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「禅宗は仏教ではない」

S老師様

先般は、真摯なお返事を賜り、誠に有り難うございました。
せっかく、ご縁を頂けたので、曹洞宗について、このところ私が色々考えていることを、
これからの宗門を担って行かれる貴師にぶつけてみたく思いました。

話の起点として、30年前に曹洞宗だけでなく仏教界全体に衝撃を与えた本覚思想批判を持って来たいのですが、私は不勉強なので、松本史朗著『禅思想の批判的研究』についての石井修道氏の書評「駒沢大学仏教学部論集第25号・平成6年10月、273ページ」
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/14255/KJ00005120899.pdfを元にして、話のネタにしたいと思います。

1.仏教とは何か

松本氏は、「仏教とは縁起である。」とされ、「私は『律蔵』「大品」に従って、釈尊は十二支縁起をさとったと信じる。」と言われます。
かなり無邪気な主張だと思うのですが、氏にならって、私の考えを述べれば、

  「度一切苦厄」が仏教の目的であり、結果です。
  つまり、釈尊出家の動機であり、成道の当体です。
  それを可能ならしめたのが、「照見五蘊皆空」です。
  それを実現した方法論が、坐禅です。
  したがって、仏教の中心にあるのは、「空」と「坐禅」です。
  これが、それぞれ、教理と実践の中心です。

仏教が「宗教」である時、ここに「信仰」が入って来ます。
松本氏が、「釈尊は十二支縁起をさとったと信じる。」と無邪気に信仰告白されているような信仰です。仏教の中には多種多様な信仰が膨大に存在します。それらは互いに無関係に乱立しています。
松本氏が、「もしも禅が“思考の停止”を意味するならば、禅思想が仏教そのものを否定することは明らかであろう」と言われるのは、無関係な信仰間の相互否定です。
松本氏は、「思考の停止」と言いながら、その「停止」とは、車が停止するというような日常的・常識的な事態との類推で空想しているだけと思われます。思考が停止した事態に遭遇したこともなければ、そのように努力したこともないのでしょう。

「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。」

普勧坐禅儀

これは基本的な出発点です。坐禅修行の方向を定めたものです。

思考を停止させようと本気で取り組んだら、それは容易なことではない、ということがすぐに分かるはずです。自動車を止めるように、自在に止めることは、出来ないのです。
つまり、自動車のブレーキが壊れている状態です。
それ故に事故が起きるのです。
人間の脳とは、そのように出来ています。

私たちは、言語の世界を生きています。
その世界は脳内に構築されています。
7万年前に奇跡的に言語を獲得したところから、人類の飛躍的な発展が始まったのです。
そして、その言語が、「苦」をも生み出したのです。

釈尊が菩提樹下で確認したことは、この世界は、私の「中」で言語によって構築されていて、その実体は存在しない、ということです。
それが「空」です。
良寛さんが、この事態を詠んだ歌が、これです。

淡雪の中にたちたる 三千大千世界(みちあふち)
     またその中に 沫雪(あわゆき)ぞ降る

良寛

「一切皆空」だから「度一切苦厄」が結論されるのです。

このことから派生して、亡くなった方が、「仏」であることは明らかです。
ここに「葬式仏教」を礼賛すべき根拠があります。
「仏」というものを、何か崇高なもの、超越的なもの、目的視すべきもの、というようなものと勝手に空想するから、おかしくなるのです。
「空」であること、実体の無いこと、ただそれだけのことです。

2.「見性成仏」という信仰

「釈尊は、縁起を思惟して、さとった」と松本氏は信じておられるようですが、この「さとり」「さとる」が大問題なのです。
「禅宗」が「宗教」であるのは、固有の信仰があるからだと思います。それは、「祖師信仰」と「見性成仏」であると思っています。それらは、中国人が創作したものです。

私たちが毎朝、読み上げている伝燈歴代仏祖というものは、歴史的事実とはかけ離れたものだということは、学問的には明確なのでしょう?
それは「信仰」であって、その信仰をもって曹洞宗が正伝の仏教だという正統性を主張するのは、かなり無理があるように思います。自己言及のパラドックスみたいなものです。

そして、最も厄介な信仰が「見性成仏」です。
浄土門の「極楽往生」という信仰は、一見して分かるような純朴な信仰ですけど、この「見性成仏」は、夥しい数の証人と称する人がいることによって、「事実」であるかのように、自他ともに思い込んでいるのです。松本氏ですら、「さとる」という言葉を無邪気に使ってしまうほどに、です。

道元禅師は、それに対して、断固として否定したのです。
それは、仏道ではない、と。

「それ、修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本證の全體なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるがゆゑなるべし。すでに修の證なれば、證にきはなく、證の修なれば、修にはじめなし。」

弁道話

宗門人は、先入見を排除して、道元禅師に真摯に参ずるべきだと思います。
困ったことは、徹通義介以後の祖師方が悉く宋代中国禅に汚染されていることです。
臨済宗は、丸ごと宋代中国禅を移植したものです。
道元禅師は、宋代中国禅を否定して、歴史に屹立しているのです。

3.嘘も方便

更に問題を複雑にしているのは、悟ったという人の中には、意図的に「さとり」という言葉を使う人もいることです。衆生済度のための方便として、です。
私が発心寺僧堂に安居していた時のことです。
「平常心是道の話の中で、『知にも属せず不知にも属せず』とあるのは、『道』というものが、本来ないからではないか。」と気づいて、雪渓老師に独参を願い出ました。その時の雪渓老師の答えが、

「そうです。
人の考えの入らない所を『今』と言っている訳ですが、それを仮に道とか法と言っている訳です。道とか法をない、と最初から言ってしまうと、人を導き入れることができないから、後で、捨てさせるしか方法がないんです。
あるとか、ないとかと言うのも、人の考えです。」

霊松記

雪渓老師は、「さとり」を方便として使っていたのだと思います。
しかし、その門下には、悟ったとか身心脱落したとかと、無邪気に主張する人が何人もいます。
「見性」は「外道の見」であることを徹底的に検証、立証する必要があると思います。

4.優れた問い

「問在答処、答在問処」でありますから、大切なのは、適切に問うことであり、優れた問いが、歴史を作るのです。

「十五日已前不問汝、十五日已後道將一句來。」
これは、雲門大師が投げかけた問いです。「十五日」というものには特別に意味はない、というのが一般的に言われていることのようです。
しかし、私は、この「十五日」に特別な意味を感じてしまいます。
十五日は、満月です。
それは、「円成」です。
「肯心自許」底の者がいれば、一句述べよ、という意味に思えます。
その場で、雲門大師の前に出て行くこと自体、厳しい選仏場だったと思います。
そういう者が出て来なかったので、「自代云。日日是好日」と大師ご自身の所感を述べられたのです。

そして、歴史を作った最も偉大な問いは、これです。

「狗子還有佛性也無。」

これは、小賢しい知性で思いつくような頓知ではありません。
この僧が、確かに自ら徹して確かめた、言語を脱した世界を禅師にぶつけたのです。
趙州禅師と同じような問答が興善惟寛禅師にもあるので、おそらく、この僧は、何人もの禅師にこの問いをぶつけていたのではないか、と思います。
言語の世界から脱した時、そこには、「仏性」などという概念的なものは存在しない、即ち「空」だと確かめたのです。
勿論、そこには、「悟り」も「仏」も、そして、「苦」も存在しないのです。

5.本気になること

松本氏は、
「一体、自分が仏教だと信じているものを仏教ではないと言われて、だれがだまっていられよう。」
と言われます。
誠に、その通りだと思います。

私は、物理学者になりたくて、大学に入りました。入学した直後に、柴谷篤弘の『反科学論』に出会い、衝撃を受けました。科学を批判する人がいるなど、思ってもいませんでした。そこから、初めて「科学とは何なんだろう」という探究が始まってしまいました。そして、更に、『カラマーゾフの兄弟』と出会って、人間の心の深淵の存在を思い知らされました。

松本氏の「如来蔵思想は仏教ではない」「禅宗は仏教ではない」という断言は、
道元禅師の「それ、修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。」と同じように、とても小気味よくて、私は好きです。
本気にさせてくれるものとの出会いは千載一遇のチャンスです。

「十五日已前不問汝、十五日已後道將一句來。」

                               合掌

  令和6年1月11日

                        海蔵寺・副住職
                          浅田幽雪 九拝
                        yusetsu@gmail.com


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