幽雪

曹洞宗の修行僧です。

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最近の記事

空虚な言葉

2017/03/05 11:03 不安なのでしょうね。 水をそーっと冷やしていくと、0度以下になっても凍らないそうです。 過冷却と言います。 そこにちょっと刺激を与えると一気に凍って行くわけです。 悟りとかと言うのと似ていると思います。 深く禅定にある時、何かの縁で覚醒するものがあるのでしょう。 それが「信」となって固まるのだと思います。 不思議な現象ですが、確かにそういうことがあります。 信決定ですね。 だから、本気になって人に勧めることが出来るのでしょう。 でも、

    • Don't Trust. Verify.

      常に新たなる時代をかき分けて、生き抜いて行かれますように。 何か役に立つようなことも言えないので、以下、自己反省の独白(毒吐)です。 noteでも書こうかとも思うのですが、あまり人に言うべきことでもなく、 他に聞き手を想定出来ないので、お許し下さい。 でも、全部読んで感想を言わなくちゃ、などと負担に思わないで下さいね。   ****************** Don't Trust. Verify. 「信頼するな。検証せよ。」 これは、ビットコインを開発しているBlo

      • 修証一等のこと

        これが、道元禅師の 核心だな、と思うようになりました。 私は正法眼蔵など、ほとんど読んだことがなくて、岩波文庫版は持っているものの、必要な時にテキストを確認するのに開くだけです。 弁道話も、居士の頃、総持寺日曜参禅会の講話のテキストで読んだことがあるはずなのですが、全く腑に落ちていないのです。 そして、完全に道元禅師を見誤っていたと思うのです。 その原因は、一般的な「禅」「禅宗」というものに対する思い込みです。 それは、臨済宗の「信仰」に基づいて、世間に流布されている「常識

        • リトルブッダ・ Ram Bahadur Bamjanのこと

          十数年前に、この少年の話を知りました。 全く飲食しない完全な断食で坐り続けているというのです。 しかも、何ヶ月も、です。 そんなことがあるわけない、という興味本位の話が広がっていたようですが、 当時、それ以上に詳しい情報は見つけられませんでした。 何も喋らず、只、坐り続けているだけで、 人々がドカドカお参りに来ている、というのが興味深かったです。 先日、You Tubeを見ていたら、この動画が出て来ました。 すぐに彼だと分かりました。 ネパール:リトルブッダ、リターン-

        空虚な言葉

          「禅宗は仏教ではない」

          S老師様 先般は、真摯なお返事を賜り、誠に有り難うございました。 せっかく、ご縁を頂けたので、曹洞宗について、このところ私が色々考えていることを、 これからの宗門を担って行かれる貴師にぶつけてみたく思いました。 話の起点として、30年前に曹洞宗だけでなく仏教界全体に衝撃を与えた本覚思想批判を持って来たいのですが、私は不勉強なので、松本史朗著『禅思想の批判的研究』についての石井修道氏の書評「駒沢大学仏教学部論集第25号・平成6年10月、273ページ」 http://repo

          「禅宗は仏教ではない」

          末期の救い

          謹啓 先日は、久し振りにお声が聞けてうれしく存じました。 いつもながら、現場の生の声に接するようで、有り難いことです。 さて、今回は、何か書いておかなければいけないような気がしています。 悟りということ。末期の救いということ。 「EOの悟りと釈尊の悟りと同か異か。」 私は、この問いに非常に戸惑いを覚えます。何かしら非常にしっくりしないものを感じる。 そんなことどうでもいいじゃないか、というのが本音なのですが、ことが「悟り」という高尚そうな話ということになると、いい加減にもでき

          末期の救い

          無明庵・第7回公開禅問答

          [3507]■ ◆第7回 【公開禅問答】の出題です。 by:崩残 2006/04/11(Tue)06:47:51 http://www.mumyouan.com/k/?T3507 ・出 題・ 老師は、 庭に生えている、一本の竹を指差すと、 刀を持った武士に、こう問いかけた。 お前さん、 あの竹を、 刀を、鞘から抜かずに、 斬ってみなさい。 ◆ ------------------------------------------------------------------

          無明庵・第7回公開禅問答

          無明庵への手紙

          前略 たまたまそちらのサイトを拝見しましたところ 「26. ほうざんの落語集 」(注;リンク切れになっているようだ) 「27. 公開禅問答合戦 」 が目にとまりました。 触発されるものがあり、お手紙書いてみたくなりました。 先ず、私の回答を記してみます。どちらの公案も同じ答えになります。 (1) 老師「いいか。これはわしのもっとも大切な教えだ。 よく聞くがいい。お前たちは今日かぎり、 残らず、すべての経典/グルを捨てなさい」 三人目の僧侶は、 黙って出て行くと、只、草取りをし

          無明庵への手紙

          EOからの手紙24・末期

          EOからの手紙24・末期

          EOからの手紙23・出会いの思い出

          あの日は どの日 その日は この日尋ねし僧あり 驚きて 木を鳴らす 群僧色(ぐんぞういろ)の悼(いた)み 帰るところものなく とどまる 戯(ざ)れ言の 分からぬ僧あり 雲ひとつない空 話しても 話さなくても 静かな日 打つ僧 打ちやすい僧 師走晴れの下で 悟(ご)の話 悟の大きさの話 僧に石を持たせる 「いない者」が噂をする 僧が唯悟(いご)にそっと触れてくる 何を言う あのじじいたちめ 異悟(いご)だらけ 東西南北 どれが 好き ボクは ここが好き 言葉に

          EOからの手紙23・出会いの思い出

          EOからの手紙22・『微妙な』言葉

          釈迦から、2500年が過ぎた。 人々は、「それ」を探せ、「それ」を求めよ、「それ」だけが最高だと言われ、 「それ」を探し、「それ」を求め、「それ」だけが最高だと思った。 だが、ときおり、 実にきわどい事を言う賢者たちが存在した。 彼らは言う 『「それ」は探すと、決して見付からない。探さねば、すでにそこに在る』 かくして、ある探求者の一団は、、、なんと・・・・・ 「探さないようにして、、、その、すでにそこに在るものを、・・・探していた」 ・・・・・・・*********・・・

          EOからの手紙22・『微妙な』言葉

          EOからの手紙21・無というド田舎

          これは、十への手紙・・・ あとの同封物は、つまらん提唱 1994 2/6 禅なんか嫌だ、いやだ、、と言いつつ、 EOがここまで数ヶ月も禅にかかわった理由はたったひとつである。 それはその人達が世界の中で、唯一『自分を空しくする』修行をしているからだ。 他に、そんなことをする集団はどこにもない。 世界であれ、宇宙人であれ、むなしく、空虚にしてゆく民族は殆ど存在しない。 すべては、獲得、蓄積、変化、複雑化、合理性に向かう。 ところが、TAOと禅の住人だけは、もっているものを

          EOからの手紙21・無というド田舎

          EOからの手紙20・只在宗

          じゅー へ いっやー、ひさびさに、『手紙』を書けるので、うれしいな。 言わずと知れて、私の文章は、途中から、たいてい誰に言っているのか、わからなくなってゆく。そういうわけで、のびのび遊ぼうと思って書き出した手紙がシリアスなものに仕上がって、つまらんタイトルをつけて一般原稿に回されるのが常である。 こういう膨大な手紙の中で、希に、まったくEO氏が個人にあてた手紙が存在するが、それはひどく希なことである。年に10通もない。 ようやく、十の文章の味わいを見て、その希な事がおき始め

          EOからの手紙20・只在宗

          EOからの手紙19・マッチ売りの少女

          1994 2/2 明け方 4:00きっかり。 寒いなぁー。月が青白く、風が鳴っている。 こんな夜は家のない路上の人達をいつも思い出す。 僕は、のうのうとコタツでこんなものを書いている。 肉体の飢えや寒さや苦痛にくらべたら、 僕らの苦悩なんて、本当はなんでもありはしないのかもしれないし、 そうではないのかもしれない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 手が止まってしまって、 30分そのまま座っていて、電気を消して、、、横になった。 また、むっくり起き上がって時計を見たら、

          EOからの手紙19・マッチ売りの少女

          EOからの手紙18・最後のご挨拶

          ここ2年の間に随分と多くの人達とかかわったような気がするが、 こういうものは、すべて無常のものであり、 いずれ、我々は縁を失い、それぞれの死に向かって散開してゆく運命にあり、 出会いとは、まさに別れの始まりである。 随分といろいろな人達がこの青年に一方的に説教され、また逆におおいに、あなたたちから学んだ。でも、私が言えることは、もうすべて言い尽くしてしまった。 私は、たった一冊で、 僧侶、俗人の隔てなく、 道の門を探り当てることのできる書を書こうとしたのかもしれない。 あとは

          EOからの手紙18・最後のご挨拶

          EOからの手紙17・兎

          正しい道を語り続けることによって、 ただひとりの衆生をも救えない場合がある。 間違った道を語り続けることによって、 大勢の衆生が救われる場合がある。 正しい道を守ることは、おのれ一人の道を守ることは出来る。 だが、間違った道を用いると、時には100もの者の助けになる。 おのれが仏であり続けることは、おのれ一人の役には立つ。 だが、それは時には、誰の役にもたたないことにもなる。 導師は鏡のようなものである。 悪人が彼の前に立てば、導師もまた悪人を映す。 鏡そのものは悪人になる

          EOからの手紙17・兎