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EOからの手紙20・只在宗

じゅー へ

いっやー、ひさびさに、『手紙』を書けるので、うれしいな。
言わずと知れて、私の文章は、途中から、たいてい誰に言っているのか、わからなくなってゆく。そういうわけで、のびのび遊ぼうと思って書き出した手紙がシリアスなものに仕上がって、つまらんタイトルをつけて一般原稿に回されるのが常である。
こういう膨大な手紙の中で、希に、まったくEO氏が個人にあてた手紙が存在するが、それはひどく希なことである。年に10通もない。
ようやく、十の文章の味わいを見て、その希な事がおき始めたので、
いっちょ、『ここだけの話』に没頭してみたい。といっても、別に秘密会議ではない。

・・・・・・・・・・
禅のことは、もう最近、私としては、どうでもよくなっているが、それとは別に
なんだか、十の手紙に味が出て来たね。
禅は味をうまいとか言うなというけど、うまいもんはうまいのである。
その味がなんなのかというと、「かろやかさ」である。
アライグマ君が言うところの『かろやかじゃねぇーんだ、おまえら!』のかろやかである。
結局、十の手紙がだんだん『かろやか』になってきたのは、
思考と無心が共存出来はじめたからである。
考えるときゃ、考えればいいのだし、座るときゃ、座ればいい。
思考と無心は、決して対立しない。
それは、僕らの『両足』である。
哲学者や世俗は、思考だけで歩くし、禅は無心だけで歩く。
すると、結果として『こっけい』な光景がそこに展開する。
彼らは『ケンケン』するのである。
数歩無心でケンケン歩いて、しばらくすると、ちょっと左足使ってケンケンとして、また、無心でケンケンする。こういうのアライグマ君がみていると
『ふつー、に歩けよ!!。・・げげん!!』とか、なるわけである。

こだわって、意識すると、人間みっともないったらありゃしない。
両足で、普通にあるけなかったら、いわんやダンスなんかできたものじゃない。
だから、十は、
思考になったり、無心になったり、シャキシャキと歩けるようになってきたね。
人は、片足だけに、こだわったときから、『妙な歩き方』になるものである。
だから、無心と思考は、共に必要だ。
俗に言う仏性とやらは、その健全な両足の歩行の上にのっかっているのであるから。
・・・・・・・・・
話は変わり、、
その『カラマーゾフの兄弟』ってわたしゃ知らんけど、
なんだか、読みたくなった。
以前から気になってたけど、
ようやく、ちゃんと、気になってきた。

出版社と著者なんだっけ??。今度手紙のとき、教えてくれ。
書店でいちいち探すのがうっとおしくて、注文してしまう主義であるから。
・・・・・・・・・*

『闇のめーそー、について。』
偽物のイメージを使って、本物に移行するのがEOの方法。と、い う わけ。
どんなイメージだって偽物に決まっている。
ところが、イメージが自殺してしまうのがたったひとつ闇または無という観念である。
他のどんな観念も、他人、社会、世界、宇宙へと発展してしまうのだが、
この闇や無という課題=フォーカス、公案、あるいは人造のイメージだけは、追及すると、追及者が自滅する。もう、こういうことも原稿に遥か昔に書いたよ。だもので
門下には、留意に役立つ適当なでっちあげのイメージ(頭上点とか)と、この闇以外のどんなイメージの瞑想も禁じている。
他のものは、『すっきり』するのには、とても使えたものではないから。

ちょっと、また長たらしい、注釈だったな。・・・うむ・

注釈が蛇足だというのは、まことに貴重な意見である。
ところが、希道氏とかには、必要だったりするのである。
彼は、「理屈なんかいらんのだ」、と言うことによって、まさに彼は理屈にとらわれてゆく性質だよ。どんなものでも、過剰に避けることは、執着を心の反世界に作り出す。

だから、いったのよ
『なんでも、よろしゅうござる』の精神を少しは方丈ちゃんも吸収したほうがいいって。
なんでも、よろしい、と心底言えるのは、死人以外ないのであるから。
生者は絶対に『いや、これだけは良くない』などと例外を必ず言うものである。

よしあしもなし、よしあしもあり、
ありもよし、なしもよし、
ありなしもよし、
なしありもよし、
ありありもよし、
なしなしもよし。
言葉に遊ぶは輪廻の鬼
口出し出来ぬ死人が佛。

*********
『ザゼンマンダラ』ってカタカナで書くと、
なんか、悪魔の名前か
アニメのロボットキャラクターみたいになって、
なんだか怖い考えになりそうだ・・・

えーっと・・ちょっと、少林窟は、つっつくのを休むよ。
なんでも、やり過ぎは効力がないのでね。
変に急に黙って、EOは、死んだふりでもしようかな。

だもので、座禅まんだらは、某に聞いてみるよ。
今の僕の調子で希道氏に注文とかすると、
「こいつ、どうせ、また文句ばっかし、書くんやろ」とか内心思って拒否される可能性が大である。
だから、座禅マンダラの注文は、
ちゃんと、彼とそれなりの「友好、あるいは悪友関係」が出来てからにする。
・・・・・・・・・
イッヤー、その玄心さんとか、奥さんって、なんか、ええーなぁー。うんうん。
その『言い張る』味が、私はとても好きだ。
その「言い張り」もまた、抜けた戯れにちゃんとなっているところがいい。
ギエン老師は、やっぱし好い事いうね。『芝居と行儀』か、、、
まさに、ド真ん中を・・言い得ている。感嘆・・。うむ。
芝居を演じて真に化けて、行儀を演じて無作法の法に至るわけね。
*********
また、話がとんで、
『悟りを求めている』ってのは、
『腹がへって食べたい』ってなもんだろう。
食べてから、どうこうするわけじゃないものね。
とにかく食べたいんだ。
くつろぎの理屈はいいから、くつろぎを食べたい。
それが本当の修行だよ。
食べたくなること。飢えて、渇くこと。
十、、某、、蓮、、、みんな僕と出会うころに『瀕死』だったんだ。
食べ方も、食べ物も、そんなものなんでもいいから、『食べさせてくれ』『一杯の水を飲ませてくれ』、の悲鳴だった。
だから、未だに僕は、そういう悲鳴にしか耳を貸さない。
だから、EOは、えらく、たくさん書いているようだが、範囲ときたら、ひどく限られている。
先日も、変な昔のオカルト雑誌の僕の記事をみて、原稿を読みたいとか言うのがいたが、いわずと知れて、門前払い。

まぁー、禅とかでも、なんとも心や欲望や禅経験で太ったくせに、
その上、グルメみたいに「噂の一品の『<あれ>』を食べたい」なぞと言うやからの多いことか。

そんな人間に、渇き切った喉を通る、一杯の水のありがたさが分かるわけがない。

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僕は、いまだって、何かを達成したなんて、まったく感じない。
何がここにあるのかと言われても、分からない。
達成物なんてどこにもない。
ただ、ひとつ言えるのは、達成しようとする焦りは、なくなったみたいだ。
結局、あまりに広大な宇宙の中で、何も出来ることなんかないという事実が強烈だったので、もう、何もやる気もしなかったしね。
再三言うように、僕には、悟りなんていう変な嘘やトリックの言葉よりも、
たくさんの人に『くつろいで』ほしい。
これまたあまりにも平坦な微妙な言葉で誤解も多いだろうけど、
くつろぎだけが、法なのだと思う。
法の言葉の方便はいくらでも、単純化されてよいし、簡潔で、素朴であるべきだろう。
もう、変な言葉で世間を迷わせたくないし。
ただ、この、『くつろぎ』や『幸せ』は、
いままでも充分に人を苦しめてきた嘘のひとつだ。
だから、僕の文章だってかなり臭過ぎるが、
それでも、なんとか、もっといいものを、と思った結果が、
なんと『死』という用語または<現象>なのだった。
そして、自分の経験のテープを逆回ししても、それ以外の要素はまったくなかった。
決定的なあの日の原因は瞑想や座禅ではなかったし、修行じゃない。
やっぱり、無常性、死、老い、、虚無感
だから、どこかそれは『釈迦的』だった。

**********
あなたの「その朝」、
高校の時の・・・その朝。
そこには、僧侶もなく、三宝もなかったはず。

なのにそれが起きたのだから、
それは三宝の中にないのは、歴然とした事実である。

では、そこに何があったのだろう?。
それを起こす状況設定の原因は絶対に存在する。

ひとつには、目的がないこと。
ひとつには、することがないこと。
ひとつには、考えることもないこと。
ひとつには、肉体がリラックスしていること。
ひとつには特別な座法や構えがないこと。
ついでに言えば、
どっかパーになって脳天か、前頭部に、やや留意していたかもしれない。
気候は、寒くもなく暑くもなし。

だから、これを再現するのが、本当の禅寺だ。
となると、まず座法からして変だ。
「何かやるぞ」の構えは、よくない。
次に、とうぜん部屋は快適な温度であるべき。
『悟り』なんちゅー言葉さえも寺では禁止すべきである。
目的意識を持たせるような、心を騒がせるどんな言葉も禁止。

すると、もしもEOが寺を開山すると、
こうなってしまう。

戒律
好きなように、楽に座れ。
「悟り」とか言ったら、『体罰を強行いたします。えいっ!。』とかやる。
『ここは死ぬ楽しみの場所ですから、何やったって無駄ですよ、ほっほっほ
ただ、何もしないという娯楽施設ですよ。』とかいうのが提唱。
そういう事言っていると、弟子とかが
『どーして、こんなことしてなきゃならないんですか?』とくる。
するとEO和尚曰く
『じゃー、君は、ここでなんでそんなことしてんだい?。嫌ならやめなさい。
ここは、ただ座るのが『好き』な人の集まりだよ。嫌ならやめなさい。』となる。

門前の一句はこうなる。
『悟りの欲しいものは他の寺へゆけ。
只の欲しいものは少林へ行け。
印可の欲しいものは発心へ行け。
知識の欲しいものは図書館へ行け。
娯楽の欲しいものは遊園地へ行け。
人間関係の欲しいものは世間へ行け。
異性の欲しいものは、酒場か売春宿へ行け。
だが、ここは、
くつろぎの欲しい者の場である。
また死に場所の欲しい者は、ここへ入るべし。』

これが死人禅寺である。
いつの日か、そういう寺をあなたが世の中に出してくれ。
わたしゃ、その内面の基礎工事を今やっているんだからね。

そして、人々は、究極のくつろぎが、
死と隣合わせで、まるで混然一体としていることをいずれ、知らねばなるまい。

悟りなんて、そんなもの、いらないのだ。
いらない、という中に、まさにEOの言う悟りがある。それは悟りという用語では
とても言い尽くせないほど、ひとりの人間を深く満たす。
それは、まったく、あなたが言うように、
『いつでも、いまそこで、そうなのだ』
ぎりぎりの生は、ギリギリの死でもあり、混然としている。
どこも、我々はほんとうは、いつも行き場などないはず。
だからと言って、行き場がないからといって、力んで守るような『今』でもなかろう。
じゃー、その今をとっぱらったら、
何がどうなるのだろう?。
ん?。
・・


その時、やっと、あなたの『あの朝』の香りがそこに在る。
それは、いつだって、ずーっと、そこにあったのだから。

今に「動かない」という『ふんばり』と
今から動けないではないかという『窮屈さ』は共に、的が外れる。

ゆるんだら、うごいていなかった、、、という『結果論』がすべての道で正しい。
気がついたら、そうだった、というだけ。

ただ在ることをたまたま禅と名付けたとしたら、
やっぱり、その名付けるのが、そもそもの間違いかもね。
『ただ在ること』で良かったのに。
『ただある宗』でよかったのだ。
『只在宗』しざいしゅう・・・・・・・・・・

そうそう、インドのプーナの寺でそこの幹部に面接したときに、
彼は、「明日の朝ダイナミック瞑想があるからぜひ、参加してください」と言った。
私は通訳に言った
『日本じゃね、全員そんなものやってらぁー。
サラリーマンも主婦も、禅寺の僧侶も全員、
頭の中はダイナミック瞑想、混沌瞑想、狂乱瞑想だ。いまさら、やる必要もない』

言わずとしれて、そいつは馬鹿なので理解できないので、通訳に通訳を止めさせた。
・・・・・・・・・
禅寺をも含む、これが精神世界の現状だ。
バグワンすらも、それをやってしまった。
走らせて、走らせてから『さぁー、リラックスだ』と言う。
禅は、悟りだ悟りだ、と言ってから『さぁー、そんなものに構うな』と言う。
私は、幸せ、くつろぎ、くつろぎと騒いでから『さぁー黙れ』と言う。

EOは言う。
まぁー、やりたいようにやりな。
でも、そんな探求なんて、なんの意味もないんだから、
最初から、のんびりすればいいじゃないか?。
問題は、『どうやって』のんびり、くつろぐかじゃないんだ。
スナドリネコさんの言うように、本当の大問題は、
『どうして、くつろげないか』なのだ。

EOはその為に、ここ2年を執筆に費やした。
「どうやって」、くつろぐかという手法には、
全く彼は単純な瞑想法の繰り返ししか言わない。闇、脳天留意、歩行禅、茶碗禅・・・
その他の彼の言葉は、どうやって、とか、なんのため、ではなく、
『どうして、くつろげないか』という原因への、膨大な生物学的観察日記だった。
そして、いわずと知れて、それは
本来その、くつろぎを達成すべき禅寺にも、その毒矢は向けられた。

十の、あなたの、「あの朝」の状況の中に
本質の仏法の戒律、全部の法がそこに、ちゃんとあるのだ。
それに比べたら、なんと寺や師家には、余計なものがあることか?。
そんなものは、いくら、社会的な常識のバックアップで正当化したって、
私の前ではクズ同然だ。
まだしも、私は、
団地の階段で乾いて死んでいる、名もない虫の死体に
「よく生きて、よく死んだね」、と、深く一礼するだけである。

そういう一礼を捧げたくなった師など、私には、ただの一人もいない。
むしろ、あなたや某や蓮に、限りなく私は純粋に一礼する。

僕が、少林窟へ行く縁が熟さないのは、ただそれだけだよ。

真法は 只在(しざい)にありて 寺になし
無知に漂う 風こそ我家

ふつう、は、こういう一句で終わる手紙であるが、

しつこく、続くのである。

と、みせかけて、

本当に終わるのである。


これすなわち、

山の方に隠れているとみせかけて、
その実は、穴の方にかくれていると思わせて、
穴を掘らせるために山の方に隠れているのだと思わせて
山を掘らせる、アライグマくんの策略だった。


1994 2/3 EO


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