展示空間の制作過程、その変容。

呼吸が整わなくてはできないのだな。息と息とが続く時には続く。生命だからだ。途切れ途切れのものはひとつには生まれない。拡散してしまうとひとつではなくなる。私はひとつになりたいのだなと思う。拡散するような配置の仕方もあるのだとは思う。それは、星屑たちの散乱する飛び方のような配置の仕方である。それとは違う配置の仕方もある。それは、あるひとつの星を形成する仕方である。あるひとつの星が生まれるためには、その星の核となるものが必要となる。それはひとつの呼吸の流れのようなものである。それがある程度決定される時には、それに沿っていくことができるけれども、それがまだ拡散の状態にある時には、それがどんどんと拡散してしまうがゆえに、ばらばらになるという事態が生ずることになるのだろう。音楽であれ絵であれ小説であれ論稿であれ。そこにひとつながりのまとまりがうまれるためにはそのようなつながりかたというものが必要になるのである。私の展示が進まないのはそういったことが原因だろうと思う。呼吸感の違いに絵のそれぞれに感応しすぎるがあまりに、異なる呼吸のなかで振り回され、カオスへと向かう。もちろんそこにはそのひとつひとつとしての連関における流れはうまれくるものではあるのだけれども。モノと対話をするとはいうけれども、あるひとつのものとの対話から、その都度の対話とその呼吸によって選ばれたものをつなぎあわせてゆくのか、それともまずはこちらのからだをあるひとつの母胎として包括的にその息=生を流し込みながら、それと共にモノたちと対話をしていくのか。母胎がそれらを含み込むのか。それとも散らばったものを散らばったままつなぎあわせるのかというところ。私はおそらくは前者ではなくて後者からスタートしたのだけれど、これからは前者にいくのかもしれない。拡散から総合へ。いやちがう。ばらばらなるものから母胎内でのあるひとつながりのまとまりへ。

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