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私のための歌

仕事帰りに、高円寺のマクドナルドでnoteを書くことにした。
マクドナルドの斜め前に広場があり、そこの端っこに人が集まっていたのでちらっと覗いてみると、女の子が路上ライブをしていた。
胡座をかいて、あのちゃんのような可愛らしいおぼこい声で、オリジナルソングなのか、メッセージ性のある歌を声を枯らしながら歌っていた。
私はそれを見て、同じようなスタイルで沖縄の国際通りで路上ライブをしていた頃の自分自身を思い出した。

私もやってたんだよな、あれ。
今の自分には考えられないことを、昔(といってもほんの2年前だけど)の自分はしていたんだよな。
大学3年性の頃から独学でギターを練習し始めて、大学4年性の頃からライブ活動を始めた。
大学卒業して社会人になり、介護の仕事をしながらも精力的に音楽活動を続けた。
いつしか都内での活動だけでは物足りなくなり、ギターを背負って(というか自転車に括りつけて)自転車で日本一周の旅へ出た。

旅に出る前に作った動画👇
https://twitter.com/ssw_yusun/status/1445205396595957775?t=odDL3znZ_Gl4RJzP1D8ing&s=19

旅のエピソードを語りはじめるとキリがないので書かないでおくけど、とにかく道中では色んなことがあり、嬉しいことや楽しいこと、面白いこともあればトラブルもあり、たくさんの人に出会って色んな価値観に触れて、とんでもない速度で自分が成長した一年だった。
今考えると幻みたいで、本当にやったのか?って不安になるぐらい怒涛のような旅だったけど、それがなければきっと今の自分はいない。

徳島県・大浜海岸

「女の子が自転車で日本一周?やめなさい」
色んな人からの忠告を振り払って、契約社員として働いていた仕事を契約更新のタイミングで退職し、当時住んでいた東小金井の家を引き払って実家に荷物を送った。
『男はつらいよ』の大ファンである父は「流浪の旅、ええな〜。楽しんでこい!」と何の躊躇いもなく言った。
自分の娘がギターを担ぎ、野宿しながら自転車で旅をするなどという狂ったようなことを言い出したにもかかわらず、何のためらいもなく送り出してくれたので逆にちょっと怖かった。
(今考えたら、父も心配はしていたんだろうなと思う)
母は「危ないからあかん!それに、そんなことして何の意味があるん?」と反対したが、「これやらんかったら、死ぬ時に後悔するねん!」と何度も何度も繰り返し説得するうちに、渋々許してくれた。
まあ、許してくれなくても行ってたけど。

野宿をしながら、時には旅先で出会った人の家に泊めてもらいながら、自転車で移動し、全国各地を巡って自作の歌を披露して投げ銭をもらう体験は、私の人生観を大きく変えた。
沖永良部島では地元のテレビ番組に急遽出演し、歌を披露するという信じられない経験もした。
自分が創り出したものが人々の心を動かし、またお金をも動かすのだという事実にはじめは驚き、やがてそれが自分にとって大きな自信となった。

日本一周中に書いていたnoteアカウント↓

そして旅からの帰還。
旅が終わった後も、もちろん人生は続いていく。
非日常が終われば、日常が再び始まるだけだ。
再就職や、今の彼との出会いなどがあり、私は少しずつこれまでの活動スタイルを見直し始めた。
そして今まで月に2、3回は行っていたライブ活動を、完全に引退した。
決定的な理由は、もともと不安定だった精神状態が悪化してきたことと、旅の道中でたくさんの人たちの前で歌を披露する中で、実際は自分が人前でパフォーマンスをすることがあまり得意じゃないし、むしろ苦手なんだということを知ったことだった。

大学を卒業した後、両親や先生など周りの大人たちが喜ぶ進路に進まなかった自分自身に対して抱いていたコンプレックスが、何か大きなことしよう、何か普通の人がしないような、華やかなことをしようという思いにつながっていたんだと思う。
そのふつふつとした思いが力になって、音楽活動や自転車旅という、みんなができることではない貴重な人生経験を自分で推し進めていけたのだから、それ自体は全く否定していない。

だけど、やっぱりすごく無理をしていたんだと思った。
もともと軽いADHD持ちで気分の浮き沈みが激しいことがあったのだけど、旅の途中でその状態が深刻になったことがあって、旅が終わった後もその浮き沈みはさらに激しくなり、ライブの後なんかはどっと疲れて一日中布団の中から出られなかったこともあった。

だけど私は、そんな状態でもよく家で弾き語りの練習をしていた。
人前でパフォーマンスをすることは苦手だということは知ったけど、同時にギターを弾いて歌を歌うことは心の底から好きなんだということも知った。

「どうして辞めちゃうの?」「アルバム作って全国でライブまでしたのに?」「もったいないよ」「諦めるの?」「きっとまたやりたくなるよ」「自分が行きたいように生きたらいいよ」
色んな人から色んな意見をもらったけど、私は何かを失ったわけでも、はたまた何かを得たわけでもなく、元々そこにあった自分を発見しただけだった。
だから誰のどんな言葉もありがたくいただき、そのうえで右から左に流した。

私の歌は、かつてみたいに大きく人やお金を動かすことはしなくなった。
だけどその代わりに、今まで自分以外の誰かに向けて歌っていた歌を、もっぱら自分自身に向けて歌い始めた。
家に一人引きこもり、歌いたい歌を思う存分歌う。たまに彼とセッションしたりする。
ライブをして、旅をして、たくさんの人たちと繋がり、応援されていた以前に比べると、笑っちゃうぐらい地味な毎日だけど、私は以前よりも歌うことが好きになった。

気が向いたらYouTubeにカバー曲やオリジナル曲を上げたりするけど、そのとき自分が歌いたいと思った曲を気まぐれに歌っているだけで、ライブ活動をしていた頃のように「再生回数を伸ばさないと!」「チャンネル登録者数を増やさないと!」という謎の焦りは全くない。

(でもやっぱり聞いてもらうと嬉しいから、Youtubeのリンク貼っちゃう)

自分一人のために歌を歌っているときは、純粋に音楽を楽しむのと同時に、誰かに勝ちたいとか、有名になりたいとか、昔バカにしてきた人たちに自分が活躍している姿を見せつけてやりたいとか、そんな屈折した執念がすーっと消えて行くような気がした。

旅に出る前、歌を通してできるだけ多くの人に注目されたいと思っていた頃、私はあたかも自分の内面と向き合い、内側のドロドロしたものを歌で吐き出しているふりをして、実はどこまでも外側を意識した“ビジネス内面“を一生懸命こしらえていたのだった。
ひたすら外へ外へと、自分の存在や一方的な主張を他人に認めてもらうためだけに歌を歌っていた頃の尖りに尖っていた自分が、旅を終えて、これでもかというほどにヤスリをかけられてまんまるになった。
そんな昔の私の尖った部分を好きだと思ってくれていた人にとっては、私がライブ活動をやめることは、面白くない、つまらないことだったかも知れない。だけど私自身にとっては、自分の寿命が伸びることと同義だった。
だって、あのままの状態で生き続けていたら、自分の心と向き合うことを疎かにし続けていたら、私はきっとどこかで心か身体を壊していただろうから。

高円寺の駅前で胡座をかき、声を枯らして歌っていた女の子。
あの子は、売れるために必死になっているようには見えなかった。
ただありのままの姿で、ありのままの言葉を、心の底から歌っているように見えた。
昔の自分の姿が重なって、かと思えば昔の自分とは全く違うようにも見えて、懐かしくもなり、息苦しくもなった。
あの子が将来、もしもビッグな歌手になったとしても、売れずに諦めて就職したとしても、どちらにせよ、高円寺の駅前で胡座をかいて歌っていた頃の自分が、その後の人生で時々そっと背中を押してくれるのだろう。

私は、ビックにはなれなかった。
aikoにも、椎名林檎にも、指先すら届かなかった。
だけどそれでも、そんな人生でも、いつだって歌が背中を押してくれた。

きっとまだ、私の旅は続いている。
私はこれからも、誰のためでもなく、自分のために歌を歌い続けようと思う。

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