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Don't Trust. Verify.

常に新たなる時代をかき分けて、生き抜いて行かれますように。

何か役に立つようなことも言えないので、以下、自己反省の独白(毒吐)です。
noteでも書こうかとも思うのですが、あまり人に言うべきことでもなく、
他に聞き手を想定出来ないので、お許し下さい。
でも、全部読んで感想を言わなくちゃ、などと負担に思わないで下さいね。

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Don't Trust. Verify.
「信頼するな。検証せよ。」
これは、ビットコインを開発しているBlockstream社のスローガンです。
仮想通貨の根元であるビットコインの基本思想を表現しています。
それは、中央集権的な「権威」を「信頼」するのではなく、みんなで「検証」してシステムを維持・発展させて行くことです。
国家や銀行を信頼して成り立つ中央集権的システムではなく、
そのような権威無しに、分散型で取り引きを可能としたものがビットコインなのです。
そこにヒーローはいてはいけなくて、ビットコインを発明・開発したサトシ・ナカモトは、2年で、きっぱりと姿を消しました。

私が大学の頃、高橋桂子の『真創世紀』を読みました。
霊の世界というものを見て来たように書いている本でした。
死んだ後には死後の世界というものがあって、霊界というものがあって、守護霊がどうとか、とかいうものでした。
この人は、私よりも少し年上の人で、高橋信次の娘です。
彼女がこの本を書いたのはまだ大学生の時だったようです。
この人が、嘘を書いているようには思えませんでした。
それくらい、リアルに、当たり前のように書いているのでした。
その話が本当ならば、死んでもその後の世界があるわけで、死は単なる通過点に過ぎません。
今の生き方についても、根本的に対処の仕方が違って来るように思われました。

しかし、その話は、信じないことにしました。
それは、私には、その話の真偽を確かめる方法が無かったし、確かめる方法も提示されていなかったからです。
その本を読む前に、ニーチェを読んでいました。
『ツァラトゥストラはこう言った』という本の中で、
「世界の背後を説く者を信ずるな」というような言葉があったのです。
それで、ニーチェの助言に従って、霊界という「世界の背後」は信じないことにしたのです。

大学を卒業して、働き始めた頃、クリシュナムルティの本を読みました。
この人は本当のことを言っているな、と感じられましたが、
では、どうすれば良いのか、ということは、さっぱり分かりませんでした。
『生と覚醒のコメンタリー』という本の後書きの解説に「クリシュナムルティは禅に似ている」というようなことが書いてありました。
で、「そうか、禅か」というわけで、禅に興味を持ったわけです。

原田祖岳老師の本の中で、老師が学生の頃、人生に悩んで、各宗派の偉い人に手紙を出したら、
円覚寺の釈宗演老師から返事が来て、「そんなことは見性すれば朝飯前に解決する」と言われたとのことで、
それで、本気になって坐禅するようになったというようなことが書いてありました。
それで、私も「見性すれば万事OK」なんだ、ということが「刷り込まれて」しまったように思います。

しかし、いざ坐禅を始めてみたものの、これがなかなか雲を掴むようなものなわけです。
坐禅すれば良い、と言っても、その坐禅はどうすれば良いのか、ということが判然としないのです。
どうすれば良いのか、ということを誰も明確に書いていないし、参禅会に行っても全く指導されないのです。
文字通り、「形だけ」なのです。
見様見真似で、なんとかそれらしく振る舞うことしか出来ないのです。

仕事を辞めてしまった勢いで、アパートに籠もって独坐してみたのですが、
闇雲にやってみても、埒が明かないのです。
すぐにちょっとした錯覚が起きて、それが何かスゴイことかも、と思ったりしてしまうのです。
(道を踏み外すのは簡単です。)

ほとほと困っている時に、新宿の紀伊國屋書店で少林窟の『坐禅はこうするのだ(上・下)』に出会ったのです。
ちょうど出版されたところで、平積みされていました。
ちょっと立ち読みしただけで、びっくり仰天しました。
どの本にも、どこの参禅会でも明示されていなかった「方法」を詳細に指導している様子が見て取れたからです。
ここならば、坐禅のやり方をはっきり教えてもらえるに違いないと思いました。
そして、実際に少林窟に参禅し、確かに間違いないと確信したので、少林窟で修行することにしたわけです。

中略

その元になっている欓隠老師もおかしいところがあります。
66歳の時に、畢生の大作『槐安国語提唱録』が完結し、その「欓隠後語」の中で、
24歳の時、初めて佛通寺の臘八接心に参加して、「㘞地一下」を得たという話を書いています。
それは、釈尊を始めとした祖師方の見性の因縁を列挙した後で、自分の体験として披瀝しているものです。
ところが、大智老尼は、欓隠老師の『永嘉大師証道歌提唱』の巻末に「欓隠老大師の行履」という文章を書いていて、
「明治三十五年、歳四十、偶々美濃の国虎渓山に在って、思はず天地と融合し、古人我をあざむかざるの大真理を徹見す。」
とあります。
40歳の時、「大悟」したというわけです。
この話は、義衍老師も聞いているらしいのですが、その表現は、
「スズメがおりてきて、ピョンピョン飛んでおるのを見て、初めて今までの不自由さがコロッと落ちた」
というものです。
「スズメがピョンピョン」が「天地と融合」という話になるわけで、うっかり言葉に乗ると危ないです。
しかも、欓隠老師自身の文章には、40歳の虎渓山の一件は、どこにも出て来ないみたいで、
佛通寺の一件を「㘞地一下」と主張しているので、全くおかしいのです。

信じる・信じないではなくて、自分で「確かめる」ことが出来ると思ったから、私は坐禅に取り組むことにしたのです。
ところが、いざ、やり始めてみると、「悟り」だとか「見性」だとかの話に絡め取られて、
そういう昔話を、勝手に信じ込んでいるのでした。
そういう昔話を信じた上で、「それ」を確かめようとしていたのです。
方向が逆転してしまっていた。
逆立ちしてしまっていたのです。

では、何が問題なのか。
Don't Trust. Verify.

そもそも、何故、修行などというものを始めたのか。
これが、最重要ポイントです。
必ず何か問題があって、それの解決のための方法論として、修行というものにたどり着いているはずです。
その典型であり、手本が、釈尊です。
釈尊は「苦」の解決のために修行を始めたのでした。
決して、「悟り」が目的ではありませんでした。
「悟り」などというものは想定外だったはずです。
というか、釈尊が苦を解決した、そのことを、後世の人が「悟り」と名付けたのでした。

「問題の解決」は、「答えの発見」ではありません。
「問題の解決」は、「問題の消滅」です。
苦の「解決」は、苦の「消滅」なのです。
だから、「涅槃寂静」が仏教の根本的な教えになります。
それなのに、禅は、「悟り」と名付けた「消滅」という「もの」を探す旅を始めてしまったのです。
無理ゲーです。

釈尊は、苦を解決するために、苦の根源を探ったのです。
縁起の法という、十二因縁としてまとめられていますが、
それは、自己の心の探究の結果を定式化したものです。
最も重要なのは、縁起が始まる最初の所です。
最初は「無明」です。
後の大乗仏教の『大乗起信論』では、「忽然念起を無明という」と注釈しているそうです。
なにかの心(念)が、ふっと生じる、そこが問題なわけです。

人間の文明・文化というものは、言語の獲得から始まります。
言語によって思考が可能となったのです。
そして、伝達・伝承が可能となり、
更に、文字の発明によって、それが時間・空間を超えて拡散・蓄積されて行ったのです。
そして、膨大に膨れ上がった知識が、
個々人の人生の記憶と共に、その人の脳内に蓄積されて行っているわけです。
その脳内のデータベースの中から、ふっと一念が生じます。
それは言語によって生成された情報なのです。

私たちは、この世界に接した時、何かを感じたり、考えたりするのですが、
そこでは言語による記号操作が行われているわけです。
例えば、ミカンを見た時、「ミカン」として見てしまうのです。
日の丸を見た時、「赤い」と見てしまうのです。
そして、それに関連する膨大な情報が脳内で起動するわけです。

問題は、私たちは、この「世界」を生きている「つもり」になっていますが、
実は、「その物自体」ではなく、そこに投影された「言語世界」を生きているのです。
そして、苦は、この言語世界に生起しているのです。
これをエンタメ表現したのが映画「マトリックス」なのだろうと思います。

般若心経に「照見五蘊皆空。度一切苦厄。」とあります。
ここに釈尊の結論があります。
「空」とは「実体の無いこと」です。
「その物自体」と「言語世界」との境界を明確にすることが「照見五蘊皆空」だと思います。
「苦」が「言語世界」に生起するということは、「苦」という「実体」は存在しない、ということなのです。
だから、言語を離れることによって、「度一切苦厄」が可能となります。

もう四半世紀も前の話ですが、私は実家に転がり込んで7週間の独接心を試みました。
その終わり頃、右の股関節が亜脱臼のようになったらしく、歩くと脂汗が出て来るほどでした。
しかし、心に障るものは無く、それだけのことだったのです。
「痛い」とか「苦しい」という感情は無かったのです。
そして、「言葉を離れているということかな。犬と同じだな」と思ったのです。
犬も足を怪我すれば、その足を地面に着けないように不自由な歩き方をしますが、
そこに人間が感情移入するような「痛い」という「苦しみ」は存在していないのです。

苦とは、言語世界における混乱に他ならないのです。

禅の公案に「狗子仏性」というものがあります。
「狗子(犬)にも仏性がありますか?」と尋ねられた趙州禅師が「無」と答えた、というものです。
(僧問趙州。狗子還有佛性也無。州云無。)
「無字の公案」とも呼ばれて、代表的な公案となっています。
「無」ばかりが注目されていますが、この「問い」こそが重大です。
この問いは、非常に奇妙なのです。
そもそも、仏教では「悉有仏性」は周知のことなのに、どうしてこのような問いが生まれて来たのか。
私は、この問いを問うた僧は、犬になったことがあるのだと思うのです。
犬になった時、「仏性」だとかというものは存在していないことを確かめたのです。
そんなものは、言語世界の話だからです。
だから、趙州禅師は、その僧を認めて、「無」と答えたのだと思います。

仏教、そして、禅は、人生に問題を引き起こしている言語世界における混乱からの離脱を説いているのだと思います。
ただ、それは、言語を捨て去る、ということではないです。
原始に還るということではないのです。
その物自体とそれに関する言語情報を区別して、混同しないことです。
その境目を明らかにするのです。
その境目が、「今」にあります。

悩み・苦しみという言語世界の嵐と並行して、
青空が広がり、鳥はさえずり、爽やかな風が吹き抜けて行く世界が同時に存在しているのです。
天国とか極楽は、「今・ここ」に在るということでもあります。
私たちは並行宇宙を生きているのです。

Don't Trust. Verify.

‎2021‎年‎6‎月‎6‎日


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