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EOからの手紙21・無というド田舎

これは、十への手紙・・・
あとの同封物は、つまらん提唱

1994 2/6

禅なんか嫌だ、いやだ、、と言いつつ、
EOがここまで数ヶ月も禅にかかわった理由はたったひとつである。
それはその人達が世界の中で、唯一『自分を空しくする』修行をしているからだ。
他に、そんなことをする集団はどこにもない。

世界であれ、宇宙人であれ、むなしく、空虚にしてゆく民族は殆ど存在しない。
すべては、獲得、蓄積、変化、複雑化、合理性に向かう。
ところが、TAOと禅の住人だけは、もっているものを減らしてゆき、空しくする。

『学問をするときは、日増しに増やしてゆく。
だが、道を歩く者は、日増しに減らしてゆく。』・・*老子

こういうことが言える。
もしも禅が『悟り』という商品、看板を永久にとっぱらったら、
禅は、この世で最も無価値な集団になる
だが、それこそが本当に禅において起きるべき事だった。

社会貢献をするわけでもなし、かならずしも、皆ふっきれているわけでもなく、
彼らが何を修行しているかと言えば、ますます無知になり、
日々ますます役立たずになってゆく。僧侶として尊敬されることもなく、
ただの乞食、気まぐれ、ただの『空虚な人達』と呼ばれる集団になる。
そこから、社会的な価値が欠落し、悟りという目的が欠落したとき、
そこで行われる修行の要点は、獲得ではなく、身軽にしてゆくことだけである。
しかも、そこでは、世間常識も宗教も、禅や悟りすらも降ろさせる。

こうした集団はたったひとつのものを、いうなれば、、崇拝する。
それは無である。
私が禅に目をつけた大きな理由のひとつは『無』である。

多くの禅師は無を観念の産物や言葉の方便にすぎないというが、
私は事の最初から無が墓標だった。
すなわち、いかに無となり、無に死に、無に取り囲まれるか。
だから、悟りなどというものはとんでもない邪魔なものだ。
悟りではなく無こそが禅仏教の本質である。

『無は我々の本当の魂の土地である。
だが、そこの住人は悟っていなければ発狂する。』
これが私の仏教の全貌である。

これを、すごく平坦な言い方をすると、
その無の土地とは、『ド田舎』のようなものだ。
何もないという点で。
すると、そこに都会育ちの刺激を求める者が住めるわけがない。
そうすると、そこでのんびり過ごせるのは、ごく素朴な人達である。
都会が世俗、田舎が寺とするならば、
このたとえをもっと極限に拡大すると
こうなる・・・
『何かひとつでも存在物があればそこは都会となり、
全く何もないのが田舎=無の土地となる。』

とするならば、当然、そこの無の土地に生存できる気質、素質というものがある。
それは、何も極端には求めない人達だ。

完全に無になったらあなたは悟るとも言えるし、
あなたが悟ったら、無の土地で暮らせるようになる、とも、どちらとも言える。

私は何度も言うが、
そもそも、その無は『本来は全く世間的な領域ではない』という大前提があったために、
これゆえに釈迦は説法をためらったのである。
釈迦が説法を開始したのは、世界の人々をそこへ向かわせるためではなく、
少数の『究極の田舎暮らし』の志願者、すなわち無に住みたいという者のためである。

また、そこは、とてもいわゆる人間的な目的意識を持ったままでは、
生存そのものが出来ないほど過酷に透明で、何もない。
結局は、無が好きならそこで暮らせるし、
そこが怖くて嫌いなら住めないという「自然淘汰」がここには存在する。

蓮や某や私や慧唯が喫茶店に座っていたら、
普通の人がそこに加わったら
普通では、とても耐え得るものではない長い沈黙がある。
そこに同席できるのは、あなたのような者に限られる。
すなわち、そもそもその静寂の深みが好きな人たちである。

だから、そこでは悟りなどを求める騒音、雑音を出すと
厄介なトラブルを自分に引き起こすことになる。

そうではなく、禅仏教は、本来自分も世界も、
内面次元において、完全な無に帰するための努力だ。
だから、そこに見解など生き残るはずがない。

私が門下を脳天にあれほどまでに留意させるのは、
それは単なるプールに入るまえの準備体操のようなものである。
もしも十分に脳天の穴をほぐしておかなかったら、
実際に膨大な、無辺の、無条件の無や静寂が、あなたを消し去ろうと迫って来た時に、
錯乱や恐怖で、あなたの脳や雑念は爆発してしまう。
脳天が空いていれば、
あなたは避難できる。だがこの避難は「消極的な意味」での避難ではない。
脳天だけが唯一『無に対等に対面できる領域』だからだ。

もしもここが開いていないまま無に対面すれば、あなたの願望や心や記憶は死にたくないあまりに、もがき始める。
だから、いつも基本的な話に戻るが、我々の門下は
脳天留意を充分にしつつ、同時に闇や無のプールに飛び込む練習をするのである。

こうして、日々、背負ったものを減らしてゆき、自分を空しくしてゆく。

真の禅仏教の者は、悟りなどに目もくれない。
彼らは無に礼拝し、無を故郷とし、無に住む。
あるいは無に『近いもの』を礼拝する。
持っている者、達成した者、への礼拝はなく、
何も持たない者、闇、希薄なもの、無心な者、空虚なもの、砂漠、暗黒、
白い壁、何もない日、平安、眠り、これらのより空虚で無を想起されるものを礼拝する。
したがって、その礼拝に僧侶や寺があり得るわけがない。
偉大な者、悟った者、あるいは世間とは変わった何者かになる、などというのは
本来の禅仏教者にはもってのほかである。
それは我々の求める空虚の土地での田舎暮らし、無の次元ではないからだ。

世間もまた充分に何かを持とうとするわけであるから、
我々は世間的になるわけでもない。
すなわち、我々には、出家もなく、還俗すらない。
戻る場所は無だけなのである。

悟りなどというトリックさえなければ、
もっと早く、禅は『本物』を打ち出していた。
その本物の人達は、本当にただ、素朴で幸せな、いつでも無に消えることの可能な
幽幻とした人々だ。

悟って喜ばず、迷って悲しまず、
『なんでも、無になるんですから、よろしゅうございますなー』と言う人達のことだ。

もしも最大にして唯一の、、最初で最後の公案があるとするならば、
それはやはり『無とはなんぞや』ではあるまいか。
こうして
嘘の無で嘘の無をすりつぶして、
本当の無になってゆくように・・。

臨済宗は、嘘の無という芝居によって、、 
曹洞宗は、嘘の無という行儀によって・・・。

「只在宗」ではそれを加速しようとして、闇にまつわる瞑想をする。
そこで、何かを得るのではない。失って、楽になるだけだ。
苦悩はすべて、持つこと、保存、維持、獲得の衝動に始まる。

だから、無、空虚さ、『悟りなき座禅』が、
本当にそのままで好きになるのが
死人禅における闇の瞑想と脳天留意である。
この2本の足以外に、どんな方便も言葉も経典も必要ない。
無の住人になんでそんなものが必要であろうか?。
なのに、これほどまでに我々が説法を残すのは、
すべて、その過去の経典を焼き払うためである。
だからこそ、
日増しに無、無意味、無価値を説く者たちが、今後現れてゆくのは当然である。
EOは禅や仏教をつぶしてゆく。
いずれ、そのEOをつぶす完全無主義者たちが出て来るだろう。
かくして、無は研ぎ澄まされてゆく。
より、空虚な無の土地へ向かって。

無という『宇宙のド田舎』は
絶え間無い掃除の土地である。
そこは、唯一、
いかなる現象の出現をも許さない絶対の聖域なのである。

釈迦はそこからやってきた。
そして次のマイトレーヤもそこからやってくる。
彼らやEOがこぞって、
完全な無価値や無意味や無を説くのはそのためである。

いうなれば、我々は、
その究極のド田舎の、ただの掃除夫なのである。

経典は、塵
説法はそれを掃く、ほうき
だから、我々はただそれぞれの
自分の死に場所を
楽しみながら
淡々と掃除をするのみである。

1994 2/6  EOより十へ


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