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無明庵・第7回公開禅問答

これは、2006年に無明庵のサイトで行われていた公開禅問答への投稿とEOの論評、そして、私の感想である。良き刺激を与えてもらえた。
                             (幽雪)

[3507]■ ◆第7回 【公開禅問答】の出題です。 by:崩残 2006/04/11(Tue)06:47:51
http://www.mumyouan.com/k/?T3507

・出 題・
老師は、
庭に生えている、一本の竹を指差すと、
刀を持った武士に、こう問いかけた。
お前さん、
あの竹を、
刀を、鞘から抜かずに、
斬ってみなさい。

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これに対する幽雪の回答は、

第7回 【公開禅問答】への回答 2006/04/15 11:14

こんにちは。
今回はまだ間に合いそうなので、私も参加させて下さい。

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老師は、
庭に生えている、一本の竹を指差すと、
刀を持った武士に、こう問いかけた。
お前さん、
あの竹を、
刀を、鞘から抜かずに、
斬ってみなさい。
武士は、おもむろに立ち上がり、ゆっくりと庭を歩いた。
竹に近づくと、刀をキラリと閃かせた。
武士が静かに刀を鞘に納めると、
竹はバッサリと地面に落ちた。

*****************************

バカの一つ覚えみたいですが、
公案としては、こういう形しかないのではないかと思います。
ただ、以前は、どうしてこうなのか、ということについて曖昧だったようです。
先般、ヤフーの掲示板で少林窟の老師に対する批判を展開しようとするスレッドが立ち上がっていたことがあります。
私がクレームを入れたら、掲示板自体を撤回してしまいました。
その人は、臨済宗の居士のようでしたが、
少林窟の老師が、
「公案は、言葉に引っ掛かるかどうかを見るためにある」
と言ったということを、激しく批判していました。
実際のところ、私は、その人の批判の通りに
公案というものを「言葉に引っ掛からない」というレベルでしか
受け取っていませんでした。
方丈の教えは、確かにそこに力点があるからです。
「刀を、鞘から抜かないで、竹を斬る」
という、この言葉通り受け取ったのでは、実行不可能な事態を突きつけられた時、
どうしたら良いのか、という「考え」が頭を巡ってしまう。
その「考えが頭を巡る」という事態そのものが、
私の迷い(あるいは、私という迷い)そのものなのだ、という気づきを与え、その迷いを破壊するのが公案なのだ、と理解していた訳です。
その迷いが破壊されてしまえば、それで良い訳ですが、
どうしたら、破壊できるのか、というのが焦点になります。
「俗僧」君のような真似事をしても、スカッと行かない訳です。
だから、言葉に囚われないで、バッサリやれば良いんだ、
という程度の理解しか、私にはありませんでした。
「言葉について回り、考えを巡らせる」という事態を打破することが必要なのであり、
それは、坐禅と同じことです。
ところが、本当のところは、そんなものではない、ということに気付いたのです。
本当に、真実のところ、
「刀を、鞘から抜かないで、竹を斬っている」
のです。
既に。実に。本当に。誰でも。

「刀を、鞘から抜いて、竹を斬る」のは、「私」なのです。

その注釈の前に、
百丈野孤のように「第2幕」を続けてみます。

*******************************

①武士が、初めて参禅したばかりの人だった場合;
老師「何だ、刀を鞘から抜いたではないか!?」
武士「只、斬りました。」 
老師「そうだ。何でも只やりなさい。」

②武士が、古参の参禅者だった場合;
老師「切れ味はどうだ?」
武士は、再び刀を閃かせ、見事な居合で空を斬り、静かに刀を鞘に納めた。
老師「竹を片付けておけよ。」

③武士が、印可底の弟子だった場合;
老師「お茶でも飲もうか?」
武士、にっこり微笑む。

④武士が、印可底の弟子だった場合・ひねりバージョン;
武士「老師、この竹燃やしますから、鎌を持って来て下さい。」
老師「お前の刀で刻んだらどうか?」
武士「こんな刀では、役に立ちません。鎌が一番です。」
老師「バカとハサミは使いようだな。」

*******************************

さて、
「私」というものは、どこにあるのだろうか?
何を「私」と呼んでいるのだろうか?
刀を抜いた私は、どこにいるのだろうか。
竹を斬った私は、どこにいるのだろうか。
刀を抜く。
竹を斬る。
それは、同時ではない。
ところが、刀を抜いて、竹を斬る一連の動きが、
残像現象のように、一つのものに見えてしまう、思えてしまう。
その残像現象が、「私」を作っている。
その残像現象が、「私」自身だ。
それは、「幻」なのだ。
本当に、真実に存在しているのは、
刀を抜きつつある、そのことであり、
竹を斬りつつある、そのことであり、
終わってみたら、そこにたたずんでいる私が在るだけだ。
そんな言い方は、ただの屁理屈なのではないか、と疑った。
しかし、よくよく見てみれば、確かに、明らかに、無いのだ、
「私」と呼んでいたものは。
「私」というものは、ただの思い込みだった。
「私」というものは、ただの先入観だった。
「私」というものは、ただの固定観念だった。
驚きである。
無我など、瞬間に達成される。
既に無我だからだ。
瞬間解脱だ。
さて、さて、
尻尾が出たかな?
     幽雪 十拝

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これに対する無明庵のコメント

http://www.mumyouan.com/k/?T3511

■崩 残 より ↓
●あなたの回答は、どれも「すべて、不正解」ですよ。
竹の間の皆さんの「お目汚し」になってしまうような、
目も当てられないほど、「あんぽんたん」のひどいものばかりですね。
不思議なものですね。
その者に、何かが起きたか、起きないか、
それは、たったの一行でも、わかるものなのですよ。
ダイジ氏の、暗黒に輝くような言葉を見てみなさい。
ただ者ではないのが、仏教を知らない人の目にすら、一瞬でわかる。
だが、君の言葉には、ひとかけらの輝きもない。
なぜだろう。
それは、「何も、肝心なことが、起きていない」からである。
●私の着眼点というものは、回答の言葉が、
禅坊主どもの屁理屈に、かなっているかどうかなどではなく、
本当に、行き詰った本人の個性から出てきたものなら、
私は、不正解でも、「良し」としてきました。
あるいは、正解か不正解かではなく、点数という形で、
そこに「コントラスト」を過去の問答でも設けてきました。
そのような点から言うと、あなたの回答は、
せいぜい、20点ですよ。
禅寺で20年?修業しても、たったの20点とは、
なんとも、情けないものです。
さて、以下は、
あなたが自分の回答につけた言い分の一部、と私の言葉です。

>>「私」というものは、ただの思い込みだった。
>>「私」というものは、ただの先入観だった。
>>「私」というものは、ただの固定観念だった。
>>驚きである。
●いまだに、こんな程度のことを振り回している、
あんたの進歩のなさが、驚きですよ。

>>無我など、瞬間に達成される。
>>既に無我だからだ。
>>瞬間解脱だ。
●なんとも、醜い「私」が、居座って、
クソ座禅している上に、その自分の汚臭にも気づかないようだ。
「瞬間解脱だ」←別に、この言葉は、あんたの中の仏(「今」)が、
今そこで言っているのではなく、
「人の考え」と「記憶」が言っているだけですよ。

>>さて、さて、
>>尻尾が出たかな?
●↑これこそが、あなたの、ウンコ臭い「尾っぽ」です。
君は、(おそらくは)死ぬまで悟れないよ。
そして、君たちがよく言う、
悟れないでもいい、
悟りなどは、それ自体が、囚われだ(あるいは、ルアーだ)
悟りなど、そもそもない、
今ここが、既に、只だ、解脱だ、只これのみだと、
何万回、君が言っても、
君の姿は、どこまでも、こっけいで、哀れだ。
本当に、「自分」で「自分を見捨てれば」、
なんとかなる日も来る「かも」しれないが。

君に言っておく。
真の禅とは、「自己確認でもなければ」、
「無我確認でもない」
「無 確 認」だ
●たったの人ひとりも、斬れもしない、生かせもしない、
君の「無力な言葉」を振り回しては、
座禅にもなっていない(座れもしない)ケツを、
プルプル振り回して(クレヨンしんちゃんみたいに)、
竹など切ろうとして、刀を振り回す暇があったら、
その、薄汚れた寺と、
禅という色眼鏡との 縁を斬っておけ。
君のような禅を、日本語で、何というか、知っているかね?
「ひとり よがり」だ。
君のは、禅ではなく、
ひとりでヨガっている、「野狐ヨガ」なのだよ(笑)。
・追伸・
もしも、本当に、
もう一度、一から仏道を求める気力があるならば、
「私から問い」と、「君の答え」、そしてこの「私の君への言葉」
このすべてを、雪渓老師のところへ持って行って、
「私の落ち度は、一体、どこにあるのですか?」と問えばいい。
雪渓老師が、何と言うか、私も、密かに楽しみにしていよう。
_______________________________

幽雪の感想


「仏家には教の殊劣を対論することなく法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽を知るべし。」(道元禅師・弁道話)
結局、これが最も大切な視点になるように思います。
もっともらしいことを言っていても、本当に真実の修行になっているのかどうか、ということが問題なのです。
無明庵の禅問答に対する時の私のスタンスは常にここにあるわけです。
私自身が修行者ですから、真実の修行に向けて身を処すわけです。
だから、問答の勝ち負けとか、老師をやり込めるとか、というのは、
どうでも良いことですし、むしろ、
そういう態度は、公案を染汚(ぜんな)するものです。

②それは、「何も、肝心なことが、起きていない」からである。

その通りである。
何も起きていない。
一体、何があったというのだろう。
町へお華を買いに行って、帰って来る車の中でのことだった。
突然、明らかになったのである。
眠りから突然、目覚めるように。
それは、明らかに何かが「起きた」のではない。
何かの「体験」ではあり得ない。
「私」と思っていたものが、根拠の無いものであることが明白になっただけだ。
あまりにも意外な話だった。
そんなはずはないだろう、と思えた。
「悟り」などとは程遠い話である。
しかし、明らかに「終わり」だった。
「私」がいないんじゃ、話になりはしない。
あまりにも簡単な話なので、只の勘違いか、思い過ごしかも知れないと思った。
だから、そのまま放置して、経過観察していた。
そこに無明庵の禅問答に出逢ったものだから、「竹を斬ってみた」わけだ。

③いまだに、こんな程度のことを振り回している、
あんたの進歩のなさが、驚きですよ。

他の人のことは知らない。
只、私は驚いたのです。
だって、こんなこと、思いもしなかったのですから。

④「瞬間解脱だ」←別に、この言葉は、あんたの中の仏(「今」)が、
今そこで言っているのではなく、
「人の考え」と「記憶」が言っているだけですよ。

そりゃ、そうです。
この「瞬間解脱」という言葉は、最初に生まれたものです。
だから、ここで言っているのは、確かに記憶と言えば記憶です。
しかし、言葉というのは、全てそういうものなのではないでしょうか。

⑤君は、(おそらくは)死ぬまで悟れないよ。

無明庵の歴史に残るような「なまくら」発言ではないでしょうか?
EOは決してこんなことは言わないでしょう。
ダイジ氏なら、ビシッとこう言います。

と書いて、ダンテスの言葉を探そうとしたのだが、見つからない。
グーグルデスクトップで探していたら、2年前の手紙が見つかった。
ちょうど良いから、これも陳列しておこう。
*************************

謹啓
先日は、久し振りにお声が聞けてうれしく存じました。
いつもながら、現場の生の声に接するようで、有り難いことです。
さて、今回は、何か書いておかなければいけないような気がしています。
悟りということ。末期の救いということ。
「EOの悟りと釈尊の悟りと同か異か。」
私は、この問いに非常に戸惑いを覚えます。何かしら非常にしっくりしないものを感じる。
そんなことどうでもいいじゃないか、というのが本音なのですが、ことが「悟り」という高尚そうな話ということになると、いい加減にもできないような気がしてしまいます。
問題は、その問いがどれほど切実なものであるか、ということです。
単に知的興味というだけならば、それこそどうでも良いことでしょう。
「悟り」という言葉は、禅において非常にナイーブなものになっています。あまりにも際どく微妙な言葉だから、曹洞宗では禁句にしてしまっているくらいで す。そうなのです。曹洞宗では、見性だの悟りだのと言うことはご法度なのです。その根拠は、道元禅師の書かれたものの中に見性を否定しているような文言が ある、ということらしいです。臨済宗では、見性というものをバーゲンにかけることで、その真を失ってしまいました。今や臨済宗は、奇怪な体育系的集団に なっているようです。少なくとも公案禅などではなく、丹田禅というべきものになっています。
結局、「悟り」とは何なのか、ということが分からなくなってしまっているのです。そりゃそうです。悟った人がいないんだから、分かるはずがありません。悟ったようなことを言う人は沢山いるようですが・・・。
ただ、私の考えでは、「悟りとは何か」とか、「誰と誰の悟りは同か異か」とか、「誰の悟りは浅いか深いか」とか、「誰それは悟っているのか、いないのか」 というような問いは意味が無いと思っています。おそらく、釈尊にそのような問いをすれば、彼は「無記」で応えるはずだと思います。そのような問いは、その 人に解放をもたらさないからです。
野次馬根性からすれば、非常に面白い問題であり、知的好奇心をかきたてるには格好の物だと思いますが、それは、人の苦しみを暴き出し、破壊するものではなく、ただの知的玩弄物に過ぎません。
かつて、EOが「後、十秒で死ぬとしたらどうか」と問うた時、私は、初めてこの「悟り」の呪縛から離れました。正にそれまで「悟り」が呪縛だったのです。 それは何かしらの「結果」を求める心が元にあったからなのでしょう。それを「求心」とも呼びますが、そういうものがボコッと落ちたのでした。
驚いたことには、そこが、それこそが、求めていたものだったのです。そこに「只管」の当体があったからです。
あまりにも逆説的ですが、「悟り」の無意味なる地点に至って、「悟り」が無用になったのです。そうしてみると、「悟り」というものとか、少林窟でやかまし く言う「一隻眼」だの「大悟」だのということが、非常につまらなく感じられます。真剣そうな振りをしていても、ただの遊び事だからです。
そこで、末期の救い、という話です。
先ず、ダンテス・ダイジの言葉を拾ってみます。
君そのものが
欲望と苦悩なのだ
君という渇望には
決して絶対確実な安心がありえない
君そのものが苦であることを
全身全霊でわかった時
君は1ミリも動くことができなくなる
人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、
全面的に理解されれば、
そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。
ここで「君」と呼ばれているのは、通常の意識での私たちです。頭の中の電気信号です。
そこには、絶対に救いはない、と断言されています。
しかし、一方では、「有情非情同時成道。山川草木悉皆成仏」なのです。既に。
だとすれば、救いようはないし、救うようもない、ということになります。
何もできない。
「救う」などという言葉は、傲慢不遜ですらある。大きな勘違いに過ぎない。
自ら末期の人となり、心の果てた者となって、共に只在ることしかない。
そのことが、共鳴現象を引き起こし、人をして寂滅に導くことを、僅かに期待しながら・・・。
十年来、このことを語ることがなかった。語る相手がいなかったからです。
今、あなたに何か語らなければ、と書き始めてはみたものの、支離滅裂、言葉足らず、曖昧模糊なることお許し下さい。今はこれ以上には書けない。

では、ご法体ご自愛下さい。
                               合掌
平成十六年五月一日
*************************

「私」が悟る、とか、「私」が救われる、とかという表現は、
論理的誤謬だ、ということです。

⑥君の姿は、どこまでも、こっけいで、哀れだ。

チャールズ・チャップリンの「モダン・タイムス」を見た。
(ホームセンターで格安DVDを売っていたのです。)
こんなに素晴らしい作品だとは知らなかった。
すっかりチャップリンのファンになってしまった。
彼の鍛え抜かれた笑いの芸は、尊崇に値する。
滑稽で、哀れ、というのも良いかも知れない。
「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」(チャールズ・チャップリン)
軽やかで、自在なフットワークで人生したいものだ、と切に願う。


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