手にとっても響くようなものを作れたらと思った。だが。話はおそらくはそういうことではない。私が自らの生を肯定することがで

          傷の回帰と作品の提示

          回想記実 書ふことを

           最も嘘ない言の葉を紡ぐためにできうる事というならばそれは私のなかにそれとした形で観え、聴こえるものを書きつける事なのだらうとも思うものである。外化される未然形の言の葉は眼前に浮かび、またその形をも決められるものだからであるという事だがこの言の葉の形成を担うのが一体どういふ物なのかを私自身は分からない。言の葉を選ぶといふ選択行為ですらも超脱した書き方を成する時機において人を成すこの形は一体全体何をしておるのかも分からない様だがそれでも尚のこと流れ出づるまま書き足す所業は続けら

          回想記実 書ふことを

          回画 ふとさとりのことを想ふ夜には

             死んだらどこにいくのか、とうちの人が、この頃言う。白やんが帰って来ないためである。そう訊かれたとしても私には本当にわからない。死んだこともない私には、わからない。  死にまつわる言表をいろいろに読んでは来たけれどもわからないものであり続ける。わからないからこそ人は語り続けるのかもしれないとすら思われるものだ。  どうして今、さとりのことをまた思い出しているのかはわからないけれども、先ほど、須藤さんからご恵贈いただいた本である『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』の

          回画 ふとさとりのことを想ふ夜には

          音楽のかたちとわたしのかたち

          わたしはわたしのかたち、そしてまた 音楽のかたち。

          音楽のかたちとわたしのかたち

          わたしという思考のかたちを

          わたしという思考のかたちを観ること。見つめること。愛すること。愛されること。そのこと。書くことは、そのことでも、ある。そうだ。書くことは、その傷口からうまれるものだから。だから書く。それが切実な問いという傷にたいする自身の回答という治癒になる。だからそれは、おのれを救済することでもまた、ある。治療者としてのわたしがそこにはいる。傷が治る。致命傷になる前に塞ぐ。そこから世界が溢れ踊り出す前に止血する。そうして見えなくなるものがある。聴こえなくなるものがある。納得してしまう。しま

          わたしという思考のかたちを

          欲望と傷口とわたしの実存形態と

          傷からは、血が流れる。私はそれを治す。痛くて仕方ないからだ。治す。治癒する。覆う。そうして形がうまれる。その形になる。そうしたものが思考。思考はそうして生まれる。私はそうした動き方のすべてをは知らないである。すべてを知ることは、おそらくはできない。できないほうがいいこともある。そうであることでそれが自然であるということが。 傷はそこにある。傷そのものはわからない。語り得ない。傷があり縫合され、そうして形をなしたものは語ることができるかもしれない。私はわからない。わからないま

          欲望と傷口とわたしの実存形態と

          思われることはもうそこに在る

          私が、それを、認める以前にもう、それは、思われて在るものであり、それを認めることが、できないでいるのは私がそれを否定する何かをそこに持ち続けて在るからなのだ。だから私はその蓋を取り除いてちゃんとそこに思うがあるのを、知ってあげることが、できればもうそれで、そこにはもう、それが在る。それが動く。それが顔を出す。のぞかせる。だから私がやることはその蓋を外してやること、檻からわたしを出してやること。そうして自在にしてやること。そうであることを、認めることだ。ただそれだけのことである

          思われることはもうそこに在る