連載小説 歩行遊歩道をゆく④

 足早に、歩く、男の、背中が見えるようだ。彼は、どこに向かって、歩いてゆくのだろう。沈黙のままだ。風が、ひとつ、吹く。歩いていれば、楽になれる、と、思って、歩くのかもしれない。どこまでも、歩いてみるけれども、行き先は、今も、わからないでいるようだった。
 風が、ひとつ、問いかけたようだった。おまえは、どこに行くのかと、訊いたのだった。男は黙ったままだった。男には、口がついていないのかもしれなかった。夕暮時、烏が鳴いた。烏の黒光りする羽根が、太陽の光を散らした。私はどこへゆくのだろうか。男は、声もなく、そう問うた。烏は言った。おまえには、脚は、なかったはずだろう。烏は、黒いゴミ袋を食い破りながら、そう言った。烏の眼が光る。私は耳を澄ます。ここは、私のいるべき場所ではないのだ。そう言った、ように、思えた。空は言った。おまえはこれから、帰るところなのだよ。そう言った。烏が飛び立つと、散らかされたゴミたちが、風に吹かれて、飛ぶ。私もまた飛びたい、と、彼は思うが、彼には翼はなかったからだ、飛ぶことはできなかった。やがて、森に出ると、彼は、四つん這いになって、歩きはじめた。犬のような姿で、歩いている。その彼のことを、樹が、見ている。樹は、550年前から、ここに生えている。樹には、子どもはなかった。樹は、ひとりだったからだ。明くる朝には忘れてしまうだろう、と、樹は思う。かつて見た夢も、きっと、そうだ。樹がまだ小さな頃のことだった。樹のまわりには、巨きな樹が、たくさん生えていた。人間たちがやってきて、それらをみんな、刈りとったり、抜きとったりして行ってしまった。私は悲しかった。樹は一度だけ、そう言ったものだった。もう一度あれらの樹に会いたいとも思ったが、抜かれたものは、帰ってはこないから、その夢も、もう、忘れた。男は歩いていると、やがて、川べりに出たものだった。石ころがごろごろしていて、歩きにくいなぁと、彼は思う。川に入って水浴びをしようとするが、思ったようにからだが動かなくなってしまったので、少しばかり、その場で休むことにしたものだった。上を見上げると、空はとてもよく晴れていた。雲一つない青空だった。目をつむった。誰だっけこの身体は。そう思いながら、眠ってしまったようだった。夢の中で、男は黒い犬だった。犬になった彼は、舌をはふはふとさせながら、真暗闇の中を、うれしそうに走りまわっていた。なんにもない暗闇だった。向こうのほうに、小さな白い光の点がある。そちらのほうへ行きたい気がする。けれども行けなかった。目をさますと、男はするどい石で、自分の左手首を切ってみた。すーっと切れ目が入って、真っ赤な血の滴が、じわあっと浮かびあがった。男は舌でその血を舐める。血の味がする。笑う。立ち上がって、川に飛びこんだ。川は思っていたより深かった。流れも早かった。流される。きもちがよかった。このまんまでも、いいかもしれないなぁ。男は思うが、まだ死ねない。死ぬにはまだ、早すぎる。男は泳いで、川岸に手をかけて、からだを引き上げた。ずぶ濡れのからだのまま、やはり空を見上げたものだった。左の方から風が吹いてくる。あちらへ行こうと思う。思われた。二足歩行で歩いた。死骸があった。蟹の死骸だった。石で割って、その身を食った。味噌もすすった。殻は川にほうった。私は会社員だった。男は言う。
 
「あの頃はほんとうになにをしていても、たのしくなかったんですよねぇ。」
 
 私の前に座る男は、伏せ目がちに、そう語る。脚は微かに、貧乏ゆすりをしているようだ。口先は、ぶつぶつと震えている。何を思い出しているのだろうか。思い出してなどは、いないのだろうか。私は席を立って、窓辺に歩いていく。ブラインドをあげて、病院の外を、少し見た。駐車場では、三人の子どもたちが、ケンケンパをしながら遊んでいる。二人は男の子で、もう一人は女の子だった。私もよくあの遊びをしたなぁ、と私は思って見ていた。

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