回画 ふとさとりのことを想ふ夜には
死んだらどこにいくのか、とうちの人が、この頃言う。白やんが帰って来ないためである。そう訊かれたとしても私には本当にわからない。死んだこともない私には、わからない。
死にまつわる言表をいろいろに読んでは来たけれどもわからないものであり続ける。わからないからこそ人は語り続けるのかもしれないとすら思われるものだ。
どうして今、さとりのことをまた思い出しているのかはわからないけれども、先ほど、須藤さんからご恵贈いただいた本である『なしのたわむれ 古典と古楽をめぐる手紙』の最後の言葉を読み終えたところだ。素敵な協演を聴いた心地がしてとてもいい気持ちである。
さとりは死んだのか。ふと、そう問いかけたくなる気持ちを抑えられずにいる。
死んだらどこへ行くのだろうか。どうなるのだろうか。宗教は語り人が語り、さまざまなる言葉の織り目のなかでもやはりわからないことをただただ、わからないままにでも人は生きることができる。
ただ私自身には未だ揺るがされることのなかった風景があった。
さとりはあの身体から離れて空へとちらばった。
この身体よそらのみぢんにちらばれ
音情を変えた賢治の歌声が私のなかにこだまする。
あれから幾たび、あの庭でさとりと語らい合ったことだろうか。それは私の幻影に過ぎないものだろうか。それもまた永遠にわからぬことであるのかもしれないけれども。
さとりよ
今 おまえは
どこに いるのだろうか
わたしはここにいるようだよ
さとりよ
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